51話「色」
翌日、陽が傾き始めた頃。
ベッドに仰向けになり、手にした青い鳥のぬいぐるみを宙で飛ばしていた。
「ぶーん、ぶーん」
ひとしきり飛ばしたあと、そのまま胸へ抱き込んだ。
「カシアン……今日は遅いな」
『アリア、おはよう』
「クロノア!」
頬がぱっと緩んだ。
私の身体に宿っているという精霊、クロノア。
昨日の夜、初めて頭の中に声が響いたときは、驚いて布団をかぶってしまった。でも、今はもう知っている。
姿は見えなくてもいつも一緒にいて、時間を操れる、とてもすごい友達なのだ。
「クロノア、クロノア! 聞きたいこと、いっぱい書いておいたの。質問してもいい?」
『うん、もちろん!』
スケッチブックを持ち上げ、端に書いておいた文字を読み上げる。
「えっと……クロノアは時の精霊だから、私も時間を止めたりできるの?」
『うん。わたしは君。君はわたし。わたしにできることは、アリアにもできるよ』
「へえー」
首に掛かったペンダントに手を置き、部屋いっぱいに声を張り上げた。
「時間よ、止まれ! どう? 止まった?」
『うーん……止まってないよ。先に魔力を身体へ取り込まなきゃ』
「魔力を?」
ペンダントを目の高さまで持ち上げた。嵌め込まれた宝石の奥で、青い光が揺れている。
その揺らぎを追ううちに、 頭がぼんやりする。無意識に指先へ力がこもり、掌を通して何かが身体へ染み込んでくる。
クロノアが鋭く呼び止めた。
『アリア、待って!』
「びっくりした! どうしたの……?」
『そんなふうに魔力を使ったら、もったいないでしょう……?』
「むう……でも、どうして私はこれがないと魔力を使えないの?」
『それは……』
答えを待たず、青い鳥へ姿を変えて飛び上がった。
「もういい。退屈だから、カシアンを捜しに行く」
『アリア、車椅子で行ったほうがよくない?』
「嫌。人の姿だと足も動かないし、不便なんだもん」
わずかに開いた扉の隙間を抜け、廊下へ飛び出した。
カシアンを捜して飛び回っていると、廊下の先の部屋から、彼の声が聞こえてきた。
『アリア、まさかここで変身を解くつもりじゃないよね?』
クロノアの言葉を聞き流し、床へ降り立った。壁際に身を隠し、開いた扉の隙間から室内を覗いた。
純白の髪と翼を持つ女性が、皺だらけの紙を握り締めている。
「嘘でしょう? 最低……どうして、こんなことができるの……?」
「イリア様、落ち着いてください。やむを得ないことは、あなたもお分かりでしょう」
彼女の前に立つカシアンが、声を抑えて答えた。
息を潜め、耳を澄ませた。
「……申し訳ありません。ですが、異種族排斥主義者ごときにできることではありません。なのに、どうして……」
椅子へ崩れ落ちる音がした。
「追い詰められれば、人の視野は狭まります。生き残った封臣たちが揃って異種族排斥主義者の仕業だと証言し、唯一の現場生存者であるアリアにも記憶がない。世間には、それで十分なのです」
ほどなく、女の声が続いた。
「ですが、魔法使いたちの惨殺、領地の外れで見つかった遺体、それに北進城砦へ通じるワープスクロール……」
そこで言葉を切り、乱れた息を整えた。
「一連の動きを見る限り、お母様の手記の内容まで把握していたとしか思えません。情報を流した内通者がいるのは明らかです。そして、そんなことができるのは……キリアン叔父様しかいません」
気づけば、爪先が床をひと掻きしていた。
何を話しているのか、ほとんど分からない。それなのに、耳だけは勝手にその声を追っていた。
女は乱れた呼吸を整え、話題を変えた。
「それで、遺体の調査はどうなりましたか?」
「……遺体に残された傷は、いずれもグランデル家の剣技によるものとは一致しません。かろうじて残っていた襲撃者と見られる三体も、復元できないほど凍結し、損壊していました」
「そうですか……」
それまで震えていた女の声が、急に冷えた。
「カシアン様。明日、お母様の葬儀を終えたら、アリアを連れてすぐ翠蘭へ向かいます」
「それは認められません」
椅子が、かすかに軋んだ。
「私が翠蘭の魔力石鉱山へ行き、そこに棲みついた怪獣――巌窟鬼を討ちます。その素材から脳糸虫の駆虫薬を作れば、アリアを救えます」
「許可できません」
カシアンはきっぱりと言い切った。
「なぜですか……? 巌窟鬼を倒せば鉱山も再開でき、魔力石の価格もじきに戻ります。風力石の普及も進み、アリアが回復して証言すれば――」
「イリア様」
その一言で、会話が途切れた。
カシアンが声を落とす。
「彼らが得意とする化学兵器すら投入せず、鉱山を放棄したのには理由があります。魔法――とりわけ氷魔法は、坑道内での戦闘には向かない。崩落させてしまえば、薬も手に入りません」
「ですが……アリアは、私に残された最後の家族です。あの子を放っておくことなど――」
「俺が行きます」
カシアンの低く揺るぎない声が、女の言葉を遮った。
「え?」
