52話「帰翼」
雲ひとつない空には、まだ星がびっしりと瞬いていた。東の端にだけ淡い藍色が滲み、星明かりと闇の境をぼかしている。
屋敷前の広場には、大勢の人が集まっている。
その中で、私は石台に横たわる一人の女の人を見ていた。
真っ白な装束に、長い白髪。背中の翼は左右へまっすぐ広げられている。片手には杖が、もう片方の手には、赤く汚れた一本の羽が握られている。
辺りには濃い香が立ち込めていた。乾いた花と樹脂を燻したような、甘く重い匂い。それでも、その底から湿った生臭さが何度も鼻先へまとわりつく。
隣では、昨日カシアンと話していた女の人――たぶん、私の家族らしいイリアという人が、石台の女の人の髪を櫛で梳いていた。
櫛がぱさついた白髪に引っかかるたび、イリアは手を止め、毛先から梳き直す。髪が整えられていくにつれ、血の気を失った灰色の顔があらわになる。
夜明け前に起こされたせいか、何度も瞼が落ちてくる。指先まで重く、力が入らない。
目元を擦り、尋ねた。
「私は、やらなくてもいいの……?」
「うん……大丈夫」
髪を梳き終えたイリアは櫛を脇へ置き、翼のいちばん外側から、長い羽を一本抜き取った。
その羽を額の前へ掲げ、深く頭を下げる。肩は微動だにしない。けれど、羽を持つ手だけが細かく震えている。
伏せていた顔を上げ、こちらへ向き直る。
「さあ、アリアも一本だけ抜いて」
「私も……?」
涙の滲んだ瞳を見て、車椅子から身を乗り出す。
イリアにならい、一番外側の羽を一本つかむ。
力を入れる間もなく、羽はぷつりと抜けた。羽軸の根元には、黒く固まった血がこびりついている。
抜けた羽を手に、戸惑いながらイリアを窺う。彼女は口元を緩めた。
「風切羽よ」
「かざきりばね……?」
「うん。亡くなった人の旅は、ここで終わる。でも、その人が目指した道は、残された者が代わりに受け継いでいく――そういう意味なの」
石台の女の人が握り締めている、赤く汚れた羽を指さす。
「じゃあ、この人の手にある羽は何?」
「あれは……」
イリアは言葉を詰まらせ、口元を手で覆った。押し殺しきれなかった嗚咽が、その隙間から漏れる。
私は手の中の羽を、両手でそっと包む。なぜか喉の奥が詰まり、何度も唾を飲み込まなければならなかった。
そこへ、淡い金髪に緑の瞳をした、白い法衣の女性が近づいてくる。
「イリア様、そろそろお時間です……」
「はい……アストリド司祭……」
イリアは立ち上がると、車椅子を押して参列者の列へ戻った。隣では、カシアンが身じろぎもせず、石台へ目を据えている。
アストリド司祭は、青い炎の揺れるランプを手に石台の前へ立った。
参列者たちへ向き直り、静かに告げる。
「これより、帰翼葬を執り行います」
低く澄んだ声が、夜明け前の空気へ広がっていく。
「エララ・オルネン。オルネン家当主にして、二人の娘の母」
司祭はランプを胸の高さへ捧げ持った。
「星様が夜をたたみ、天へお帰りになるこの刻――その旅路に、彼女の翼も連なりますように」
東の空では、藍色の帯が横へ広がり始める。
「本日ここに残る者たちは、彼女が歩みきれなかった道を、それぞれに分かち、受け継ぎます」
イリアが、私の車椅子の持ち手を強く握り締める。
「それでは最後に、黙祷をもって彼女をお送りください」
その言葉に、周りの者たちが一斉に頭を下げる。
私も倣って頭を垂れた。けれど、目は閉じられず、石台から離せなかった。
司祭が、女の人の傍らへランプを置いた。
蓋が開かれると、溢れ出した青い光がその身体を包み込む。炎には音も熱もない。
