61話「凍湖」
氷の翼が樹海を裂いた。
だが五分も経たないうちに、頭がくらりと回った。
必死に目を開いていても、視界は縁から黒く沈んでいく。身体が傾き、そのまま真っ逆さまに草むらへ落ちた。
湿った土が鼻の奥まで入り込んでくる。生臭い匂いが頭を刺す。
杖で上体を起こし、残った魔力を絞り出す。けれど、氷の翼は形を結ぶ前に崩れた。
『アリア、うぷっ……無理しすぎじゃない……?』
「駄目。カシアンが……危ないの。ベヒモスは、頭を潰しても意味がないんだから」
杖にすがり、何度も浮かび上がろうともがいていると、クロノアが言った。
『どうしてそこまでするの? 記憶のない君にとって、カシアンと知り合ってまだ一月も経ってないんでしょ』
返す言葉がなく、杖の先へ目を落とした。
「そうだよね。でも……何も思い出せなくて、怖かったとき、私に手を伸ばしてくれた人だから。私の世界に色を塗ってくれた人だから」
冷たい汗を手の甲で拭い、また杖を持ち上げる。
「それだけじゃないよ。軍蟻族も、オズも、ミハイルも。誰かが怪我するのは、いやなの!」
もう一度氷の翼が芽吹き、身体が空へ跳ね上がる。
『そう……そうだよね』
クロノアが小さく呟き、それから声を張った。
『少し手伝ってあげる。ちょっとだけ身体を借りるね』
その言葉を聞いた瞬間、私の手が独りでに持ち上がった。
『――我が権能の届くところの時よ、止まれ』
だが周りの木々は、変わらず風に身を任せて揺れているだけだった。
身体がまた自分のものへ戻る。
「何をしたの?」
『君の身体に溜まっていく負荷だけ、時間を止めたの。反動を先送りしてるだけだけど、今なら魔力を使っても、さっきほど気持ち悪くならないよ』
たしかに、内臓を絞られる吐き気も、頭の揺れも、だいぶ薄れている。
氷の翼を広げ、夜空へ舞い上がった。
「ありがとう。でも、全部止めちゃうのは駄目なの? 止まってるベヒモスを倒すとか」
『時間を止めたものには、こっちから干渉できない。わたしと融合した君だけが、どうにか動けるくらいなの』
「……思ってたより不便だね」
クロノアが喚き立てた。
『失礼だね! 止まった時間の中で情報を集められるし、魔力さえ足りれば過去にだって行けるんだから!』
「分かったってば。それより、急がないと」
氷の翼で夜空を切り、まっすぐ戦場へ向かう。ほどなく、無数の声が押し寄せてきた。
燃え上がる木々。その間で、ベヒモスの脚に縄をかけて引き下ろす軍蟻族たち。ところどころに、何かが赤く溶けて流れ落ちた跡が残っている。
その中心で、カシアンの声が響いた。
「もう一度行くぞ、ミハイル!」
両腕にいくつもの裂傷を負ったカシアンが叫ぶと、ミハイルが差し出された腕を踏んだ。
「はい、カシアン様!」
カシアンが腕を力いっぱい振り上げ、ミハイルがその上を蹴って跳び上がる。黄みを帯びた魔力の粒子が、彼の全身と、手にした巨大なロングソードを包む。
縄で縛られていない脚が彼を狙う。だが、そのたびに炎をまとった盾が現れ、軌道を逸らす。
ベヒモスの頭上まで跳び上がったミハイルが、剣を高く振りかぶる。
刃の延長上に、月光をまとった巨大な剣影が浮かび上がる。
それが振り下ろされた瞬間、ベヒモスの顔が動きを止めた。次の瞬間、顔が縦に断ち割られ、左右へ崩れ落ちる。
私は叫んだ。
「違う! 今のベヒモスの頭に、核はないよ!」
声は、遅れて空気を引き裂く轟音に呑まれた。強風に目が勝手に閉じる。
片手で風を遮って目を開けると、切断面では泡立つ新しい肉が盛り上がっていた。先に再生した下顎が、まだ宙にいるミハイルへ横薙ぎに迫っている。
ミハイルは剣を掲げて受け止めたが、衝撃に耐えきれず、森の彼方へ吹き飛ばされた。
「ミハイル!」
オズの声が、轟音の中を突き抜けた。
猛然と振り回される脚に、縄を握っていた軍蟻族たちが次々と弾き飛ばされていく。
オズが杖を掲げた。増幅石の先で炎が揺らぎ、軍蟻族たちの頭上へ、巨大な円形の炎盾が広がる。
それでも幾人かは盾ごと脚に貫かれた。ベヒモスの脚が引き抜かれた傷口から毒霧が噴き出し、触れたものを片端から溶かしていく。
カシアンは剣で脚を受け止めた。だが、胴より太いそれを支えきれず、地面へ弾き飛ばされた。
