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50話「母」

 グリムナル族の男は、私から距離を取り、腰を下ろした。


 口を開いた。だが、相変わらず声は出ない。


 ――叔父様は、どうしてここまでして私を殺そうとするの?


 ――お母様は? 家は? いったい何をするつもりなの?


 いくつもの疑問が、痛みとともに頭の中を巡った。それでも、答えは見つからなかった。


 陽が沈み始めていた。


 彼らが屋敷の方角へ向かう姿は見えたものの、距離があり、何が起きているのかまでは分からない。


 唇に、わずかに感覚が戻ってくる。


「あなた……は。誰……」


 男が振り向いた。


「……我らの子供たちが、君の世話になった。救世主よ。グリムナル族は、受けた恩を忘れない」


 男の外套へ目を落とした。


 戻り始めた力で身体を捩り、口を開く。


「屋敷……へ……」

「焦るな。あの者たちは強い。私一人ならともかく、君まで守りながら戦える保証はない」


 男は立ち上がり、私の前へ回り込んだ。


「訊きたいことが多い顔だな」

「ぐっ……」


 ほんの数語を発しただけで、唾液(だえき)が喉に絡み、声がまた詰まった。


「私はグランデル家に仕えて十年以上になる。恩返しになるかは分からないが、一つ情報を与えよう」


 男は槍を地面に突き立て、屋敷の方角を見た。


「なぜグランデル家が、あれほどオルネン家に執着するのか――長女セレネ・グランデル。彼女を殺したのは、君の父、アイゼン・オルネンだ」


 男はさらに続けた。


「そして――セレネ・グランデルは、君の叔父キリアン・オルネンの婚約者だった」


 二つの事実が頭の中で絡まり、考えがまとまらない。


「嘘……お父様が、そんな……こと……」

「信じるかどうかは、君の勝手だ」


 不意に、頭の奥でクロノアの声がした。


『おはよう、アリア……』

「クロノア様!」


 心の中で叫んだ。こぼれそうになる涙を呑み込み、言葉を続ける。


「キリアン叔父様に、また騙されました」

『えっ!? 今度はどうして?』

「それが……私にも、まだよく分からないんです」


 指を一本ずつ曲げ、感覚を確かめる。


遮断杭(シェル・パイル)への投票……それが目的だと思っていました。でも、どうやら違うようです」

『どういうこと? じゃあ、どうしてあいつらは、そこまで君たちを苦しめるの?』

「……おそらく、復讐です」


 グリムナル族の男から聞かされた話を、そのまま伝えた。


「私のお父様が、グランデル家の長女で、叔父様の婚約者だったセレネを殺したそうです」

『ええ!?』

「うっ……声が大きいです。もちろん、私は信じていません。お父様がそんなことをするはずありませんから」


 爪が、手のひらへ食い込んだ。


「それに、仮にそれが事実だったとしても、叔父様がここまで事を大きくする理由が分かりません」

『それも復讐なんじゃない……?』


 翼にも力を入れてみる。傷口に鋭い痛みが走った。


「いいえ。それなら、どうしてお父様が亡くなってから十年間、何もしなかったのか。なぜ、黒雪が発生した今なのか。ワープで私を簡単に殺せるようになったというだけでは、説明がつきません」


