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57話「地喰」

 夜が明け、私は馬の背に揺られていた。すぐ下では、カシアンが手綱を取って馬を引いている。


 ヴァルマと数人の軍蟻族ミュルメに案内され、樹海(じゅかい)を南へ三十分近く歩いた。彼らが私の杖とカシアンの剣を返したのは、集落から十分に離れてからだった。


 道の片側では、泥を巻き上げた大河が轟々(ごうごう)と流れている。


 カシアンは一度剣を抜いて刃を確かめ、(さや)へ戻してから振り返った。


「ここまで案内してくれて感謝する」

「いいえ。無礼を働いたのはこちらですから」

「では、先を急ぐ。俺たちはそろそろ発つ」


 私はヴァルマに手を振った。彼女も振り返してくれた。


「この川に沿って半日ほど下れば、木々が低くなり、地形も平坦になります。ただ、その辺りからは、ベヒモスが現れるかもしれません。くれぐれもお気をつけて」

「分かった。備えはしておく」


 そうして私たちは、川沿いを下り始めた。


 案内役たちと別れると、カシアンは再び剣を抜き、絶えず辺りへ目を配りながら歩いた。


 時折、巨大な虫が姿を現しても、私が気づいた頃には真っ二つにされ、草むらへ転がっている。


「カシアン……」

「何だ」

「少し休んでいかない?」


 彼の肩は歩き始めてから一度も下がらず、剣を握る手の甲には筋が浮いていた。


 カシアンが空を仰ぐ。太陽はすでに頭上まで昇っている。


「すまないが、もう少しだけ急がせてくれ。今日中に樹海の下流域(かりゅういき)まで着いておきたい」

「分かった……。でも、無理はしないでね。私も魔法を使えるんだから」


 返事はなかった。彼は前を向いたまま、周囲を警戒し続けている。


「ねえ、カシアン。本当にベヒモスがいたら、どうするの?」

「あり得ない。ベヒモスは全長百メートルにも及ぶ巨大な百足だ。本当に生息しているのなら、翠蘭と王国を結ぶ橋など、とっくに破壊されている。五千年もの間、何事も起きなかったというのも考えにくい」


 足を止めることなく、カシアンは続けた。


「軍蟻族たちが言っていたのは、おそらく水鎧百足スコロペンドラだろう。昨日、周囲を調べた際、その毒にやられた獣の死骸をいくつか見つけた」

「でも、水鎧百足(スコロペンドラ)だって危険怪獣なんでしょう……? 軍蟻族たちがそれから逃げてきたのなら、ベヒモスじゃなくても危ないんじゃない……?」


 カシアンは手の甲で額の汗を拭った。


「ああ。だが、心配はいらない。水鎧百足は湿(しめ)った岩陰(いわかげ)倒木(とうぼく)の下に潜む習性がある。縄張(なわば)りを踏み荒らしさえしなければ、開けた川辺まで出てくることはない。このまま川沿いを進めば問題ないはずだ」

