56話「湯浴み」
酸味の強い木の実でひとまず腹を満たしたあと、私たちはヴァルマに案内され、森の奥へ入った。
ほどなく、木立の向こうに小さな湖が見えてきた。
重なり合う葉の切れ間から月明かりがまっすぐ降り注ぎ、水面に銀の道を渡している。湖底の小石を一つずつ数えられそうなほど水は澄み、その上で葉の影が緩やかに揺れる。
「わあ……! きれい!」
「きれいでしょう。水も、ほどよく冷えているはずです」
カシアンはすぐに湖へ手を入れた。腕を伸ばしても前腕がようやく浸かるほどの浅さだった。
「アリア、あまり沖へ行ってはいけない。浅く見えても、水底は急に深くなるものだからな」
そう言って、背負っていた私を水際へ下ろしてくれた。爪先だけが、かろうじて水に触れている。
「カシアンは一緒に入らないの?」
彼はすぐに背を向け、来た道を戻り始めた。
「もう一週間近く、湯浴みをしていないだろう。俺のことは気にせず、きれいに洗ってくるといい。俺はあとで入る」
「……分かった」
その背中が木々の間へすっかり消えるまで、目を離せなかった。
隣では、ヴァルマが小さな香木を焚いていた。
「ヴァルマ、それは何?」
「虫除けの香です。さあ、夜が深くなる前に洗ってしまいましょう」
服を脱ぐと、胸元に残る黒い傷痕が露わになった。私は慌てて脱いだ服を拾い上げ、胸元を覆いながらヴァルマの様子を窺った。
「……呪術の痕ですね。私は気にしませんから、無理に隠さなくても大丈夫ですよ」
小さく頷くと、残りの服も脱ぎ、ヴァルマの腕につかまって身体を水の中へ滑らせた。
足先を包む水はひんやりとしているが、肌を刺すほどではない。身体を進めるたび、脛から太腿へ柔らかな冷たさが這い上がってくる。
背中に畳んでいた二枚の翼も、次第に水へ沈んでいく。羽根が一枚ずつ水を吸い、重たく垂れるにつれ、凝り固まった力が抜けていった。
水を掬って腕を洗っていると、ヴァルマが背後へ回った。
「髪も洗いましょうか?」
「本当? じゃあ、お願い」
濡れた髪の間へ、ヴァルマの指が入ってくる。爪は立てず、指の腹だけで頭皮を丁寧に揉みほぐしていく。頭頂から流れた水が、首筋を伝って落ちた。
「こうして髪を洗っておりますと……娘と一緒に湯浴みをした頃を思い出しますね」
「えっ、ヴァルマってお母さんなの?」
「ええ、もちろん。子供が五人もおりました」
いったん唇を閉じた。喉につかえた言葉を、恐る恐る押し出す。
「……今は、もういないの……?」
「はい。霊甲族は、とても長く生きる種族ですから――」
最後まで聞かず、私は口を挟んだ。
「……異種族と人間の間に生まれた子は、ほとんど人間として生まれるんだよね。なんだか、ごめん。冠翼族は、自分たちのほうが早く死んじゃうから、また違うんだね……」
「いいえ。私のほうこそ、湿っぽい話をしてしまいましたね。それにしても、本当に柔らかな髪です。翼を隠し、髪まで染めているのは、目立たないためですか?」
髪を梳いていた指が止まった。私の肩にも、思わず力が入る。
「えっ、ど、どうして分かったの……?」
「染めても、根元にはすぐ、本来の色が現れます。ですが、目につくほどではありません。そう心配なさらなくても大丈夫ですよ」
「うん……」
片手で頭頂の辺りに触れてから、ヴァルマを振り返った。
「ねえ、ヴァルマ。ヴァルマが見えるって言ってた、位相の流れってどんなものなの? グリムナルが魔力の色を見るのとは違う?」
「グリムナル?」
「うん。トカゲみたいな尻尾がある子たち」
ヴァルマは少し考え込んだ。
「ああ、北に暮らす、姿を隠す種族のことですね。彼らは目で熱や魔力の織りを読み、闇の中でも色として捉えます。ですが、私に見えているのは……」
その手が、私の背中に重なる。
「命の流れ、とでも言えばいいでしょうか。うまく言葉にはできませんが、生きているものなら誰もが持ち、一つとして同じものはありません。その流れを読めば……内にあるさまざまな感情まで感じ取ることができます」
「へえ~ じゃあ、私からは何を感じる?」
ヴァルマは正面へ回り込み、私の顔をじっと覗き込んだ。皺一つない肌に、水気を帯びた澄んだ瞳。その瞼が、長い間を置いて二度閉じる。
「あなたは……」
