55話「迷震」
ここへ連れてこられてから、三十分は優に過ぎていた。
気づけば辺りは、数えることさえできないほどの軍蟻族で埋め尽くされていた。
巨大な葉を重ねて作った天幕が、木々の根元に沿って隙間なく立ち並ぶ。その間を、荷を背負った軍蟻族たちが一列になり、途切れることなく行き交っている。
集落全体が一つの巨大な生き物となり、休むことなく脈打っていた。
馬が一つの天幕の前で足を止めた。
両腕を背中で縛られたカシアンが、軍蟻族たちに押されて地面へ座らされた。彼は抵抗しなかった。ただ一度だけ、縄の具合を確かめるためか、縛られた手首を低く捻った。
私は馬上から、その様子を見下ろしていた。袖口を握り込み、緩める。いつからか、同じ動きを繰り返していた。
辺りを見回した。
軍蟻族たちは依然として槍を構え、私たちを取り囲んでいる。
群れの一角が、左右へ割れた。
開いた道の向こうから、大柄な軍蟻族が歩み出てくる。上半身はほかの者たちと変わらない。だが、腰から後ろへ伸びた腹部だけは異様なほど膨らみ、地面を重たげに引きずっている。
周囲の軍蟻族たちが一斉に槍を伏せ、頭を垂れる。
その大柄な軍蟻族の隣には、もう一人、見慣れない女性が立っていた。
背中を厚い甲羅が覆い、重たげな瞼の奥には、深く丸い瞳が覗いている。片手には、自分の背丈ほどもある長い杖を携えていた。
私たちを連れてきた軍蟻族が、大柄な者の前へ進み出て、理解できない言葉で報告する。相手が手を振ると、すぐに後ろへ下がる。
大柄な軍蟻族の触角が、カシアンへ向いた。
「人間」
次いで、その先が私を捉える。
「怪物」
その言葉が終わるより早く、カシアンが顔を上げた。
「軍蟻族の女王よ。俺たちは森を抜けようとしていただけの旅人だ。なぜこのような扱いを受けるのかは分からないが、何か誤解があるはずだ」
女王は無言で数歩前へ出ると、私を指さす。
「旅人? 違う。あれは怪物。危険」
「怪物などではない。彼女はごく普通の少女だ」
女王の触角が、再びこちらへ向く。頭から伸びた二本の先端が、細かく震えていた。周囲の軍蟻族たちも同じだった。
私は袖口をさらに強く握り締めた。
女王が元の場所へ戻り、聞き取れない言葉を発する。すると隣にいた甲羅の女性が頷き、私のほうへ歩いてくる。
カシアンが前を向いたまま、彼女へ声をかける。
「あなたは……霊甲族か? 彼女は足が不自由で、歩くことができない。手荒な真似は控えてくれると助かる」
霊甲族の女性はカシアンを一瞥し、そのまま私の前までやってきた。
懐から、二枚貝の片殻に似た透明な板を取り出す。それを私へかざすと、透き通った内側に幾重もの光の輪が浮かび上がる。
彼女はその輪と私の顔を見比べ、低い声で告げる。
「あなたは……人間ではありませんね」
慌てて背中へ手を回し、服の上から探る。翼はきちんと畳まれ、服の中に隠れている。
「危害を加えるつもりはありません。ただ……あなたの位相があまりにも巨大なため、軍蟻族たちも誤解してしまったのでしょう」
彼女は女王のもとへ戻り、聞き取れない言葉で説明を始めた。
女王はしばらく私を睨んでいたが、片手を上げた。軍蟻族の一人がカシアンへ近づき、手首を縛っていた縄を解いた。
カシアンは立ち上がると、手首を何度かさすりながら、真っ先に私の隣へやってきた。
「アリア、大丈夫か? 怖い思いをしただろう」
「カシアン……」
何か答えようとしたのに、声が喉の奥で震え、言葉にならなかった。
そこへ、霊甲族の女性が声をかけてきた。
「お二人が、我々の警戒する迷震ではないと確認できました。縄を解くように、との女王のお言葉です。ただし……安全が確かめられるまでは、お二人の武器をお預かりします」
「それは困る。俺たちは翠蘭へ向かっているところだ。すぐにここを発つつもりだから、武器は返してもらいたい」
女性の声が低く沈んだ。
「翠蘭……翠蘭ですか……」
彼女は再び女王へ向き直り、何かを告げた。
女王が頷くと、周囲を取り囲んでいた軍蟻族たちが片側へ退き、一本の道を開けた。
「ひとまず、移動しながらお話ししましょう」
霊甲族の女性は開かれた道へ向かい、ゆっくりと――本当にゆっくりと歩き始めた。
***
「地喰らい《ちぐらい》――つまり、ベヒモスが樹海の出口を徘徊しているため、外へ出られない……。今の話を、俺に信じろというのか?」
「はい。そのため、軍蟻族たちも樹海を出られず、ここに留まっているのです。本来ならば、今頃は産卵のため南へ移動している時期なのですが」
カシアンは顎へ手を当てたまま、黙り込んでいた。
その隣で、私が問いかけた。
「ベヒモスって……シグムンドとアルナが倒したっていう、大怪獣の一体だよね……?」
「ああ、そうだ」
今度は、ヴァルマと名乗った霊甲族の女性へ目を向けた。
「でも、本当にベヒモスが生きてるなら……ヴァルマの話だと、軍蟻族は大きな位相を感じ取れるんだよね? だったら、近づいてくる前に気づいて、逃げられるんじゃないの……?」
ヴァルマは首を横に振り、先ほど懐へしまった透明な板を再び取り出した。
