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58話「抱擁」

「それで、クロノア。どこにいるか分かりそう?」


 杖へ魔力を流し、浮遊魔法(ふゆうまほう)で辺りをさまよっていた。けれど、どこにもカシアンの姿は見当たらない。


『うーん……まだ分からない。それより、本当にもう動いて大丈夫なの? まだすごい熱なのに』

「だって、気になってちっとも休めないんだもん……。だから、早く見つけてよ」

『……分かった』


 クロノアの指示を待ちながら漂ううち、目まで回り始めた。


「クロノア、まだ……? そろそろ頭まで痛くなってきたんだけど……」

『待って。もう少しだけ左へ。そう、すぐそこ!』


 浮遊魔法を保てなくなり、地面へへたり込む。額の冷たい汗を拭い、言われたとおり左へ這っていく。


 どれだけ進んでも何も見えてこない。丈の高い草が、顔へまとわりつくだけだ。


「クロノア……本当にこっちで合ってるの?」

『うん、もうすぐ! 間違いないよ。カシアンの位相だもん!』


 ため息をつき、目の前の草を掻き分ける。


 草の向こうから、水音が届いた。


 小さな滝があった。月明かりが水しぶきの中で砕け、流れ落ちる水を無数の銀糸へ変えていた。滝壺(たきつぼ)は黒々と沈み、水面だけが細かな光を弾いている。


 その手前に、カシアンが立っていた。両手で剣を固く握っている。


 彼は剣を頭上へ掲げた。青い光をまとった刀身(とうしん)が、滝へ向かって振り下ろされる。振り下ろしては、また掲げる。同じ動きを、何度も、何度も繰り返していた。


「何だ……。ヴァルマが一人にしておけって言うから、心配したのに……」


 草むらへ身を伏せ、目元だけを覗かせた。


 さらに何度か剣を振ったあと、カシアンが袖で顎を伝う汗を拭う。わずかに持ち上がった裾の隙間から、鍛えられた腹筋が覗く。


 思わずそこを目で追っていると、月を覆っていた雲が流れた。白い光が滝へ降り注ぐ。


 ぽたり、ぽたり。


 カシアンの手から、血が落ち続けていた。


 それを目にした瞬間、身体が勝手に前へ出た。


「カシ――」

『アリア、前! 前!』


 引きずっていた足が、地面を這う太いツルに引っかかった。


 上半身だけ中途半端に草むらから飛び出し、顔から地面へ突っ込んだ。その衝撃が下腹部へ鈍く響いた。


 腹を押さえて顔を上げると、カシアンがこちらを見ていた。


 彼はその場で固まり、開きかけた口を何も言わずに閉じた。喉仏(のどぼとけ)が大きく上下する。


 剣を鞘へ収めると、両手を背後へ隠したまま、大股でこちらへ歩いてきた。


「アリア、こんなところで何をしている! 早く戻って安静にしていろ!」


 私は彼に向かって手を伸ばした。


「手を見せて」


 カシアンがたじろぎ、私の前で足を止める。


「さあ、背負ってやる。早く戻るぞ」

「手! 早く!」


 声が鋭く跳ねた。それでもカシアンは顔を背けるだけで、手を差し出そうとしない。


 彼の手首をつかみ、無理やり前へ引き寄せた。


 手のひらはあちこち皮が()け、赤く腫れ上がっていた。深く裂けた傷から滲んだ血が、皺に沿って黒く乾いている。


 カシアンは手を振り払い、固く拳を握った。


 拳から目を離せないまま、問いかけた。


「どうして……どうして、こんなことするの?」

「これは……君が気にすることではない。さあ、早く戻って休む――」


 彼の言葉が途切れた。


 熱い涙が頬を伝う。拭っても次々にこぼれ、声が喉につかえた。


「全部、私のせいでしょう……? 私が弱いから……」


 語尾がかすれた。鼻の奥が詰まり、息が何度もつかえる。


「そうではない……」

「だって、違わないでしょう……。私が怪我したから、自分のせいだって思って、ずっと剣を振ってたんでしょう……? 私、歩けないし……何の役にも立てないし……記憶までなくしてるから……」

