60話「俯瞰」
オズは腕をぼりぼり掻きながら辺りを見回し、大きな葉を何枚か千切って簡単な敷物を作ってくれた。
私が片側へ座ると、オズも向かい側へ腰を下ろした。
「うう……虫が本当に厄介ですね。それで、魔法! アリア様、記憶が曖昧だとは伺っていますが、どこまで覚えていらっしゃいます? 学院ではいつも優秀だったと聞いてはいますけど、ひとまず……」
杖を掲げてみせた。
「……よく分かんない。頭に浮かんだ文字と言葉を叫ぶと、魔法が出るの。それだけ……」
「ずいぶん抽象的ですね。ちょっとペンダントに触れてもいいですか?」
「うん、いいよ」
オズが私のペンダントへ手を当て、目を閉じた。数秒後、再び目を開いた。
「これは……すごい。この魔力なら、王都全体へ一週間は供給しても余りますよ」
彼女は軽く咳払いをすると、指を二本立てた。
「では、基礎から。魔法は大きく二つの軸で回ります。一つは自分の魔力の〈属性〉、もう一つは〈方向性〉」
彼女が手のひらを上へ向けると、その上に魔力が凝った。形のないまま揺らいでいたそれが、淡い炎の綾を帯びる。手のひらの上に陽炎が立った。
「属性はこうして、魔力を外へ出せば自然に表れます。ご覧のとおり私は弱火性。少しだけ火に傾いているんです。これを無理やり氷へ変えようとすると――」
炎が一瞬、白く固まりかけて、崩れた。オズの額に汗が滲む。
「このとおり、同じ大きさの魔法を使うのに消耗が何倍にも跳ね上がります。さあ、アリア様もやってみてください。力を抜いて、ただ流し出す感じで」
言われたとおりに手のひらを開いた。
魔力が凝る間もなく、手のひらの上の空気が白く凍りついた。霜の結晶が手相をたどって伸び、細かな氷の粒が手のひらへぱらぱらと落ちる。
オズの口が半分開いた。
「……あれ。これ、魔力じゃなくて氷そのものが出てますね。しかも形を整えたわけでもないのに……これは完全に氷性です」
彼女はしばらく私を見つめてから続けた。
「じゃあ浮遊魔法は苦しいでしょうね。浮遊は風性ですから。アリア様には正反対です」
「そうなの? ちょっと浮いてるだけで気持ち悪くなって、頭も痛くなったんだけど……それも、そのせい?」
「それです。属性が合わないと身体のほうが先に悲鳴を上げるんですよ」
彼女は座り直し、指をもう一本立てた。
「そして二つ目の軸、方向性。攻撃か、シールドのような防御か、それとも治癒か、一つを選んで深く掘り下げるんです。もちろん全部やろうと思えばできますけど、魔法の根っこであるルーン文字はとても精密で、一画ずれただけで丸ごと使い物にならなくなりますから」
「じゃあ、みんなどうやって使ってるの?」
「そこで出てきたのが改良文字です。さあ、見ててください」
オズが虚空へ手を広げる。ファイア、と唱えると、彼女の前に手のひらほどの火が咲いた。
「このとおり、改良文字は短くて簡単です。その代わり、それ自体が固まった形なので、これで終わり。本来のルーン文字が持つ、際限のない応用が利かないんです」
彼女は炎を手の甲で払って散らした。
「では、私の得意技をお見せしますね」
虚空へ向け、低く唱える。
「――〈盾〉、ここに〈火〉を重ね、阻むものよ、燃えよ」
薄い膜が一枚、空中に生まれた。その表面を、赤い炎が水となって流れ回る。
私はそれをぼんやり眺めていた。
「どうです? 改良文字では絶対にできないことです。応用はルーン文字だけが――」
「うん……なんだか、全部知ってた内容な気がする」
「……えぇ」
オズの肩ががくりと落ち、シールドもすうっと消えた。
「私、今、一生懸命説明したんですけど……」
「ごめん。でも、なんか、前から知ってた気がして……」
少し首をかしげてから訊いた。
「じゃあ、ルーン文字をうまく組み合わせさえすれば、誰でも強くなれるの?」
「そこがまた、違うんです」
オズが手を振った。
「人によって魔力の出力も、収められる器の大きさも違います。どれだけ文字を組んでも、注ぐ水がなければ意味がない。アリア様は魔力が封じられていると伺っていますが、器そのものは残っているはずですから……」
彼女が手を伸ばし、私の胸元へ手を当てた。
指先がその場で止まる。笑みの残っていた目が少しずつ見開かれ、瞳だけが細かく揺れる。
「オズ……? どうしたの?」
彼女は手を引いた。喉仏が大きく上下する。
「……いえ。何でもありません」
何事もなかった素振りで手を打ち鳴らした。
「さあ、実戦! 百回聞くより、一回やってみるほうが早いですから」
「その前に一つだけ。詠唱なしで使うのは、どうやるの?」