「本来なら、その通りです。しかし今は、軍蟻族の触角がベヒモスの位相をうまく捉えられません」
そう言って、北――私たちが飛び降りてきた断崖の方角へ顔を向けた。
「あの崖の向こうから、これまで経験したこともない巨大な位相の波が届いたのです。一年近く前のことでしょうか。それ以来、軍蟻族の触角はその波ばかりを追うようになりました」
言葉を切り、こちらへ向き直った。
「しかも今日、あなたは北からやってきました。ですから軍蟻族たちは、あなたこそがあの波――我々が迷震と呼んでいるものの正体だと誤解したのです」
「私の位相って、そんなに大きいの……?」
「ええ、もちろん」
ヴァルマが片目を細めた。
「あなたを見たとき、かつての大魔法使いアルナを思い出しましたよ」
「もう、嘘ばっかり……。だって私、魔力もないのに」
「位相と魔力は別物ですから」
カシアンが二人の会話へ入ってきた。
「先ほどから持っている、その透明な板は何だ? それを使って、ベヒモスの居場所を探ることはできないのか?」
「星貝のことですね。故郷の海には、巨大な位相の波を殻へ記憶する貝が棲んでいます。これは、その殻から作ったものです。分かるのは波の性質だけで、居場所までは探れません」
ヴァルマの指が、星貝の縁をなぞった。
「我々霊甲族も位相の流れを読むことはできます。しかし水中を離れると、その輪郭がひどくぼやけてしまうのです。そのため、陸ではなるべくこの星貝を頼るようにしています」
「なるほど……。軍蟻族が位相の所在を捉え、あなたがその正体を見極める。互いに補い合って生きているのだな」
「その通りです。それより、あなたはどうして私が霊甲族だと分かったのです? この辺りで見かける種族ではないはずですが」
カシアンは歩みを緩め、彼女の背中を覆う甲羅へ目を走らせた。
「幼い頃、一度だけ会ったことがある。永遠に近い時を生きる種族だと聞いた」
私は二人の間から口を挟んだ。
「永遠? じゃあ、ヴァルマは何歳なの……? それに、どうして海じゃなくて、こんな森にいるの?」
ヴァルマがにっこりと笑った。
「ははは。いちばん答えづらい質問を、二つも同時になさるのですね。私が生まれたのは……あなた方の北の王国が興るより、ずっと昔です。森にいる理由については、個人的な事情とだけ申し上げておきましょう」
話しているうちに木々が途切れ、開けた場所へ出た。
大きな葉を屋根代わりに組んだ粗末な日除けの下へ、荷を下ろした軍蟻族たちが、あちこちから集まってきていた。
一方には、採ってきた木の実が種類ごとに積み分けられていた。別の一角では、折り重ねた葉を敷物にして、何人かが身体を寄せ合って休んでいた。
「話をしているうちに、もう着いてしまいましたね。今日はだいぶ遅くなりました。今夜はこちらで一晩、お休みになってはいかがです?」
カシアンが一度、空を仰いだ。
私もつられて見上げると、葉の隙間から覗く空が夕焼けに染まり始めている。
彼は腕時計を確かめてから、口を開いた。
「好意には感謝する。だが、俺たちは明日になれば翠蘭へ向かう。武器も返してもらえると助かる」
「……そこまでおっしゃるのでしたら、分かりました。女王へお伝えしておきましょう」
ヴァルマは背を向けかけたが、ふと、私を見た。
「もしよろしければ、食事のあとに、湯浴みでもなさってはいかがです? 近くに澄んだ小川がありますので」
「お風呂!」
その言葉を聞いた途端、今まで忘れていた不快感が一斉に蘇った。
髪の根元はむずむずするし、身体中に汗と土埃がまとわりついている。服も肌にべったりだ。
思わず身を乗り出すと、カシアンがヴァルマへ向き直った。
「水辺に人目がないことと、獣の通り道ではないことを先に確かめたい」
「承知しました。その点は、どうぞ私にお任せください」
「それから……後で、星貝についてもう少し詳しく聞かせてほしい。我が国の北でも異変が起きている。もしかすると、何か関わりがあるかもしれない」
ヴァルマは返事をせず、星貝を握る指へ力を込めた。
「北でも……」
星貝を懐へ戻し、低い声で続けた。
「でしたら、ぜひそのお話を私にもお聞かせください。それでは、女王への報告を済ませて戻るまで、この辺りでお休みください」
そう告げると、彼女は来た道を引き返していった。
私たちは軍蟻族の行き来が少ない一角へ馬を寄せた。
カシアンはいつも通り、正面から私の身体を軽く抱き上げ、大きな葉を敷いた場所へ座らせてくれる。
「カシアン……でも、もし本当にベヒモスがいたら、どうするの……? 崖の上まで戻って、あの橋を渡るんじゃ駄目なの?」
「駄目だ。戻るには時間が足りない。それに、ベヒモスが生きているはずはない。おそらく、姿の似た百足型の怪獣だろう」
彼の腕に残る、赤く腫れた虫刺されの跡が目に入った。
「でも……カシアンが怪我をするのは、嫌だよ」
カシアンは何も言わず、片手を伸ばした。大きな手のひらが、頭に触れる。
「心配はいらない。俺はそう簡単に怪我はしない。だから君は、俺を信じていてくれ」
見上げたときには、夕焼けを受けた彼の横顔しか見えなかった。