「違う! 違うと言っているだろう!」


 カシアンが声を張り上げた。


 肩が跳ね、顔を上げた。


 彼は唇を薄く噛んでいた。目元は赤く染まり、間近で見ると、片方の頬が青紫に腫れている。


「すべて……俺が弱いせいだ。俺は一度として、守りたいものを守れたことがない。母上も、鳥たちも、民も、北の地も――何一つ……!」


 固く握られた拳から、血の雫が落ちた。


「これで三度目だ。三度も! 俺の弱さのせいで、君を死の(ふち)まで追いやった!」


 彼の声が震えた。


「もう嫌なんだ……。これ以上、誰かが俺のそばからいなくなるのは……」


 声は次第に力を失い、嗚咽に潰れていった。


 彼は大きく息を吸い、濡れた目元を袖で拭った。薄い笑みを浮かべ、私へ手を差し出す。


「すまない。見苦しいところを見せたな。さあ、戻ろう。道は俺が必ず切り拓く。君の頭に巣食う寄生虫も、必ず取り除いてみせる」


 何も答えず、唇を噛んだまま差し出された手を取った。


「ヒール」


 唱えると、青い光が咲いた。光は彼の手を包み、裂けた傷を一つずつ塞いでいく。


 彼の手を離し、両腕を大きく広げた。


「何のつもりだ……?」

「おいで」


 カシアンは遅れて頬を赤らめ、身体を引いた。


「は? 俺は子供ではない」

「いいから。私は十六歳で、カシアンは十五歳でしょう? お姉ちゃんのところへおいで。ほら、早く」

「アリア、冗談にも程がある。そんなものは必要な――」


 もう一度彼の手首をつかみ、こちらへ引き寄せた。


 カシアンの身体が、抵抗もなく私の胸元へ倒れ込んでくる。衣服越しに、温かな体温が伝わる。彼の吐息が鎖骨へ触れ、汗に濡れた髪からは青い草の匂いがする。


「カシアンは何も悪くない。弱くもない」


 彼の髪へ指を通しながら、言った。


「覚えてないけど……カシアン、私が三回も死にそうになったって言ってたよね。でも、私はちゃんとここにいるよ。三回とも、カシアンが助けてくれたからでしょう? 守れなかったものだけじゃない。カシアンが守った人だって、きっとたくさんいるよ」


 私の袖をつかむ彼の指へ、力がこもった。腕の中で、彼の身体が震えている。


「それにね、私もカシアンのこと、大事だよ。カシアンが私を大事にしてくれるのと同じくらい。だから……もう自分を責めないで。つらいときは、いつでも私がぎゅってしてあげるから」


 私まで喉の奥が震え、目の奥が熱くなってきた。


「私も、どうしたらいいのかまだ分からないけど……魔法をいっぱい練習して、もっと強くなるから……。一緒に戦うし、記憶も絶対に取り戻すから……。だから、つらいときは一人で我慢しないで……ね?」