「うん……分かった」


 私たちは川の流れを傍らに、ひたすら南へ進んだ。



***



 日が傾き始めていた。


 荒れ狂っていた川の流れも、昼頃に比べればいくらか穏やかになっていた。


 不意に、服の内側へ畳み込んだ翼の先が、かすかに痺れた。


「カシアン、待って!」


 足を止めたカシアンが、馬上の私を見上げる。


「何か……いるみたい」


 しばらく私の顔を見つめたあと、彼は馬を木陰へ寄せ、手綱を幹に結びつける。剣を抜き、足音を殺して先へ進む。


「カシアン、私も戦えるよ。ひとりで行かないで」


 彼は何も答えない。


 翼の先にあった痺れが、付け根ごと内側から揺さぶる波へ変わる。胃がひっくり返りそうになり、喉元まで酸っぱいものが込み上げる。


 カシアンが身を低くした。


 傍らの草むらが弾け、巨大な何かが飛び出した。


 全長は十メートル近い。腐朽(ふきゅう)した樹皮(じゅひ)を鎧にした緑褐色(りょくかっしょく)甲殻(こうかく)。その隙間から生えた無数の脚だけが、鮮血よりも赤い。


 長い触肢と、真っ黒な二本の顎牙がカシアンへ迫る。


「カシアン!」


 杖を掲げるよりも早く、カシアンは全身に青い魔力をまとって地を蹴る。


 瞬き一つの間に、水鎧百足スコロペンドラの触角が二本とも宙を舞い、私の目の前へ重々しく落ちる。


 続く剣閃(けんせん)は、湖面を走る波の軌跡を描く。


 水鎧百足が顎牙を突き出すたび、カシアンは半歩だけ身をずらし、甲殻の継ぎ目へ潜り込む。剣が走るたびに、赤い脚が一本、二本と根元から切り落とされる。


 片側の脚を失い、巨体が傾く。カシアンはその隙に反対側へ回り込み、残る脚を次々と刈り取っていく。


 余分な動きは一つもない。


 支えとなる脚を半分近く失った水鎧百足が、大きく身を捩る。傷口から噴き出した緑の血が、カシアンの顔を覆う。


 視界を奪われた彼へ、顎牙(がくが)が一直線に突き出される。


 カシアンは目を閉じたまま、空いた手でそれを鷲掴みにする。手の甲で目元の血を拭うと、下顎から頭頂へ向けて剣を深々と突き通す。


「キィエエエエッ!」


 水鎧百足の絶叫が刃となり、鼓膜の奥を引っ掻いた。


 両手で耳を塞ぐ。カシアンは突き立てた剣を握り直し、鋭く息を吐く。


「ふっ!」


 刃が頭頂から胴の中央を走り、巨体を縦に切り裂いていく。身体が完全に二つへ割れる頃には、切断された脚の痙攣もぴたりと止まっていた。


 カシアンが剣を引き抜く。粘つく緑に染まった刃を数度振り払い、こちらへ歩いてくる。


 だが、翼を打つ不快な波は消えていない。


 一匹の巨大な百足が羽根を這い、首筋へ忍び寄ってくる。そんな悪寒が、背中から離れなかった。


「何をそんな顔をしている。危険怪獣種とはいえ、水鎧百足程度なら魔物に比べて大したものではないな」


 私はカシアンではなく、その背後を呆然と見つめていた。


 大地そのものが、動いている。


 地面がせり上がった。周囲の木々が根こそぎ倒れ、岩が砕け落ちる。川面が巨大な波となって膨れ上がり、飛沫(しぶき)が襟元まで降りかかる。


 そこから姿を現したものは――深海の闇を凝り固めた、青黒い甲殻。殻の継ぎ目からは、凍りついた光が冷気を帯びて漏れ出している。


 頭部から伸びる二本の長い触角が、何かを探るように宙を撫でている。その間に貼りついているのは、目鼻の境さえ溶け崩れた、人の顔めいた何か。


 巨体を支える無数の脚は、血の気を失った死者の肌と同じ、青白い色をしていた。


 触肢(しょくし)が、カシアンの頬をかすめる。


 彼はその場に立ち尽くし、剣を強く握った。


 二枚の巨大な顎が左右に開く。その奥で、さらにもう一つの口が裂ける。


 顎が開くのと同時に、私は杖を掲げる。


 ペンダントが輝き――叫ぶ。


「――氷截線ひょうせつせん!」


 純白の氷線がまっすぐに走り、開かれた口へ突き刺さる。無数の氷の薔薇が咲き乱れ、ベヒモスの顔面を凍りつかせる。


 だが、花は瞬く間に砕け散る。氷の下から、巨大な口が再び(うごめ)き出す。


「カシアン、早く!」


 我に返ったカシアンは駆け戻ると、幹に結びつけていた手綱を剣で断ち、その勢いのまま馬の背へ飛び乗った。


 砕けた氷の向こうで、ベヒモスが水鎧百足の死骸へ脚を突き刺す。


 死骸が異様に膨らんだ。直後、肉も甲殻も粉々に弾け、周囲へ飛び散る。


「しっかりつかまっていろ!」


 カシアンが手綱を引く。


 馬が荒れた地面を駆け出し、鞍が容赦なく身体を突き上げる。跳ね上がるたび、尾骨(びこつ)まで鋭い痛みが響く。


 それでも何も言わず、カシアンの手首を固くつかんだまま背後を振り返った。


 ベヒモスは追ってこなかった。ただその場に留まり、遠ざかる私たちを見つめている。


「ベヒモスだと……あり得ない……」


 カシアンが低く呟いた。


 逃げ切ったというのに、心臓はまだ激しく脈打ち、耳の奥では鼓動が鳴り続けていた。


「心臓が止まるかと思った……。でも、百メートルもなさそうだったね。五十メートルくらい――」


 言葉が途切れた。一拍遅れて、下腹部に奇妙な違和感が走る。


 先ほど弾け飛んだ水鎧百足の赤い脚。その破片が一本、下腹部へ浅く突き刺さっていた。


 気づいた途端、灼けた糸が皮膚の下を這う。熱は下腹部から腰へ、脇腹へと瞬く間に広がっていく。


 全身が激しく震え始める。


 カシアンが私を覗き込んだ。


「アリア、どうした。なぜ急に――」


 視界が白く霞んでいく。


「カシアン……私……」


 そこまで口にしたところで、意識は途切れた。



***



 目を開けると、揺れる木の葉の向こうに月が滲んでいた。


 身体を起こそうとした途端、下腹部から焼けつく痛みが突き上げる。額に浮かんだ冷たい汗が、こめかみを伝って流れ落ちる。


「おや、気がつかれましたか。しばらくは安静にしていたほうがいいですよ」


 傍らから、聞き覚えのある声がした。


 顔を向けると、ヴァルマが私を見守っている。


「ヴァルマ! うっ……どうして、ここに……」

「大変でしたね。水鎧百足スコロペンドラの毒にやられたのですよ。あの黒髪の少年――カシアンでしたね。彼があなたをここまで背負ってきたので、どうにか治療が間に合いました」

「ヴァルマが……治してくれたの……?」

「ええ。水鎧百足の毒に侵される軍蟻族ミュルメは、珍しくありません。そのぶん、解毒薬(げどくやく)も十分に備えてあります」


 どうにか上体を起こし、背中を木の幹へ預けた。


「カシアン……カシアンはどこ?」


 穏やかに細められていたヴァルマの目元から、すっと笑みが消えた。


「彼なら……今は一人にしておいてあげたほうがいいでしょう。私は何か、食べられるものを持ってきます。ここで少しお待ちください」


 ヴァルマが遠ざかっていく間も、声を出すことができなかった。


「カシアン……」


 彼の名を小さく呼び、胸元へ手を置いた。

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