62話「夜市」
目を開けたときには、もう夜が明けていた。
カシアンに看病されながら、一度も起きずに眠っていたのだという。
横たわるベヒモスの巨体からは、薄い毒霧が絶え間なく立ち上り、近づくことすらできなかった。
死骸をその場に残し、私とカシアンは馬に乗った。辺りを埋め尽くす軍蟻族に案内され、森の際まで進んだ。
巨大な葉の天井が途切れ、目の前が一気に開けた。
樹海の向こうには、果てのない平地が広がっていた。馬の膝まで届く長い草が地平線まで続き、風が渡るたび、葉裏を銀色に翻して波打つ。
ミハイルは馬の傍らを、足を引きずりながらついてきた。
「カシアン様……進むのが速すぎます。僕が可哀想だとは思わないんですか……」
「一刻を争う。それに大袈裟だぞ、ミハイル。昨日まで高熱を出していたアリアでさえ、文句一つ言わず馬に乗っている」
「うう……」
隣でオズが、そんなミハイルを横目で睨んだ。
「ヒールをかけたのに……痛いはずないんだけど」
「本当に痛いんだって! 筋肉が裂けてるみたいなんだよ……」
軍蟻族たちの行軍が止まった。女王とヴァルマがこちらへ近づいてきた。
女王が短く告げ、ヴァルマがその言葉を伝えた。
「私たちはここから南西へ向かいますので、案内はここまでが限界です。ここから平地に沿って南へ半日ほど下れば、翠蘭へ着くはずです」
「ここまで案内してくれただけでも十分感謝する」
女王がさらに言葉を続け、ヴァルマがこちらへ向き直った。
「おかげで産卵期を無事に迎えられる、と感謝しておられます。あなた方の勇猛さは忘れない――いつであれ軍蟻族に出会えば、必ず歓迎するとのことです」
「それはこちらとて片づけねばならぬことだった。お互い様だ。むしろ俺たちのほうこそ、軍蟻族に大きく助けられた。本当に世話になった」
カシアンの返礼に、女王も一度頭を下げた。軍蟻族の群れが歩き出す。
ヴァルマが私のそばへ来て、懐から、小さな飾り結びをあしらった髪紐を取り出した。
「翠蘭はとても暑い国です。皆、髪を結って過ごしていますよ。贈り物に一つ差し上げてもよろしいですか?」
私は頷いた。
「うん……」
差し出された髪紐を受け取り、背まで流れた髪を片手でまとめた。うなじのあたりで結ぶと、首筋に貼りついていた熱がすうっと引いていく。
ヴァルマがやわらかく笑った。
「よくお似合いです。では、私もこれで失礼いたしますね」
背を向けかけた彼女を、慌てて呼び止めた。
「ヴァルマ!」
彼女が振り返る。
「本当にありがとう! またね、ヴァルマ!」
「ええ、もちろん。いつかまたお会いしましょう」
ヴァルマは手を振り返し、軍蟻族の列へ戻っていった。
カシアンが手綱を握り直した。
「ミハイル、オズ。ところで、俺が翠蓋樹海にいると、なぜ分かった? 歩いてきたのではあるまいな」
「まさか。馬で橋を渡っている途中、ミハイルが急に、森の中にカシアン様がいると言って騒ぎ出しまして……丘のあたりに適当に馬を繋いで下りてきたんですよ」
オズが言うと、カシアンの視線がミハイルへ移った。
「橋から俺のいた場所までは、優に一時間を超える距離だぞ。何が見えるというのだ」
「見れば分かりますって! 僕が何年カシアン様を見てきたと思ってるんですか。カシアン様がどこへ行かれても、僕には全部分かります」
カシアンが顔をしかめ、「気味が悪い……」と呟くと、ミハイルが目を丸くした。
「気味が悪いだなんて! ひどいです、カシアン様!」
「気味も悪かろう。無駄に目と耳ばかり利いて」
「圧界に入れば、皆そうなるものですよ。そういえばカシアン様、圧界に至られたそうですね! おめでとうございます。本当に大変な進歩です! この目で見られなかったのが心残りですよ……」
カシアンは自分の手へ目を落とした。
「いや。運がよかっただけだ。あれ以来、剣気を伸ばすこともできていない。道のりは遠い」
「それが大事なんです。一度感覚を掴めば、次はあっという間ですから。翠蘭に着くまで僕が教えて差し上げますので、ご心配なく」
カシアンが呆れたように首を振った。
「何を言っている。ミハイル。おまえは今すぐ、オズと王国へ戻れ」
「何をおっしゃいますか! 僕はカシアン様の護衛騎士です。カシアン様を補佐しお守りするのが、僕の役目でしょう」