息が浅くなる。
カシアン、オズ、崩れていく軍蟻族たち。
目が何度も、そのあいだを行き来する。
『アリア、何かするなら急いだほうがいいよ! いくら君自身の魔力でも、自然に湧いたんじゃなくて無理に押し込んでるんだから、反動が来る!』
「そんなの私も分かってる……! でも、どうすれば……」
唇が細かく震えてきた。
作戦会議で聞いたカシアンの言葉が、頭をよぎる。
「百足は変温動物……」
口を引き結び、戦場のただ中へ飛び込んだ。杖を高く掲げる。
カシアンが私を見上げて叫んだ。
「アリア!! なぜ君がここにいる!」
その声を聞き流し、身体の奥へ意識を沈めた。
ペンダントが光を放ち、激しく震えながら空中へ浮き上がる。熱いものが全身を駆け抜け、心臓が重く脈打つ。
下から響いてくる無数の音が、耳から遠ざかっていく。
手が震えた。指が杖を掴んでいるのに、感覚が返ってこない。
耳の奥では、あの黒い女の声が鳴っていた。
――半端者。
その瞬間、杖に結んでおいた風切羽が細かく揺れた。
手の甲を、もう一つの温もりが包んだ。震えていた指が、次第に静まっていく。
胸の内に一枚の絵を描いていく。
満月の下、果てまで凍りついた湖。その氷の上に、数え切れず咲き広がる薔薇畑。
増幅石の内側で、魔力が激流となって逆巻く。
短く唱える。
「――凍湖薔園」
ベヒモスの上に、真っ白な結晶が一つ生まれた。
それは一片の雪となり、音もなく落ちてくる。世界のあらゆる音が、その小さな点へ吸い込まれていく。
完全な静寂の中、雪片がベヒモスの身体へ触れる。
瞬間、氷の波が奴の全身を駆け抜けた。続いて、無数の氷の薔薇の茂みが、ベヒモスの身体を絡め取り、丸ごと覆い尽くす。
湿った夜気が一息で凍りつき、頬を痺れさせた。
遅れて、ぱき、ぱきぱき――氷の爆ぜる音が、一斉に押し寄せてくる。
凍りついた巨体が震え、表面の氷が音を立てて崩れ始めた。
私はカシアンを見下ろして叫んだ。
「カシアン! 尻尾を狙って!」
カシアンは一瞬、目を見開いた。だが、すぐに剣を握り直し、全身へ魔力を巡らせる。
カシアンが駆ける。
だが幾本かの脚が瞬く間に氷を突き破って現れ、彼をめがけて振り下ろされる。
炎の盾がカシアンを包み、振り下ろされた脚を滑らせて軌道を逸らす。何本かは、態勢を立て直した軍蟻族たちが縄を投げて捕らえ、引きずり寄せる。
「カシアン様! 私たちを信じて行ってください!」
オズが声を張った。
カシアンは身を低く沈め、奴の腹の下へ滑り込んだ。
そして尻尾近くの甲殻の隙間へ剣を差し込んだ瞬間――凍った尻尾が勢いよく天へ跳ね上がった。
それに合わせて、カシアンの身体が空へ弾き出される。
私はもう一度、意識を集めた。
「――風の流れを辿り……凍てつけ……」
声は喉に引っかかり、途切れ途切れにしか出なかった。
「……霜氷翼」
カシアンの背から、淡い氷の翼が芽吹く。彼は空中で身を捻り、体勢を立て直す。
そのまま剣を頭上へ振り上げる。
透き通った青い膜が刃を伝い、空へ長く伸びていく。星明かりを含んだ青が、一度強く閃いた。
カシアンは息を吸い込み、短い呼気とともに剣を振り下ろす。
「ふっ!」
刃の軌跡に沿って、無数の星を宿した小さな銀河が流れた。斬撃の光が尾を切り裂きながら深部へ駆け抜け、潜んでいた核まで粉々に砕く。
氷の中でもがいていた巨体が、動きを止めた。
「圧界……!」
オズの口から、声がこぼれた。
全身の力が、そこで途切れた。
視界が狭まり、世界が手のひらほどの穴に縮んでいく。身体がどちらへ傾いているのかも分からない。
細い視界の向こうから、氷を蹴って駆けてくる足音が聞こえる。
虚空へ身体ごと落ちていく瞬間――温かく硬い両腕が、宙で私を抱きとめた。
月明かりの真下でも色を失わない、真っ黒な髪と、両の瞳。
彼へ手を伸ばした。
指先が頬に触れると、カシアンがその手を握ってくれた。二人の手首では、色の違う二つの時計が、同じ音で時を刻んでいた。
「よくやった、アリア。残りは任せて、ゆっくり休んでいろ」
答える代わりに、彼の胸へ顔を埋めた。瞼を閉じると、二つの時計の音だけが、意識の底までついてきた。