「無詠唱ですか? あれはルーン文字を極めた人が、頭の中だけで文字を描くんです。暗算のようなものですね。できれば速いですけど……できるだけ声に出したほうがいいですよ。口でなぞれば失敗がぐっと減りますから」
オズが私の隣へ寄ってきた。
「魔力がいくら多くても、ペンダントに入っている量は決まっていますから、今日は改良文字で軽くいきましょう。まずはシールドから。さあ、続けてみてください」
「シールド」
薄い膜が目の前に広がる。
「お、一発で! じゃあファイア」
「ファイア」
「ウィンド」
「ウィンド」
炎が立ち上り、風が草の葉を寝かせる。オズが手を打って感嘆するたび、私はただ杖の先ばかり見下ろしていた。
口が忙しく動いている間、頭は別のところをさまよっていた。
「アリア様、あくびしました?」
「してない。してないよ」
「しましたよね」
日が傾くまで、私たちは同じ魔法を何度も繰り返した。
***
日暮れ時、汗まみれで戻ってきたカシアンは、私を仮の寝床へ下ろした。
私も一緒に行くと駄々をこねてみたが、彼は淡々と背を向けただけだった。
ミハイルもオズも、武装した軍蟻族の群れも、一緒に樹海の奥へ消えていった。
私はヴァルマが持ってきたスープをふうふう吹きながら、何の疑いもなく口へ運んだ。
スプーンを動かしながら、目ではヴァルマの背を追う。そして頭の中では、あの青黒い甲殻を何度も思い浮かべていた。
氷截線。そして霜氷翼。なぜか馴染んだ響きで浮かんできた、その言葉たち。
(氷截線じゃ顔ひとつ凍らせられなかった……どうすればいいんだろう……)
スープの器は、いつの間にか底を見せていた。
「ヴァルマ、これ、もっと食べてもいい?」
「あら、お口に合ったようですね。少しお待ちください」
ヴァルマの背が木々の間へ消えるなり、杖をついて身を起こした。
今だ。
杖を掲げ、魔力を押し込んで浮遊魔法を使おうとした、その瞬間――意識が根こそぎ暗闇へ引きずり込まれた。
***
目を開けると、果てしなく白い空間が広がっていた。
背後から軽く突かれる感覚に振り返ると、真っ黒な形が一つ、そこにいた。
私と同じくらいの背丈。背には畳んだ翼の輪郭。私とまったく同じ格好で、しゃがみ込んでいる。
「うわあっ! だ、誰……?」
彼女は何も言わず、ただ座っているだけ。
彼女が手を伸ばした。その手のひらの上に、百足が一匹載っている。
「百足……?」
彼女が答える。私とまったく同じ声で。
「うん、百足。森に棲むただの百足。君は百足について、どれくらい知ってる?」
「うーん……頭に核があるから、頭を潰したら死ぬでしょ? あと、毒があるでしょ? でも、なんで急にそんなこときくの」
目の前の彼女が、百足の頭を指でぐっと押した。頭が潰れ、赤い脚が一斉にもがき、やがて動きを止めていく。
「そう。それ以外は? すべての百足がそうなの?」
「それ以外って、どういうこと?」
「百足の話。森じゃなくて、砂漠や海でも生きられるんじゃない?」
顎に手を当てて頷いた。
「うん、そうかも。世界にいる生き物、まだ百分の一も知られてないっていうし」
今度は、彼女が反対の手に持っていたものを、ぽとりと落とした。身体の両脇に赤い剛毛がびっしり生えた、手のひらほどのゴカイだった。
「じゃあ、ゴカイについてはどれくらい知ってる?」
「答えたら、ここがどこなのか教えてくれる?」
彼女は何も言わなかった。
「分かった、分かった、言うってば。黙っていられると怖いんだから。ゴカイはね、核が頭と尻尾に二つあるの。だから捕食者に片方を食べられても、新しい頭が生えてきて生きていけるんだよ。ね、合ってるでしょ」
彼女はゴカイの頭を引っ張り、半分に引き裂いた。切断面から黄みがかった体液がぼたぼたと落ちる。
続けて千切り取った頭を握り潰すと、指の間から黒ずんだ赤がにじみ出た。
「うぷっ……気持ち悪い」
残った尻尾側の切断面から、肉が盛り上がり始めた。長さがいくらか短くなっただけの、まったく同じ姿になる。
彼女が口を開いた。
「さすが、よく知ってる」
「でしょ? 私ってちょっと賢い気がする」
「そうでしょうね。魔力も使えない半端者だもの。できることといえば、勉強と読書だけだった」
息が詰まった。指先が勝手に縮こまる。
「私、魔法使えるもん! 半端者じゃないもん!」
彼女は温度のない声で続けた。
「残念ながら、君は思っているほど賢くない。君の知っている情報がすべてじゃない。世界は広くて、まだ未知に覆われている」
「何が言いたいの……?」