白い衣が先に青い光へ溶け、広げられた翼も、縁から静かに透き通っていく。
青く輝く灰が空へ舞い上がり、夜明けとともに薄れていく星々のあいだへ散っていった。
手の中の風切羽を、さらに強く握り締める。
ふいに、視界が滲んだ。目から熱いものが溢れ、頬を伝って顎の先から落ちていく。手の甲で拭っても、次から次へと零れ続ける。
この人が誰なのかも分からないのに。
何一つ覚えていないのに。
私は膝の上へ身を折り、風切羽を胸に抱き締めたまま、声を上げて泣いた。
***
すっかり夜が明け、陽射しが早くも頭の上へ熱く降り注いでいる。
葬儀を終えた屋敷の前には、甲冑姿の者や外套を羽織った者など、見送りの人々が残っている。
私は茶色く染められた髪をひと房つまみ、指先で色を確かめる。
服も髪と似た、枯れた藁の色。薄手の長袖の上衣に、足首まで届くゆったりとしたスカート。肌はほとんど隠れている。
そこへカシアンが、大きな馬を一頭連れてきた。彼も私と似た長袖の服に、ゆったりとした黒いズボンを穿いている。
見上げながら尋ねる。
「カシアン……髪、本当にこの色じゃなきゃ駄目なの? なんだか変な感じ……」
「これから向かう場所には、白い髪の人がいない。茶色のほうが目立たないんだ」
「そうなんだ……」
髪を手放し、カシアンの隣に立つ馬を見る。
背は見上げるほど高く、脚も私の胴ほど太い。蹄の上には、長い毛がふさふさと生えている。
背には二人で座れる大きな鞍が載せられ、その脇には、荷袋が一つ括りつけられていた。
「私たち、このお馬さんに乗っていくの?」
「ああ」
「さっき馬車も出ていったのに、どうして私たちは馬なの?」
カシアンは馬の鼻面を撫でながら答えた。
「こちらのほうが速いからだ」
「ふうん……お馬さん、大変そう」
「大丈夫だ。この国で最も力の強い品種だからな」
先に出た豪奢な馬車が道の向こうへ消えると、カシアンが目の前で腰をかがめ、両腕を差し出した。
「それじゃ、俺たちもそろそろ出発しようか」
カシアンに軽々と抱き上げられ、鞍の前へ乗せられる。続いて彼も、私の後ろへ跨る。
「車椅子は持っていかないの? 私、歩けないのに……」
「車椅子まで馬に積むことはできない。歩く必要があるときは、俺がおぶる」
そこへ、屋敷の中からイリアが駆けてきた。
手には一本の長い杖が握られている。先端の窪みには、ほとんど透明な淡青色の増幅石が嵌め込まれ、柔らかな光を宿していた。
「アリア、ちょっと待って……はあ、はあ……間に合ってよかった……」
イリアは息を整え、杖を私へ差し出した。
「これは何?」
「アリアへの贈り物よ。これに魔力を流せば、今までよりずっと楽に、魔力を操れるようになるはずだから」
「へえー……ありがとう」
受け取った杖を、上から下まで眺める。
片手にちょうど収まる太さで、私の上半身よりも長い杖。その中ほどには、先ほど女の人の翼から抜いた羽が綺麗に整えられ、細い糸でしっかりと巻き留められている。
カシアンが手綱を握り直した。
「では、俺たちは出発します」
「はい」
イリアは答え、最後に私を仰ぐ。涙の残る瞳と目が合う。
「……行ってらっしゃい、アリア」
「うん」
「帰ってきたら……そのときは、お姉ちゃんとたくさんお話ししようね」
意味も分からないまま頷くと、イリアは涙の跡を残したまま笑った。
馬が歩き始めた。
杖を胸に抱き、カシアンに身を預けたまま、何度も後ろを振り返った。
そのたび、イリアは同じ場所から手を振っていた。
屋敷も人々も丘の向こうへ隠れ、最後まで見えていたイリアの手も、とうとう見えなくなった。