 目を閉じ、思考を頭の奥へ沈めた。ひび割れた唇を噛むと、鉄の味が舌先へ滲んだ。


 最も大切な人を失ったとき、私なら何を望むだろう。


 お父様が亡くなったときに感じたもの。


 もし今、あの人が死んでしまったら――私が取るであろう行動。


 目を見開いた。


「クロノア様。時間を巻き戻すのは、クロノア様の権能ですよね? 魔法で行うこともできるのでしょうか」

『ん? うん、時間は権能の領域だよ。定命(じょうみょう)の者が干渉するのは、ほとんど不可能』

「ほとんど? それなら、可能ではあるんですね?」


 クロノアの返事が途切れた。


『うん、まあ……時間も結局は、お母様が定めた摂理(せつり)の流れの一つだから。ただ、そこには錠が掛かっていて、権能という鍵がなければ、干渉するのは不可能に近い』

「近いということは、できるんですね。遠回しに言わないでください」

『うん。ただし、その扉を開けるには、とてつもない魔力が必要になるよ。王国中の魔力を残らず集めて注ぎ込んでも、狭い範囲の時間を少し戻すのが精いっぱいだと思う』


 膝の上へ目を落とす。


 クロノアは、私とともにいる。そして、それほど莫大な魔力は、王都の魔力源をもってしても用意できない。


 考え込んでいると、クロノア様が別の話を切り出した。


『それよりアリア、君の頭の中にあるそれ、大丈夫なの? 何か変なものがくっついてるけど』


 頭に手を当てると、頭蓋(ずがい)の奥がずきりと痛む。


 顔をしかめながら答える。


「……これ、叔父様が南方の寄生虫(きせいちゅう)だと……クロノア様には見えるんですか?」

『見えるっていうより、私は位相を感じ取れるから。頭の真ん中に、小さな(こぶ)が一つくっついている感じ。そのほかに、妙な動きはないけど』


 戻り始めた指で操縦桿(そうじゅうかん)を握り、車椅子を起動した。


『アリア、どこへ行くつもり? 今からでも逃げたほうがいいんじゃない?』


 クロノアとほぼ同時に、グリムナル族の男も口を開いた。


「どこへ行くつもりだ。まだ、まともに動かせるのは手だけだろう」

「お母様に……知らせに行きます」

「なぜだ? 君は結局、当主になりたかったのではないのか。それに、あの女の身を案じる必要はない。あれは化け物だ」


 車椅子を止めた。操縦桿を強く握り締める。


「認めたくはありませんが、叔父様は狡猾(こうかつ)です。あの人の思惑どおりに、家族を傷つけさせるつもりはありません」


 それだけ告げ、操縦桿を前へ倒して屋敷へ向かった。



***



 屋敷は静まり返っている。


 護衛兵たちは定例訓練で演習場へ出ているとしても、侍女の姿すら見当たらない。


「リーゼ! リーゼ!」


 呼び声は天井に跳ね返り、虚しく戻ってくるだけ。通信石に向かって呼びかけても、結果は同じだ。


「みんな、どこへ行ったの……」


 車椅子を走らせ、真っ先に当主の執務室へ向かった。


 辿り着くと、扉がわずかに開いている。


 室内には、意外なほど目立った変化がない。


 書類は机の上に整然と並び、椅子も元の場所へ収められている。窓辺の花瓶も、壁を埋める魔導書も、そのままだ。


 ただ一つ。


 魔法陣(まほうじん)で封じられていた引き出しだけが、箱ごと打ち砕かれている。


 そこへ近づき、中を確かめる。


 入っていたのは、相変わらず一冊のノートだけ。解除石も、ほかに価値のありそうなものもない。


 ノートを取り出し、膝の上へ載せる。表紙が指先から滑り落ちかけた。


 息を整え、最初のページをめくった。


『あなたの葬儀を終えました。


 表向きはピュアリストの襲撃とされていますが、グランデル家の仕業(しわざ)だと分かっています。あなたなら逃げられたはずなのに、手にはアリアの羽根が握られていました。


 偽物だと知りながら、あの子を守ろうとしたのですか。


 今日、私はアリアを叩きました。あの子の心に、消えない傷を残してしまったのでしょう』


 ページをめくる指が止まる。ノートの縁が、手の中で歪む。


 何度か瞬きをして、次のページをめくった。


『アリアを狙う暗殺が相次いでいます。


 先月は食事に細工され、今度は雇い入れたばかりの侍女が逃亡しました。セレネの死があったとはいえ、度を越しています。


 あの者たちは、アリアが自らの魔力を扱えるようになるまで、待つつもりはないのでしょう』


星王暦(せいおうれき)三二二年。


 アリアの魔力を封印しました。


 イリアは宮廷魔導長の仮契約を結び、アリアも来年には学院へ入学します。これで二人とも安全です。


 私は、正しかったのでしょうか』


 呼吸が浅くなる。


 ――あのとき。薔薇園で転び、傷を負った五歳の夏。


 さらにページをめくる。


『二人はまだ無事です。けれど、オルネン家はずいぶん弱くなりました。


 イリアは卒業すれば王家の庇護(ひご)を受けられます。けれど、アリアには帰る場所がありません。


 卒業後は、解除石とともに霧嵐公国(むらんこうこく)黎侯家(れいこうけ)へ送り出すつもりです。そのとき家への未練を断ち切れるよう、これからは、今まで以上にアリアへ厳しく接すると決めました』