「俯瞰して、アリア。同じ過ちを繰り返さないで。半端者のまま留まらずに、自分の価値を証明して」
その言葉を最後に、彼女の姿が薄れていった。視界が揺らぐ。
「どういう意味? ねえ、ちょっと! 君、いったい誰なの? ここはどこ!」
「私は私。それだけ。じゃあ、頑張って」
「待っ――!」
言葉を継ぐ間に、視界が溶け崩れて完全に沈んだ。
***
跳ね起きた。
冷たい汗が背筋を伝って流れ落ちる。目の前には、きれいに空になった器が一つ置かれていた。
それをじっと見つめた。
「カシアン……私を騙したんだ……」
日はすでにすっかり暮れていた。腕時計を見ると、いつの間にか二時間も過ぎていた。
夢の中の白い空間で聞いた言葉が、何度も頭を突いてくる。その言葉を頭の中で繰り返しながら、眉間を押さえ、クロノアを呼んだ。
「クロノア、いる?」
『うん、アリア。こんばんは。珍しく昼寝したね』
杖で地面を軽く叩きながら続けた。
「聞きたいことがあるんだけど。クロノアはアルナと一緒に旅してたんだよね?」
『うん!』
「アルナは本当にベヒモスを倒したの?」
『もちろん! あれはすごかったから今でも覚えてるよ。アルナが魔法で凍らせて、シグムンドが身体を真っ二つにして、落ちた頭ごと砕いた。とどめを刺したのはシグムンドだけど、アルナのほうがすごいんだからね? あのときアルナはね――』
アルナ自慢を並べ立てるクロノアをよそに、地面へ文字を書いていった。
――真っ二つ。
(ベヒモスが伝わっているより小さいのは、半分だから? ゴカイと同じく、核が二つある水中生物だから? でも、どうして陸に?)
もう一度クロノアを呼んだ。
「クロノア……ベヒモスがいたところって、森だよね?」
『うん! 君たちが今そう呼んでる……黒藤樹海だね』
地面に王国の地図を描いていく。北東の端に、リヴァイアサンが棲んでいたという海――黒潮海。そしてそのすぐ西に、黒藤樹海。
頭に、昨日の光景が浮かんだ。自分の縄張りである湿った岩陰から遠く離れ、川辺まで出てきて私たちを襲った水鎧百足。そしてその後ろにいたベヒモス。
「クロノア。リヴァイアサンとベヒモスが戦ったらどうなるの?」
『生息地が違うからそんなことは起きないけど、絶対リヴァイアサンだよ。ベヒモスが十匹いても無理だと思う。君はリヴァイアサンを見たことがないから分からないだろうけど、アルナがね――』
また始まるアルナ自慢。
だが、リヴァイアサンは死んだ。
私は描いた地図を、とん、とん、とんと叩いた。
頭をよぎる単語が一つ。
――黒雪。
来る道でカシアンが説明してくれた、北の未知の大災厄。初めて聞くのに背筋が冷えた、あの言葉。
杖の先で、黒潮海から南へまっすぐ線を引いてみる。線が届いた先は――今、私たちがいる翠蓋樹海。
ばらばらだった考えが、一つに繋がった。
私は目を見開き、叫んだ。
「分かった! ベヒモスは水中に棲む、核を二つ持った生き物なんだよ! だから身体を半分に斬られても生きていたんだ!」
『きゅ、急に何の話?』
地面に、半分に切られた百足の絵を描いていった。
「それにね、ベヒモスが私とカシアンを追いかけてこなかったのは、怖かったからだよ。アルナは銀髪の冠翼族で、シグムンドは黒い髪。水の中の生き物は、水から出ると目がよく見えないから、私たちが似て見えたんだ!」
『お……おお。で、それが? 今それって、何か重要なの?』
そこで口を閉じた。杖の先が、地面に引いた線の上で止まる。
「つまり……身体が半分に斬られたなら……残った核は……」
がばりと身を起こした。
「カシアンが危ない!」
力の入らない脚はそのまま折れ、前へ倒れ込んだ。その音に、ヴァルマが片側から歩み出てきた。
「大丈夫ですか?」
「ヴァルマ、私、カシアンのところに行かなきゃ。早く!」
「ご心配なく。彼らは強い方々です。信じてお任せして、私たちはここで待ちましょう」
「駄目! 違う、違うの……!」
呟きながら杖を手に取る。
浮遊魔法を思い浮かべ、すぐに打ち消す。
杖を掲げると、ペンダントが青く光る。
「――風の流れを辿り、凍てつけ。霜氷翼【そうひょうよく】」
服の中で畳まれていた背中の二枚の翼に、霜色の結晶が芽吹く。薄い氷が瞬く間に伸び、私の背丈をゆうに超える透明な翼へと育っていく。
ひと羽ばたきで、身体が地面から引き剥がされて舞い上がった。
ヴァルマの姿が点になって小さくなる。
森の向こう――轟音とともに炎が噴き上がっていた。そして遠くからでもはっきり見える、あの巨体。
私はまっすぐそこへ飛んだ。