カシアンは懐から星貝を一つ取り出した。来る道でヴァルマから一つ受け取ったものだ。それをオズへ差し出すと、彼女が歩み寄って受け取った。
「これは何ですか? 貝……?」
「星貝というものだ。位相の波動を記憶し、紋様として刻み込む、貝殻を削って作ったものだ」
カシアンはいったん言葉を切り、続けた。
「そこに刻まれた波動の周期は、北で観測された黒雪の発生周期とほぼ一致する。しかも、黒雪が降る数日前には、決まって同じ波動が現れている」
星貝を覗き込んでいたオズが、勢いよく顔を上げた。
「位相の波動……まさか」
「ベヒモスに関する情報と、それを王都へ持ち帰れ。今はそれが最も急を要する。万一、黒雪の発生を事前に察知し、避難できるようになれば、北方防衛の大きな転換点になる」
オズはそれを懐へしまい、頷いた。
「ですが、カシアン様を置いては――待て、オズ! どこへ行くんだ!」
ミハイルが言い終わるより早く、オズは彼の身体を宙へ軽く浮かせ、巨大な橋のかかる方角へ歩き出した。
「カシアン様のご命令でしょ。報告に行けって。それに――」
オズがこちらを一瞥した。
「あの方たちは弱くないよ。今は星貝を王国へ届けるのが、みんなのために一番大事なこと」
カシアンへ向き直り、深く頭を下げた。
「では、私たちはこれで失礼いたします。どうか星様のご加護がありますように」
「ああ。気をつけて戻れ。ミハイルを頼んだぞ、オズ」
私たちは二人きりで、がらんとした野原へ進み出た。
***
カシアンと他愛のない話を交わしながら、馬は平原を進んだ。陽が傾き、草むらの間によく均された土の道が現れる。
ふとカシアンに尋ねた。
「ねえカシアン、圧界って何なの?」
カシアンが手綱を握ったまま答えた。
「戦士として到達しうる高い境地のことだ。周囲の空間そのものを押し潰し、自分の軌道の内へ引き込む状態を指す。王国の中でも百人ほどしかいない」
私が指を一本ずつ折ってみせると、彼は言葉を継いだ。
「魔法使いで言えば……覇天。自分の魔力で一帯を支配する水準と近い」
「じゃあ、カシアンは圧界なの?」
「いや、まだだ。俺はその下の重甲にいる。身体と武器の両方へ、同時に魔力を纏わせる段階だ」
しばらく蹄の音だけが続いた。
「案ずるな。君は必ず守る」
「うん……ありがとう」
私たちはそのまま、道に沿って進んでいった。
***
日が沈む頃。
いつからか、頭の奥を細い針でつつく痛みが、断続的に走っていた。
眉間に手を当ててそっと揉んでいると、明るい灯が目の端に入ってきた。
「着いたぞ。ここから先が翠蘭の街だ」
道の果てに、低く広い石造りの門が立っていた。柱に巻きついた蔓の紋様の上で、色とりどりの布が風にはためいている。
門の内側へ入ると、夕焼けの中で街を照らす光は、王国で見ていた青いものではなかった。黄みを帯びた温かな灯が、路地という路地の両脇に連なっている。
高い木柱の上に建つ二階家が、互いに肩を寄せ合って並んでいた。大きな葉を重ねた軒下からは、細い真鍮の管が枝分かれして伸び、低く湯気を吐いている。
道では三輪の荷車が人を乗せ、蒸気を噴きながら走っていた。
行き交う人々は薄布の服をまとい、肌は淡い褐色。髪は黒か、濃い茶色だ。
炭火に脂の落ちる香ばしい煙。香辛料を炒める、つんとして甘い匂い。
私は馬の上から夜市の露店をきょろきょろと見回した。口元へ垂れかけた涎を、慌てて手の甲で拭った。
露店を目で追う私に、カシアンが気づいた。
「そろそろ日も暮れた。宿を取る前に、食べるものでも買っていくとしよう」
「うん!」
路地の奥へ入ると、小さな木造の宿が立っていた。
部屋は狭かったが窓が大きく、開け放つと下の市場のざわめきと匂いがそのまま流れ込んでくる。床には薄い茣蓙が敷かれ、天井では木の羽根がゆっくり回って熱い空気をかき混ぜていた。
床に置かれた料理を見下ろした。
葉の上には、プリンを思わせる真っ白で丸い食べ物。その傍らには、真っ赤な汁を満たした小さな器が置かれ、赤く茹で上がった海老と青い葉が浮かんでいる。
「遠慮するな。冷めてしまうぞ」
料理に添えられていた木のスプーンは、一本だけ。私はそれを彼へ差し出した。
「ううん、カシアンが先に食べて。昨日、いちばん頑張ったのはカシアンだもん」
