53話「夜番」
カシアンと旅に出て、今日で五日目になる。
景色は一日ごとに変わっていった。
初めの数日は針葉樹の立ち並ぶ道が続いていたのに、川を一つ越えると、木々は背を低くし、葉も幅広くなった。さらにもう一つ川を渡れば土が赤みを帯び、道端には見たことのない花が群れをなして咲いていた。
三つ目の、とても大きな川を越えた先には、どこまでも青々とした世界が広がっていた。
背の高い草が地平線まで続き、厚い葉を茂らせた木々が大きな木陰を落としている。空気は湿って重く、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声が途切れることはない。
蹄の音に合わせて、身体が上下に揺れる。お尻は痛いし、腰もすっかり凝っている。
それに今日は――昨日からそうだったけれど、下腹がいつにも増して重い。
前屈みになって鞍の取っ手を握り、揺れが腹へ響くたび、短く息を吐いた。
しばらく進んだところで、馬が足を止めた。
カシアンは地面へ降りると、手綱を近くの木に結びつけた。私はお腹を押さえて俯いたまま、顔だけをそちらへ向ける。
「今日はここで休むことにしよう」
顔を上げる。葉の隙間から差し込む光は、まだ太く白い。
「まだ昼過ぎだよ。急がなくてもいいの……?」
カシアンは答える代わりに、両手を私へ差し出す。その腕に身体を預ける。
抱き上げながら、彼が言う。
「顔色が悪い。今日は早めに休んで、明日の朝早く出ればいい」
「うん……なんだか、ごめんね」
「謝る必要はない」
カシアンが木の下へ私を降ろそうとしたところで、私は慌てて口を開いた。
「ちょっと待って。私、あっちがいい」
反対側にある木を指さす。今いる場所の木と、何一つ変わらない木。
カシアンは何も聞かず、私を抱いたままそちらへ向かい、そっと地面へ降ろしてくれた。
腕が離れると、服の裾を指でつまみ、顔を背けた。
彼は私の前にしゃがみ込み、尋ねた。
「腹が痛むのか?」
「うん……おへその下を、ぎゅっとつかまれてるみたい」
彼は下腹を押さえる私の手へ目を落とし、立ち上がった。
「食べられそうなものを探してくる。何かあれば、渡しておいた通信石ですぐに知らせてくれ」
「分かった」
彼が背を向けたところで、もう一度声をかけた。
「早く帰ってきてね……」
「ああ。できるだけ急ぐ」
カシアンの背中が、木々のあいだへ消えていく。
またお腹の奥に重い痛みが走る。
「うぅ……」
人影がないのを確かめ、スカートの内側を探る。まだ濡れた感触はなかった。
ほっと息をつき、そのまま木の下に横になる。
――よりによって、今だなんて。
ここには何もない。カシアンには、なんて言えばいいんだろう。考えているうちに顔が熱くなり、私は毛布を頭まで引き上げた。
***
口元を何かが這う感触で、目が覚めた。
手で払うと、手の甲ほどもある虫がぽとりと落ちる。
「ひゃっ!」
上体をのけぞらせ、肘で地面を押す。手の甲で口の周りを何度も乱暴に擦る。
空を仰ぐと、葉の隙間から差す光が赤みを帯びている。木々の影も、先ほどよりずっと長く伸びている。
腕時計を見れば、もう六時を回っていた。けれど、カシアンの姿はどこにもない。
膝を抱えたままさらに三十分ほど待っていると、ようやく木々の向こうから彼が現れた。
「カシアン、遅い……」
「すまない」
カシアンは濡れた布包みを木の枝へ掛け、懐から取り出したものを地面へ順番に並べた。
手のひらほどの根が数本、赤い実のついた枝、縁がぎざぎざした葉を持つ草が一束。
「火根草と、銀葉蓬……?」
「よく覚えていたな。どちらも身体を温めるのにいい薬草だ。この実は酸っぱいから、口の中が気持ち悪いときに噛むといい」
カシアンは乾いた枝を集め、慣れた手つきで焚き火を熾した。火種が枝へ燃え移り、ぱちぱちと音を立てて炎が上がる。
続いて馬の荷物から簡素な調理道具を取り出した。
湯を沸かして薄く切った火根草を入れると、鼻を刺す辛い香りが立つ。銀葉蓬の青臭さがそこへ混じり、最後に干し肉を細かく裂いて落とすと、脂の香ばしさが重なる。
鍋をかき混ぜる腕を見て、カシアンの上衣が半袖になっていることに気づいた。袖口は不揃いに切られ、端から糸がほつれていた。
出かける前までは、長袖だったはずだ。
カシアンが、湯気の立つ深皿を差し出す。
「ほら。美味いものではないが、身体にはいいはずだ」
「ありがとう……」
受け取ると、皿の熱が手のひらへ染み込んできた。
続いて彼は、木に掛けていた包みを外し、焚き火のそばで何度か裏返して水気を飛ばしてから、私へ差し出した。
薄い布が何枚も重ねられ、その内側には、洗って水気を絞った水苔が詰められている。布の縁は、細かな縫い目で閉じられていた。
指先で厚みを確かめるうち、それが何なのか分かった。頬へ一気に熱が集まる。
カシアンは表情ひとつ変えずに食事を口へ運び、淡々と言った。
「必要になったら使えばいい。足りなくなったら、また用意する」
「うん……」
私はそれを懐へしまい、俯いて皿だけを見つめた。
再び沈黙が落ちる。
ひと口食べると、薬草の辛みと苦みが舌に残り、ひりひりと痺れた。それでも、干し肉の塩気が溶け込んだ温かな汁が、腹の底をじんわりと温めてくれた。