「明日の葬儀が終わり次第、アリアと二人で馬に乗り、出発します。俺は翠蘭とも縁がありますし、剣ならば鉱山内でも比較的安全に戦えます」
椅子が床へ倒れる激しい音が響いた。
「いけません、カシアン様! 一国の王子が、護衛も連れずに異国へ赴くなど……」
「問題ありません。そもそも翠蘭では、王族という身分そのものがさほど重視されていません。俺が訪れたところで、遠方から来た客人の一人としか見られないでしょう」
返事は、すぐには返ってこない。
「アリアの頭に寄生した虫が完全に癒着するまで、残り三週間ほどです。護衛を伴えば、移動だけで二週間かかる。俺とアリアだけで急ぎ、現地で薬を飲ませるしかありません」
「ですが……」
「それからイリア様は、家門の整理を終え次第、王都へ戻ってカエレン兄上を支えてください。兄上は軍略には長けていますが、政争は不得手です」
女の返事までには、長い間があった。
「……承知しました」
一度、足音が響く。それから、女がためらいがちに呼び止める。
「その、カシアン様。なぜ……そこまでアリアのためにしてくださるのですか? 私の指輪が反応したときも、そうでしたが……」
足音が止まる。
カシアンの手首で時を刻む秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
扉の陰から顔だけを出し、部屋の中を覗く。カシアンはこちらに背を向け、女と向き合っている。
ただ、強く握られた拳だけが目に入る。
「あの子は……俺の世界に色をくれた人です」
低い声だった。
「何もかもが白と黒しかなかった世界で、色鉛筆を差し出してくれた――あの手がなければ……今の俺はいません」
カシアンが不意にこちらを振り返った。
慌てて飛び上がり、来た道を引き返した。
***
部屋へ戻って人の姿になり、服を着てベッドへ横たわった。
ほどなく扉が開き、カシアンが入ってきた。昨日と同じく、ベッドの前へ椅子を運んで腰を下ろした。
手首の時計は、もうすぐ八時を指すところだった。
カシアンも時刻に気づいたのか、わずかに眉を下げた。
「七時に来ると言っておきながら、ずいぶん遅くなってしまったな。すまない、アリア」
「ううん……平気」
彼はスケッチブックを手に取り、こちらへ差し出した。
「明日から二人で遠くへ旅に出る。今夜は少しだけ描いて、早めに休もう」
「うん……」
こくりと頷く。
「どこへ行くのか、不安ではないのか?」
「うーん……不安だけど、カシアンが一緒なら平気」
カシアンは鉛筆を走らせ始めた。絵を描きながらも、視線はたびたび机の上の穀物へ向かった。
鉛筆を動かしたまま、尋ねてくる。
「俺が悪い人間かもしれないとは思わないのか? 二人きりになってから、俺が君にひどいことをするとは考えないのか」
「カシアンは悪い人じゃないよ。私に優しくしてくれるもん。だから、そんなことしないよ」
私も色鉛筆を手に取り、昨日の絵へ色を重ねた。黒い髪の少年を囲む景色が、少しずつ色づいていく。
「カシアン……昨日話してたププっていう鳥が、心配なの?」
「……鳥は賢い生き物だ。きっと元気にしているだろう」
彼の眉尻が、わずかに下がった。
その横顔を窺い、口を開いた。
「ププなら、私が見たよ」
鉛筆が止まり、カシアンの顔が上がった。
「本当か? いつだ?」
「えっと……一時間くらい前。ここへ来て、餌を見てから出ていったよ。お腹がこーんなに膨らんでたから、きっとお腹いっぱいだったんだよ」
張りつめていたカシアンの表情が緩んだ。彼は絵へ目を戻した。
「そうか。それなら、よかった」
私はスケッチブックを下ろし、身体を動かしてベッドの縁へ座った。
「ねえ、カシアン。鳥が好きなの?」
「……大切な存在だ」
「じゃあ、私も鳥になったら好きになってくれる?」
カシアンはすぐには答えなかった。暗い瞳の奥からは、何も読み取れない。
「どうしてそうなる。俺にとっては、もう君も、あの鳥も、この国で生きる者たちも、皆大切だ」
「ふうん……」
カシアンはスケッチブックを置き、魔力灯のスイッチを切った。
「明日は朝が早い。そろそろ休みなさい」
席を立とうとした彼の手を、とっさにつかんだ。
「カシアン。私って、カシアンの迷惑?」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
カシアンが振り返る。消えかけた魔力灯の光とともに、その顔も闇へ沈んでいった。
彼はつかまれた手を解き、代わりに私の髪を撫でた。
「迷惑ではない。そんな心配はしなくていい。早く眠りなさい」
「うん……」
カシアンが部屋を出ていったあと、暗闇の中で自分の頭に手を置いた。
まだ、彼の温もりが残っている気がした。
その瞬間、胸の奥がずきりと疼いた。
布団の中で身を丸め、寝間着の上から胸元を強く押さえた。目を閉じても、鈍い痛みはなかなか消えなかった。
いつしか瞼が重くなり、意識はゆっくりと遠のいていった。