彼はスプーンを受け取ると、具ごと汁をたっぷりすくった。湯気をふうふうと吹き払ってから、言った。
「妙なことを気にするな。ほら」
カシアンは片手をスプーンの下に添え、そのまま私の口元へ運んでくる。
私はそのスプーンと彼の顔を見比べて、結局、口を開けた。
レモンを思わせる酸味が舌先を撫でて消えると、あとから濃い香辛料と海老の旨みが押し寄せてくる。
噛んだ海老の身から深い甘みが滲み出し、舌の上で淡雪のようにほどけて――その味に感嘆しかけたところで。
喉の奥に火がついた。
「はふっ!」
口を大きく開けて手で扇いだ。舌がびりびりと痺れ、鼻の頭に汗が浮かぶ。
カシアンがくすりと笑って水を渡し、指先で私の口元を拭ってくれた。
「何をそう大袈裟にしている」
「だって、はっ……辛すぎるもん!」
「どれ、俺も食べてみよう」
カシアンは、たった今私がくわえたスプーンで、そのまま汁をすくった。
私はそれをぽかんと眺めた。彼は一瞬のためらいもなくスプーンを口へ入れ、淡々と飲み込む。
その途端、耳の先まで熱が上った。膝の上の服の裾を強く握りしめて、カシアンを見つめる。
彼の喉仏が、ごくりと一度動いた。
数秒後、拳を口に当てて咳き込んだ。肩が二度ほど跳ね、目尻にはうっすらと涙が滲んでいる。
「ほら、辛いって言ったのに!」
「……少しも辛くない。この程度が何だ」
隣の水を差し出すと、彼は一息に飲み干した。唇の周りが赤く染まっている。
「ぷっ」
私が笑うと、彼は長く垂れた前髪を一房いじりながら言った。
「本当に辛くないと言っている」
今度は私が手を伸ばし、彼の口元を拭ってあげた。
指先が唇に触れた瞬間、彼の肩がびくりと跳ねる。顔がさっと後ろへ引かれ、スプーンを握った手が宙で止まる。
「さっき拭ってくれたの、これでお返しだよ」
カシアンは何も言わなかった。触れられた唇を手の甲で一度こすると、黙ってスプーンを差し出してくる。
窓の外では夜市の灯が変わらず黄色く揺れ、どこからか耳慣れない節の歌声が流れ込んでくる。
私たちは辛い汁を一匙ずつ分け合った。夜市の歌が途切れる頃には、器はすっかり空になっていた。
***
寝床に就く前、カシアンに頼まれ、私は鳥の姿になっていた。
そして今。
「駄目! 駄目だってば!」
『お願い……ひと口だけ! ひと口だけ!』
カシアンの手のひらには、穀粒がこんもりと盛られていた。必死に後ずさったのに、首だけが勝手に前へ伸びていく。
彼が手のひらを揺らしてみせると、とうとう首は私の意思などお構いなしに、穀粒をついばみ始めた。
「本当に太るんだってば!」
『はむはむ。でも味わったのは君だけでしょ! わたしにだって食べる権利はあるんだから』
頭上から、カシアンの声が降ってきた。
「ずいぶん賑やかに食べるものだな。それより……俺は君を何と呼べばいいのだ。アリアか? ププか……?」
「アリアだよ、絶対アリア!」
叫んだところで、聞こえるのは鳴き声だけだ。
気づけば両足とも彼の手のひらに乗り、嘴は休みなく穀粒をついばんでいた。カシアンは床に腹這いになり、顔を私の高さまで下げて、興味深げに観察している。
「ふむ……やはり鳥のときはププと呼ぶことにしよう。せっかく付けた立派な名だからな」
『冗談だよね……?』
カシアンはさらに言った。
「君は本当に秘密が多いな。異端の刻印があり、魔力を封じられ、おまけに鳥にも変わる……」
穀粒をついばみかけた嘴が止まった。カシアンの顔を見返すことができない。
「まあ、今すぐ何もかも話せとは言わん。ただ……いつか俺にも話していいと思えたら、教えてくれると嬉しい」
『…………』
手のひらの穀粒がなくなると、クロノアはようやく身体の主導権を返してくれた。
カシアンは残った殻を捨てるため、部屋を出ていった。
その間に人の姿へ戻り、服を着て、床に敷かれた薄い毛布の上へ横になる。
戻ってきたカシアンも、私から人ひとり分ほどの間を空けて、身を横たえた。剣はすぐ手の届く場所に置かれている。
何度目かの寝返りを打ったところで、カシアンが言った。
「明日も早く発つ。もう寝よう」
「うん……ごめん。おやすみ、カシアン」
「ああ、おやすみ」
目を閉じると、窓の下から聞こえていた夜市のざわめきも、次第に遠のいていった。