続きは、すぐには出てこなかった。
「一つではありませんね。一つの身体に、途方もなく古く深い流れが、もう一つ並んでいる。これほど大きく、長い時を刻んだ流れは……」
ヴァルマはそれ以上を口にせず、言葉を収めた。
「きっと、ご事情があるのでしょう」
「最初から……気づいてたの?」
「あまりにも珍しい流れでしたから。ですが、私の胸にだけ留めておきます。ご安心ください」
「うん……お願い……」
髪を伝って水へ落ちる雫と、遠くで鳴く虫の声だけが、二人の間に残った。
「ねえ、ヴァルマ。ちなみに、カシアンはどんな流れなの?」
「カシアンというのは、あの黒髪の少年ですね。彼は強い方です。あなたほど大きくはありませんが、芯が通っていて、とても堅牢な位相です」
「だよね? カシアンは強いもん」
自分のことでもないのに、私は胸を張った。
「ですが……外側が固いぶん、内側はかえって脆い。そうですね……内側に何枚もの扉を設け、固く閉ざした家、とでも言いましょうか」
馬上で私を包むように手綱を取っていた腕と、抱き上げられるたびに触れる、引き締まった身体が頭に浮かんだ。
「カシアンが……?」
ヴァルマは身体を起こして水際の岩に腰掛け、腕や甲羅についた雫を払った。
「もっとも今は、あなたの頭に巣食う虫のために一日でも早く翠蘭へ着こうと、そのことばかりに気を張っているようですが」
自分の頭に手を置いた。
「ヴァルマって、何でも分かるんだね。ちょっと、うらやましいな……」
ヴァルマの口元に、淡い笑みが浮かぶ。
「何でも分かることが、必ずしもいいこととは限りませんよ」
ヴァルマの手を借りて水から上がり、身体を拭いて服を着た。
濡れた翼を服の中へ収めると、何日も首筋と背中にこびりついていた重さまで、きれいに落ちた気がした。
深く息を吸う。水の匂いと虫除けの香りが、冷えた夜気とともに鼻の奥を満たした。
持ってきた通信石で呼ぶと、カシアンはすぐに迎えに来た。私を背負い、先ほどの仮の寝床まで運んでくれた。
自分も身体を洗ってくると言い残し、彼は湖のほうへ戻っていった。
私は木の幹に寄りかかり、その姿が暗闇に溶け込むまで見送った。
「クロノア……カシアンは、ずっと悲しいままなのかな?」
『……人の本当の気持ちは、その人にしか分からないから』
膝を抱え、身体を小さく丸める。
「何かできないかな……。カシアンに、笑ってほしい」
『カシアンは鳥が好きなんだから、アリアがププに変身すれば喜ぶんじゃない?』
「それは駄目。家ではイリアがププの餌をちゃんと用意してくれてるってことになってるもん。ププがここにいたら、カシアンがすごく心配するよ」
『まあ、それはそうだね……』
少しの間、虫の声に耳を傾けた。
「私がププだって知ったら、カシアンは何て言うかな。裏切られたって思うかな……」
『そんなことないと思うよ。カシアンはププもアリアも、どっちも大事にしてるから。最初はびっくりしても、きっと分かってくれるんじゃない?』
「本当?」
『うん。何千年も生きてきた、わたしの勘ってところかな。ふふっ』
ヴァルマの顔が頭をよぎった。
「そういえば、クロノア。ヴァルマって知ってる? あの人も、ものすごく長生きしてるみたいだけど」
『うーん……知らない。霊甲族なら何千年も生きることがあるけど、世界は広いからね。それに長い歳月のうちに、名前も姿も、見違えるほど変わってしまうことだってあるし』
「へえ……そうなんだ」
そのまま座って辺りを見回す。人の気配はなく、夜の闇も十分に深まっている。
手早く服を脱ぎ、鳥の姿に変わると、枝の上まで飛び上がった。
なるべく平らな葉を一枚選び、嘴で摘み取って地面へ戻った。元の姿に戻って服を着ると、持ち帰った葉を丁寧に折り始めた。
『何をしてるの、アリア?』
「待ってて……」
折り重ねた葉が、小さな鳥の形になった。
「じゃーん。私が作った葉っぱの鳥だよ。どう?」
『おお、ちゃんと鳥に見える。やっぱりアリアは手先が器用だね』
その鳥を、カシアンが座っていた場所に置いた。
すぐ隣に身体を横たえ、湖へ続く方角を見つめる。
瞼が何度も落ちかけた。それでも私は、彼が戻ってくるはずの闇から目を離さなかった。