皿を両手で包んだまま、口を開いた。
「カシアンは……どうしてそんなに優しいの?」
彼は食べ終えた皿を下ろした。
「優しくはない。ただ、やるべきことをしているだけだ」
「ううん、それを優しいっていうんだよ。カシアンのお父さんとお母さんも、きっとカシアンのことが自慢だね」
焚き火の向こうで彼の表情がわずかに固まった。
「そうだな。そうだったら、よかったんだが」
「……私、言っちゃいけないこと言った?」
「いや」
焚き火のはぜる音だけが、二人のあいだに残った。
私は、もう一度話しかける。
「あのね、カシアン。私、カシアンのことをもっと知りたいのに……カシアンは自分のこと、全然話してくれないよね。私ばっかり話してる気がする」
「……」
「やっぱり、私が何も覚えてないから話しにくい? 話しても、また忘れちゃうかもしれないから?」
「俺は元々、口数が少ない」
「ふうん……」
皿を置き、両脚を抱えて身を丸める。
焚き火を見ていたカシアンが、ぽつりと口を開いた。
「俺は……幼い頃に母上を亡くした」
顔を上げる。黒い瞳の中で、焚き火の明かりが揺れている。
「俺を息子として見てくれたのは、母上だけだった。父上が育てたのは後継者であって、息子ではない」
彼は火を見つめたまま続ける。
「転んで膝を擦りむいても、泣くことは許されなかった。抱いてほしくて腕を伸ばせば、姿勢が崩れていると叱られた」
そこで言葉が途切れた。
「家は出入りが厳しく、誰でも入れる場所ではない。だが――鳥は、そんなことを知らなかった」
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「窓さえ開いていれば、堂々と入り込んできては、俺の手をつつき、机の上を散らかして飛び去っていった。礼儀も格式もお構いなしにな」
火の粉が一つ、夜空へ舞い上がった。
「君が聞きたかったのが、こういう話なのかは分からないが……俺が話せるのは、このくらいだ」
思わず頬が緩んだ。
「かわいい」
彼は二度ほど咳払いする。
「俺はかわいくない」
「ううん、かわいいよ。でも心配しないで、カシアン。これからは私がいっぱい遊んであげるね」
カシアンは前髪を指先でいじり、顔を背けた。
「まあ……好きにしろ」
そう言って、残った食材を片づけ始める。
「もう日も暮れた。今夜は早めに休んで、明日は夜明けとともに出発しよう」
「うん」
私は木の下に簡易枕を置き、毛布を掛けて横になっている。カシアンは反対側の木に背を預け、剣をすぐ傍らに置いて座っている。
「カシアン……横になって寝て」
「俺は座って寝るほうが楽だ。ほら、君はもう休むといい」
彼の手に目を向けると、通信石を一つ持ち、指先で弄んでいた。
「それ、遠距離用の通信石でしょ? でも、ここじゃ使えないと思うよ」
「ほう……なぜ、そう思ったんだ?」
「うーん……分からない」
私は首を傾げた。
「ただ、知ってたの。木がこんなに多くて、町からも遠い場所だと、魔力がうまく届かないって……」
カシアンは通信石を懐へ戻した。
「ああ、君の言うとおりだ。ここまで来れば、繋がるはずもないな。そろそろ休むとしよう、アリア」
「うん……カシアンも絶対に寝てね」
そう言って、目を閉じる。
「クロノアも、おやすみ」
『うん。おやすみ、アリア』
目を覚ましたばかりのクロノアも、私に挨拶を返してくれた。
ふと、目が覚めた。
真上では、揺れる葉の隙間から月が覗き、細かな欠片に散らばっては一つに戻る。
身体を起こして振り返ると、カシアンはまだ座ったまま、俯いている。
毛布を抱え、彼のもとまで這っていった。 耳を近づける。規則正しい寝息だけが聞こえる。
「クロノア、いる?」
『うん。起きたんだね、アリア』
「うん。それより、カシアン、ちゃんと寝てるよね?」
『たぶん、そうじゃない?』
カシアンの肩を抱え、木の幹に沿って横へ倒す。身体が地面へ滑っても、目を覚ます気配はなかった。
数秒ほどその顔を眺めてから、持ってきた毛布を掛ける。
戻ろうとした途端、手首をつかまれた。
驚いて振り向くと、カシアンが私の手首を握っている。目を閉じたまま眉を寄せ、かすかな声を漏らす。
「……行かないで」
小さな笑いが漏れる。手首をつかむ指を一本ずつ外し、額に落ちていた前髪を横へ払う。
「どこにも行かないよ」
馬の傍らに置いてあった杖を取り、カシアンの隣に座る。しばらくすると欠伸が出る。
『アリアも、そろそろ寝たほうがいいんじゃない?』
「ううん……大丈夫。今日は私が見張り番するの。代わりにクロノアが話し相手になって。私、退屈だから」
『もちろん!』
「じゃあ、昨日の話の続き。カシアンが蜘蛛の怪物を倒したっていう話、もっと聞かせて!」
夜が深まるまで、クロノアとのお喋りは続いた。
***
朝日が瞼を照らした。
目を開けると、カシアンが馬に荷物を載せ、辺りを片づけていた。身体を起こした拍子に、掛けられていた毛布がするりと落ちる。
瞬きを繰り返していると、カシアンがこちらへ歩いてきた。
「おはよう、アリア」
「……おはよう、カシアン」




