54話「霜翼」
蹄の音が森を叩く。
カシアンは身を低く伏せ、余った手綱を馬の脇腹へ打ちつける。馬は木の間を縫い、地を蹴って駆け抜けていく。
低く垂れた枝が頬を掠め、折れた小枝と土塊が背後へ跳ね上がる。
背後では、武器を手にした者たちの姿が木々の合間に現れては消える。それでも、追ってくる蹄の音は途切れない。背筋を冷たいものが伝う。
杖を胸に抱き込み、できるだけ身を前へ倒す。
「カシアン……あの人たちは何なの? どうしてずっと追いかけてくるの……?」
「賞金稼ぎだ」
風を切る彼の声が、短く途切れながら届く。
「囮の馬車を先に走らせておいたのだが、それでもこの数か。どうやら君を追っている者は、ずいぶん用心深いらしい」
「私を……追って……?」
聞き返そうとした声は、言葉になる前に蹄の音に踏み潰された。
ふいに、頭上で枝が大きくしなり、斧を振りかざした男が降ってくる。
「きゃあっ――!」
悲鳴を上げ、固く目を閉じる。刃と刃が噛み合う重い音が、一度だけ響いた。
瞼を上げると、カシアンの片手には血に濡れた剣が握られていた。振り返ろうとした途端、もう片方の手で目を覆われる。
顔を正面へ戻すと、その手はすぐに離れ、再び手綱をつかむ。手の甲にも、どす黒い血が滲んでいる。
どれほど走り続けただろう。
密生する木々の向こうに白い光が差した。そこを目指して馬が森を飛び出した瞬間――世界が、そこで断ち切られている。
足元から地面が消え、遥か下には果ての見えない密林が広がっている。幾重にも重なった葉が地平線まで連なり、巨大な緑の海を形作っている。樹海には、淡い霞が一面に漂う。
「天断の崖か」
カシアンが低く呟き、馬から飛び降りた。
「どこへ行くの……?」
「あの崖の下に広がる翠蓋樹海から先は、翠蘭の地だ。樹海を抜けるには……」
剣の先を上げ、彼方を示す。霞の向こうに、樹海を横切る巨大な橋がぼんやりと見えた。
「渡る道は、あそこに架かる橋だけだ。だが、追手を引き連れたままあそこまで向かうのは難しい。俺が片づけてくる。君はここで待っていてくれ」
彼は剣を下ろし、森へ戻ろうとする。
その背に、別の姿が重なった。
――夕闇の中、月明かりを背に立つ少年。シャツにベストを重ね、手には血に濡れた剣を握っている。
息が詰まった。
頬を撫でる風が、いつの間にか真冬の冷気に変わっていた。杖を握る指先が小刻みに震える。
「カシアン!」
彼は振り返らなかった。
「行かないで……」
「心配はいらない。すぐに戻る」
「嫌! 行かないで!」
叫ぶと、彼はようやくこちらを振り返った。
胸に抱いていた杖を掲げた。
「一緒に行こう。ここから飛び降りれば、賞金稼ぎも追ってこられないでしょ?」
「冗談を言っている場合ではない、アリア」
森の奥から、幾重もの蹄の音が押し寄せてきた。カシアンはそちらを一瞥し、私へ向き直る。
「何か考えがあるのか?」
指先を唇で湿らせ、空へ立てる。風は南の森へ向かって流れている。
私は頷く。
「うん。私を信じて、カシアン」
カシアンは私から目を離さなかった。背後の蹄の音が一段と大きくなると、カシアンは馬のもとへ戻り、鞍へ跨る。
「浮遊魔法でも使うつもりか?」
「違うよ。それより早く! いったん距離を取って、全速力で崖から飛び出して!」
馬が後退する。背後から迫る金属音と蹄の響きが、もう耳元まで追いついていた。
カシアンが深く息を吸う。
「俺は君を信じる」
馬が駆けだし、そのまま崖の縁を蹴る。
私は杖を高く掲げた。胸元のペンダントが青い光を放ち始める。
冷たく澄んだ魔力が胸から背へ抜け、背骨を駆け上がって頭の芯まで突き抜ける。
背中で畳まれていた二枚の翼が開き、羽根の一枚一枚が一斉に逆立つ。感覚が研ぎ澄まされ、世界の音が一段鮮明になる。
杖に嵌め込まれた増幅石の内側に、細かな波紋が走る。
唇から、低く古びた言葉がこぼれる。
「――風の流れを辿り、凍てつけ」
最後の一言を告げる。
「霜氷翼」
馬の両脇から霜色の結晶が芽吹く。
薄い氷が瞬く間に広がり、透き通った二枚の翼へと育っていく。陽光が結晶面を通り抜けるたび、馬と私たちを包む空気が青い光となって砕け散る。