 その下には、数年にわたる短い記録が続いていた。


『あなたに会いたい』

『あなたなら、きっと別の道を見つけたのでしょうね』


 そして――


『星王暦三三三年。


 北方で、あらゆるものを呑み込む黒い雪が発生しました。


 アリアは野外授業で怪我をし、現場からはワープスクロールも発見されたそうです。


 グランデル家が、再び動き始めました』


『イリアが宮廷魔導長の就任式へ向かいました。あなたに似た、立派な魔法使いに育ちました。


 アリアも来月、霧嵐公国へ旅立ちます。事情を伝えると、予定を早めても受け入れてくださるとの返事をいただきました。


 私の身体も、以前のようには動きません。


 黒雪を巡る争いの中で、オルネン家は近いうちに滅びるでしょう。あなたが愛し、守ろうとした家を守り抜けなくて、ごめんなさい。


 それでも二人の娘は、家を失っても、この世界で自由に羽ばたいてくれると信じています』


 紙の上に、雫が落ちた。滲み始めたインクを、慌てて袖で押さえる。


 震える手で、最後のページをめくった。


 そこには――


 破れた絵の欠片が丁寧に貼り合わされ、再び一枚の絵になっている。


 幼い頃に私が描き、お母様が目の前で引き裂いた絵。その隣には、毎年の茶会で撮られた、私とお姉様の写真が隙間なく並んでいる。


 ページのあいだから、二通の手紙が滑り落ちる。


 一通はイリアへ。


 もう一通は――アリアへ。


 自分の名前が書かれた封筒を拾い上げる。封を切ろうとする手が、何度も滑った。


 折り畳まれた紙を広げる。最初の一行で、目が止まった。


 手紙を胸へ抱き締める。肩が大きく、一度だけ揺れる。


 声は喉の奥でつかえ、外へ出ることなく、内側で砕けていく。


 喉の奥で膨らんだ嗚咽が、今にも堰を切ろうとした。だが、窓の外に広がった異変が、それを断ち切る。


 窓の外の闇が、異質な色へ塗り替わる。すべての音が上空へ吸い込まれ、空には、地上を見下ろす無数の氷の瞳が浮かんでいる。


「お母様……!」

『南だよ! 薔薇園のほう!』


 ノートを机に置き、薔薇園へ向かって車椅子を走らせた。



***



 薔薇園へ辿り着くなり、凄まじい冷気が全身を包む。


 薔薇はことごとく霜をまとい、もはや花の面影すらない。凍てついたアリアの花が、白く咲き乱れる庭園。


 庭園へ一歩踏み込むと、空を覆っていた領域が消え、いつもの星空が戻る。普段は空を包んでいる結界の青い膜も、跡形なく消えている。


 そして、庭園中央の空き地。幼い私が駆け回り、転んで傷を作った、まさにその場所。


 その奥にある薔薇の茂みに――お母様が、髪も衣服も乱れたまま倒れている。彼女の周囲だけは、凍りついた花々が血を吸い、赤く染まっている。


 その手前には、人の形を残したまま氷の花と化したものが三つ。さらに、キリアン叔父様と、血に濡れた剣を持つ外套の男が立っている。


「お母様!!」


 私の姿を認めたキリアン叔父様は、大きく目を見開いた。だが、すぐに表情を緩める。


「やはり、お前は私の予想を超えてくるね。いったい、どうやってここまで来たんだい?」


 そう言って、独り言めいた調子で続けた。


「まあ、いいか。保険を掛けておいて正解だったな」


 懐から小さな欠片を取り出す。手の中で握り潰し、砕けた粉を地面へ撒いた。


「どうして……どうして! セレネの復讐なら、お父様だけで十分だったでしょう! なのに、なぜここまで……!」


 叔父様の顔が、わずかに歪んだ。眼鏡を押し上げる。


「ほう……また驚かされたよ、アリア。なぜお前の口から、その名前が出てくるのかは分からないが」


 叔父様がこちらへ一歩踏み出す。直後、二本の氷槍(ひょうそう)が飛来し、その両脚を貫く。


 奥では、倒れたお母様が片手を掲げている。


 叔父様は振り返りざま、懐から杖を取り出す。先端で脚に突き刺さった氷槍を叩くと、槍は粉々に崩れ落ちる。


 彼の杖の増幅石が明滅し、空中に無数の氷棘(ひょうきょく)が生まれる。