 最後まで言い切った途端、泣き声が漏れた。髪を撫でていた腕で、彼の頭ごと抱き込む。涙が収まるまで、どれほどかかったのか分からなかった。




 いつの間にか、カシアンの腕が背へ回り、今度は私の頭を撫でていた。


 鼻をすすり、胸元から顔を上げる。


「ごめん……私がカシアンを元気にするつもりだったのに、今度は私が泣いちゃったね……」


 カシアンが指先で私の頬を拭ってくれる。


「お互い様だ」


 彼はそう言って、腕時計を確かめた。


「もうこんな時間か。身体もまだ治りきっていないのだ。そろそろ戻るぞ」

「うん……。でも、これからどうするの……?」

「ベヒモスを倒す。そして、君を翠蘭へ連れていき、寄生虫を取り除く。それだけだ」


 私はそのまま、彼の背中へ負ぶさった。


「でも……ベヒモスって倒せるの?」

「倒すしかない。軍蟻族ミュルメたちと力を合わせ、俺が必ず何とかする」

「ううん、私たちが、でしょう? 私も一緒に戦うから」

「そうだな――俺たちで、だ」


 カシアンは歩き出した。その肩はいつもよりずっと力なく垂れていた。


 彼の肩へ顎を載せ、耳元へ声を落とした。


「ねえ、カシアン。私も秘密を一つ、教えてあげようか? この前、カシアンがいろいろ話してくれたから……」

「何だ。聞いてやろう」

「怒らないって約束してくれる?」


 カシアンの足が止まった。


「約束する。それで、何だ?」


 私は彼の首へ回した腕に、さらに力を込めた。目を閉じ、心の中で呼びかける。


「クロノア……本当に大丈夫だよね?」

『うん。きっと大丈夫だよ』


 意識を、鳥の姿へ集中させる。


 身体が縮み、抜け落ちた服が地面へ滑る。夜空へ舞い上がり、カシアンの肩へ降り立った。


 カシアンは立ち止まったまま、微動だにしなかった。遅れて片手を差し出し、私の足元へ添える。


「…………」


 唇が何度か動いたが、声にはならない。見開かれた目だけが、私を追っていた。


「ピヨッ、ピヨッ」


 試しに鳴いてみせると、カシアンが震える手で、私の耳元の羽毛を撫でた。


「これは、いったい……」


 指先へ頬を擦りつける。羽毛の奥まで温もりが染み、眠たげな欠伸が漏れる。


「これも魔法だというのか……? 頭が追いつかない……」


 口を開いて話そうとしても、出てくるのは「ピヨッ」という鳴き声だけだった。


 肩から飛び立ち、背後に落ちていた服へ潜り込む。人の姿へ戻ると、服は中途半端に身体へ引っかかり、肩も素肌もあらわになっていた。


 カシアンはすぐさま顔を背けた。


「もう振り向いていいよ……」


 服を着直し声をかけると、カシアンは何も言わずに背を向け、目の前へしゃがんだ。再びその背へ負ぶさった。


「驚かなかった……?」

「それを俺に聞くのか。驚いてひっくり返るかと思ったぞ」


 しばらく無言で歩いたあと、カシアンが口を開いた。


「それで、どういうことなのだ? 魔法で肉体そのものを変えるなど、できるはずがない」

「ええと……それは、その……」


 どうにかごまかそうとしたものの、うまい言葉が浮かばない。何度も口を開いては閉じた。


「まあいい。無理に聞き出すつもりはない」


 カシアンが短く息を吐いた。


「だから、君からププと同じ匂いがしていたのか」

「匂い? どんな匂い?」


 自分の腕へ鼻を近づけ、くんくんと嗅いでみた。何の匂いも感じられない。


「朝食に出る、焼きたてのパンの匂いだ」

「は? 最悪! 何それ……」


 顔をしかめると、カシアンは構わず続けた。


「しかも男子寮へ忍び込み、国家機密まで盗み見ていたというわけか?」

「えっ? 私、そんなことしてないよ?」


 慌てて答え、すぐさまクロノアへ問いかける。


「どういうことなの、クロノア?」

『あはは……それは、その……』


 カシアンがさらに続けた。


「学院が再開したら、停学処分に加えて、国家機密を覗き見た罪をどうしてくれようか……」

「冗談だよね……? 私、本当に何にも覚えてないんだよ……」


 涙がまた込み上げ、声が震え始めた。


 カシアンの顔を覗き込むと、口元がかすかに持ち上がっている。


「ふむ……記憶がないのなら、戻るまでは猶予してやろう」

「じゃあ、戻ったら……?」

「そのときの君の態度を見て決める」


 また涙があふれ出した。


「本当に覚えてないのに……」

「泣くな。これ以上泣けば鼻が腫れて、雪象スノートになってしまうぞ」

「本当……?」


 慌てて片手で鼻を覆い、必死に涙を引っ込めた。


「冗談だ」

「もう!」


 そんなふうに言い合いながら、軍蟻族たちの集落へ戻った。帰り着くまで、カシアンの横顔から笑みが消えることはなかった。



***



 隣では、カシアンが剣を胸元へ置き、目を閉じていた。腫れた頬へ目が止まる。


「ところでカシアン、その頬はどうしたの?」

「……虫に刺されただけだ」


 それきり会話が途切れた。懲りずに、もう一度話しかける。


「ねえ、カシアン。知ってる?」

「何だ」

「女の子を泣かせた男はね、その日のうちに許してもらえなかったら、その子に一生根に持たれるんだって。いつまでも、ものすごくしつこく」


 彼の眉間がぴくりと動いた。こちらへ背を向けたまま、小さな声が返ってくる。


「……すまなかった」


 私は小さく笑い、囁いた。


「許してあげる」


 毛布を顎まで引き上げ、目を閉じた。


 下腹部にはまだ鈍い痛みが残っている。それでも、込み上げてくる笑いは、なかなか収まらなかった。

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