虚空へ踏み出した馬が真っ逆さまに落ちかけた瞬間、氷の翼が南から吹き上げる風を大きく孕む。沈みかけた馬体が、風に押し上げられる。
私たちは風を捉え、緑の海の上を滑っていった。
肩越しに振り返る。
カシアンは目を見開き、手綱を握り締めていた。けれど、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
一分ほど飛んだ頃、カシアンが口を開いた。
「それで、いつまで飛ぶつもりなんだ? 魔力は大丈夫なのか?」
「うん、私、すっごく元気!」
答えた途端、頭の中がぐらりと揺れた。
視界が大きく傾き、焦点が戻ったときには、馬はすでに地面へ向かって落下していた。地上までは、まだ数十メートルもある。
「ひゃああっ!」
両腕でカシアンの腕にしがみつく。腹の中だけが宙へ置き去りにされ、全身が強張る。
カシアンが身を屈め、荷物の中から風力石を一つ取り出す。
「ウィンド!」
詠唱と同時に、巨大な風の渦が私たちを丸ごと包み込む。落下の勢いが消え、馬は樹海の葉を掻き分けながら、ふわりと地面へ降り立った。
「……死ぬかと思った」
私が声を絞り出すと、カシアンは光を失い、灰色に濁った風力石を見下ろして呟いた。
「骨の一本や二本は覚悟していたが……ここまで勢いを殺せるとはな」
耳を刺す騒音が、風力石へ向いていた意識に割り込んできた。顔を上げると、辺りは無数の音で満ちていた。
名も知らない虫が絶え間なく鳴き、濡れた葉の裏では何かが音を立てて這い回っている。頭上からは、姿の見えない何かの羽音が降り注いでいた。
湿った土と腐りかけた葉の臭いに、濃厚な花の香りが絡みつき、息を吸うたび鼻の奥が重く塞がる。
空は葉に遮られてほとんど見えない。人の背丈を何倍も超える巨大な葉が幾重にも頭上を覆い、真昼だというのに森の底は水中めいて薄暗い。
カシアンは馬から降り、手綱を取った。
「ここから先は馬を走らせられない。俺が引いていく。樹海には毒虫も多いから、袖口はしっかり閉じておいたほうがいい」
半袖から露わになった腕へ目をやる。
「カシアンは? 大丈夫なの?」
「心配はいらない。戦士は身体に魔力を纏えば済む」
「分かった……」
一人で馬に乗ったまま、カシアンに導かれて樹海の奥へ進んでいった。
さほど進まないうちに、カシアンが足を止める。
「出てこい。そこにいるのは分かっている」
呼びかけに応じ、木陰のあちこちから、細身の槍を持った者たちが音もなく歩み出てくる。
腰の後ろからは、蟻を思わせる艶やかな腹部が重たげに伸び、いくつもの節がくっきりと浮いている。黒い髪の生え際から突き出した細い触角は、空気を探って揺れている。
カシアンは彼らを見回す。
「軍蟻族か……この時期に、ここにいるはずがないのだが」
軍蟻族たちは槍の穂先を私たち――正確には、私へ向けたまま近づいてくる。
先頭の一人が、一音ずつ硬く区切りながら何かを告げる。言葉らしい抑揚はあるのに、その意味は一つも理解できない。
ただ、彼らは槍先を私へ据えたまま、じりじりと距離を詰めてくる。
カシアンが鞘に手を掛けると、数人が即座に彼の首と胸へ槍を向ける。さらに穂先を短く鋭く二度振り、手を離せと示す。
周囲を埋める影が、いつの間にか増えていた。十人ほどだった軍蟻族は二十、三十と膨れ上がり、ついには百を超えて森を黒く埋め尽くしていた。
カシアンは鞘から手を離し、こちらへ向き直る。
「無駄な抵抗はしないほうがいい。軍蟻族は理性を持つ種族だ。何か誤解しているのだろう。ひとまず、おとなしく従おう」
カシアンの両手首は、背中側で縄に縛られた。
軍蟻族の一人が、私を馬から引きずり降ろそうと手を伸ばす。
「彼女に触れるな!」
カシアンの低い一喝に、全員が動きを止めた。視線が一斉に彼へ集まる。
軍蟻族たちは理解できない言葉で囁き合うばかりだった。カシアンは呼吸を整え、私の手にある杖へ視線を送った。
意図を察して頷き、杖を差し出した。それ以上、誰も私に触れようとはしなかった。
両手を縛られたカシアンと、馬上に残された私。
私たちは軍蟻族の群れに取り囲まれたまま、樹海の奥へ連れていかれた。