「いったい、どこまでしぶといのですか、姉上。ご安心ください。あなたの娘たちには危害を加えませんから、そろそろ兄上のもとへ行かれてはいかがです?」

「ま、待って――!」


 声が届くより早く、氷棘がお母様へ降り注ぐ。


 掲げられていた手が、地面へ落ちる。


「嘘……でしょう……?」


 車椅子を走らせ、そちらへ向かう。車輪の下で氷が砕ける音が、ひどく遠くから聞こえている。


 叔父様が囁く。


「最後に教えておこう。私が望むのは復讐でも遮断杭でもない。王都に、かつてない巨大な魔力源を築くことだ。お前なら、いずれこの意味を理解するだろう」


 その言葉は、ただ耳元を通り過ぎていった。


「それでは……さよなら、アリア。どうか元気で」


 別れの言葉とともに、キリアン叔父様と外套の男を青い光が包んだ。青い光が強く明滅し、二人の姿が消えた。


 二人が消えた場所を通り過ぎ、お母様のもとへ向かった。


 手が震える。


 どこへ触れればいいのか分からず、何度も宙をさまよう。喉がひゅっと鳴り、止めていた息が一気に流れ込む。


 車椅子から滑り落ち、お母様のもとへ這っていった。


 片目は(えぐ)られ、肌は凍てついた薔薇と同じ白へ変わりつつある。唇は灰色を帯び、胸だけが辛うじて上下している。


「お母様……お母様、私です。アリアです。目を開けてください」


 声がひび割れた。


「ここに、ここにいます。だから――」


 お母様の手が、震えながら持ち上がる。青い宝石を嵌め込んだペンダントを首から引きちぎり、私へ差し出す。


 お父様が襲われたあの日、私の首に掛けてくれたもの。のちに、私がお母様へ返したペンダントだ。


 それを両手で受け取る。


 お母様が口を開いた。


 漏れたのは言葉ではなく、穴の開いた器を風が抜けるような、ひゅう、ひゅうという呼吸だけだった。


 手が地面へ落ちた。瞳から光が消え、焦点が虚空(こくう)へほどけていく。


 ペンダントを傍らに置き、お母様の胸へ両手を重ねる。


「サエナ・ミル……我が息を、そなたに」


 震える声で唱えた。


 何も起こらない。


「サエナ・ミル……我が息を、そなたに。サエナ・ミル、サエナ・ミル……!」


 何度も、何度も繰り返した。


『アリア……もう、やめて』

「いいえ、まだできます。私の位相を分け与えれば――」


 空から、雨が降り始める。


 冷気を(はら)んだ雨。


 氷棘が溶け落ち、無数の穴を穿(うが)たれたお母様の身体が、残酷なほど鮮明に露わになっていく。


 その胸元には、赤く染まった私の羽根が一枚。


 腕から力が抜ける。


「嫌……」


 お母様の肩を叩く。


「謝って……謝ってよ。どうして私に、あんなことしたの? どうして一度も、話してくれなかったの?」


 今度は、先ほどより強く肩を叩いた。


「こんなの、望んでなかった。……私を見て。頭を撫でてよ……」


 雨が顔を伝って流れ落ちる。


 どこまでが雨なのか、もう分からない。


「ママ……ママ……」


 お母様の身体を抱き締める。


 冷たく、重い身体。


 重なった二人の身体へ、雨が降り続けた。



***



 どれほど時間が過ぎたのだろう。


 雨が止みかけた頃、傍らに置いたペンダントを手に取った。


 クロノア様が言った。


『これは……アリア、君の魔力だよ』

「……私の?」


 泣き腫らした瞼が重く、喉の奥が詰まった。


『うん……ものすごい量。普通の魔法使いが十年は掛けないと蓄えられないほどの魔力だよ。そして、君自身の魔力だから、身体に負担を掛けずに使えると思う』


 何も言わず、ペンダントを首へ掛けた。


 地面を這い、車椅子のもとへ向かう。


『これから、どうするの……?』

「返します……」


 歯を食いしばった。


「グランデルにも、キリアンにも……されたことは、全部返してやります」


 車椅子へ這い上がろうとしたところで、頭の奥に鈍く重い痛みが弾けた。視界の縁が黒く染まり、中央へ向かって狭まっていく。


 そのまま、雨に濡れた地面へ倒れ込んだ。



***



 陽射しが、瞼の上へ降り注いでいる。


 瞬きを重ねるうち、ぼやけていた白い天井が輪郭を取り戻していった。


 上半身を起こした。


 高い天井から吊るされた硝子灯(ガラスとう)。壁を覆う濃紺の壁紙には、銀色の紋様が、枝分かれしながら壁を這っている。


 どれ一つとして、見覚えがない。


 身体には、真っ白な夜着を着せられている。


 淡い香りを追って顔を向けると、寝台脇の卓上に置かれた硝子瓶に、薔薇が一輪挿してある。


 その隣には、スケッチブックと色鉛筆が並んでいる。


 スケッチブックを手に取った。


 中には、隙間なく絵が描かれている。


 卓上に飾られた一輪の薔薇と寝台で静かに眠る一人の少女。


 線を数本引いただけで終わっているページもあれば、隅に小さく日付だけが記されたページもある。


 ページをめくっていると、部屋の扉が開いた。


 慌ててスケッチブックを元の場所へ戻し、掛布を鼻先まで引き上げる。


 入ってきたのは、背の高い青年だった。


 光を吸い込むほど、真っ黒な髪。切れ長の目の奥には、髪と同じ漆黒の瞳がある。


 私に気づいた彼は息を呑み、足早に寝台へ近づいてきた。


「ようやく目を覚ましたのか! 具合はどうだ? 苦しいところはないか?」


 身体を後ろへ引きながら、問い返した。


「誰……? 私のこと、知ってるの……?」


 彼は足を止め、一歩退いた。傍らの椅子を引き寄せ、寝台の前へ腰を下ろす。


 手を差し出しながら言った。


「いや、初めて会う。俺はカシアン。カシアン・ルンヘルムだ。君は、何という名前なんだ?」


 差し出された手へ指を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。


 視線は、彼の手首に巻かれた――小さな青い鳥の飾りがついた、淡い青色の時計へ吸い寄せられていた。


「……私はアリア。アリア・オルネン」


 カシアンは自分の時計を私に見せた。


「これが気になるのか?」


 こくりと頷く。


 彼の口元が緩み、懐からよく似た時計を取り出した。彼のものより一回り小さく、真っ白な縁取りが施されている。


 鼻先まで引き上げていた掛布が、いつの間にか口元まで下がっていた。


 身体が自然と前へ傾き、視線が時計を追う。


「左手を出してくれるか?」


 おずおずと手を差し出した。


 カシアンは、その手首に時計を巻いてくれた。手首をあちらこちらへ回してみる。


 ちく、たく。


 小さな音が、手元から響いている。


 時計を耳元へ寄せ、次にカシアンのものと見比べた。


「……おそろい」

「ああ。おそろいだな」


 笑みがこぼれ、慌てて掛布の陰へ顔を隠した。


 掛布の陰からカシアンを窺い、口を開いた。


「カシアン……ここは、どこ? 私はどうして、ここにいるの……?」


 しばしの沈黙が落ちた。


「ここは、君の部屋だ。君は長いあいだ病気で眠っていて、今は身体を治しているところだ」


 彼はひと呼吸置き、言葉を選んだ。


「いくつか忘れてしまったことがあるようだが――大丈夫だ。焦る必要はない。ゆっくり思い出していけばいい。それまでは俺がそばにいるから、何も怖がらなくていい」


 返事をする前に、お腹が、きゅるる、と鳴った。


 カシアンは小さく笑い、スケッチブックと色鉛筆を手に取った。一枚だけ紙を切り離し、残りのスケッチブックを私へ差し出す。


「食事が届くまで、一緒に絵でも描かないか?」


 そっと頷き、スケッチブックを受け取った。


 続いて、色鉛筆も差し出される。


「これも、使いたければ使うといい。絵は色鮮やかなほうが楽しいだろう?」

「うん。使う」


 色鉛筆を受け取り、青と黒を一本ずつ抜き出した。


 受け取るなり、スケッチブックに絵を描き始めた。


「何を描いているんだ? そんなに楽しそうに笑って」

「ひみつー」

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