49話「罠」
木立の奥に、旧結界観測所が姿を現す。
石を積み上げた円塔が一つ。屋根は半分ほど崩れ落ち、壁を這う蔦が窓を半ば覆っている。長く手入れされていない道は、膝の高さまで伸びた雑草に覆われ、進むたび車輪を取られる。
行く手では、結界の薄膜が青白く揺らめき、空へ向かって伸びている。
観測所の扉が軋みを上げて開き、キリアン叔父様が出てくる。
髪についた埃を払いながら私を見つけると、満面の笑みを浮かべた。
「アリア。やはり来てくれたか。さすがは私の賢い姪だ」
無言で睨み返す。
叔父様は笑みを引っ込め、古びた観測所を見上げた。
「知っているかい? 私が幼い頃は、この結界観測所がまだ使われていてね。私もよくここへ来たものだ。今では屋敷のそばに新しいものが建ったが」
「叔父様は、思ったより話を逸らすのがお好きなんですね。それで、解除石はどこにあるんですか」
キリアン叔父様が、ようやくこちらへ向き直った。
「そうだな。結論から話そう。解除石はここにはない」
「やっぱり……嘘だったんですね」
「人の話は最後まで聞くものだよ、アリア」
彼は背中で両手を組み、結界の境界へ向かって歩いていく。
「解除石は確かに存在する。当主の執務室に、封印の施された金庫がある」
「それでは、結局手に入れられないではありませんか」
「いや。だからこそ、お前に一つ提案がある」
叔父様が結界の境で足を止める。
薄膜の向こう、木陰から五つの影が現れる。黒い外套に身を包み、純白の仮面で顔を覆った大柄な男たち。
けれど、グリムナル族とは違う。仮面の目元は細く鋭く切り抜かれ、外套には、白い炎が黒い翼と獣の角を焼き尽くす紋章が刻まれている。
異種族排斥主義者の印だ。
五歳の誕生日、お父様と魔導車椅子を見に出かけた。その帰りに馬車を襲った者たちも、同じ仮面と外套を身につけていた。
反射的に車椅子の操縦桿に手を伸ばす。手のひらに滲んだ汗で、操縦桿が滑る。
「これは、いったい……!」
叔父様がこちらへ向き直り、慌てて両手を上げた。
「待て、アリア。お前を傷つけるつもりはない。まずは落ち着きなさい」
「嘘をつかないでください! 私がグランデル家のせいで、どんな目に遭ったか知っているでしょう……!」
ひび割れた声が飛び出した。操縦桿を握る指が、冷たく強張っていく。
「今回は取引をしようという話だ。お前にとっても悪い話ではない。お前の望みは、魔力の解放とオルネン家への復讐だろう?」
強張っていた指が、わずかに緩んだ。
叔父様が続ける。
「アリア。お前は直系の権限を使い、この者たちを結界内へ入れるだけでいい。彼らが執務室から解除石を持ち出す。それを使えば魔力の封印を解ける。さらに望むなら――この家のすべてを手に入れることもできる」
「血統保全誓約……」
「そうだ。やはり、お前は話が早くて助かるよ」
顔を伏せた。
青い鳥の姿で忍び込んだときに見た、お母様の部屋が浮かぶ。今も残されている、お父様の外套と眼鏡。
足元では、子を背負った母蠍が、雑草のあいだをゆっくりと這っている。
下唇を強く噛み、顔を上げる。
「叔父様のおっしゃるとおり、魔力の解放も、当主の座も、私が望んでいるものです。ですが、そのために家族が傷つくことは望みません。私自身の安全も保証してください」
「はは、その点は心配しなくていい。言っただろう。お前を殺すのは自殺行為だ。それに、結界内ではワープも使えない」
彼は、外套の男たちが携えた武器へ視線を移した。
ルーンを刻んだ、反魔導兵器。
「エララ姉上を傷つけるつもりもない。だからこそ、今日を選んだのだよ。今頃、姉上は演習場で封臣たちを指導している。執務室へ入り、金庫を反魔導兵器で斬り開いて、解除石を取り出す。それだけだ」
眼鏡を押し上げながら、言葉を継いだ。
「そもそも、この五人でお前の母親に勝てると思うかい? 歳を取ったとはいえ、伊達に『氷の魔女』と呼ばれてはいない。数千の兵でも揃えない限り、いかにグランデル家でもオルネン家を落とすのは不可能だ」
外套の男たちへ顔を向けた。
仮面に穿たれた細い穴の奥は、暗闇に沈んでいた。誰を窺っているのかも判然とせず、背筋に冷たいものが走る。
大きく息を吸い、口を開く。
「ですが、それでも理解できません。グランデル家がオルネン家を狙う理由は、夏の議会で風力石の改良計画を中止させるためでしょう? 私が当主になれば、むしろ困るのではありませんか」
「ん? まだ風力石の改良に執着しているのか」
彼の口元が歪んだ。
「お前なら誰より分かっているだろう。議会までに目標値へ到達するのは不可能だ。お前自身の手で、遮断杭へ賛成票を投じればいい。そうすれば、カシアン王子殿下も、面目を失わずに済むだろう」
これまで書き散らしてきた、数え切れないほどの風力式が脳裏をよぎる。
その果てに浮かんだのは――意見が割れ、何一つ決められないまま、黒雪に覆われた王都の空の下で崩れ落ちていく、あの人の姿。
手首の時計を、指先で強く押さえた。
「……分かりました。ただし! 解除石を持ち出す以外、誰にも危害を加えないと、騎士道に誓ってください」
叔父様が、外套の男たちへ横目を向けた。
中央に立っていた男が一歩前へ出る。男が剣を掲げると、後ろの四人も同じ動作に倣った。
「グランデル騎士道の名において、我らは解除石の奪取のみを目的とし、オルネン家の何人にも危害を加えぬと誓おう」
五本の剣が、揃って下ろされる。
叔父様の口元に、笑みが戻った。
「彼らにとって騎士道の誓いは、命よりも重い。これで満足かい、アリア?」
「…………」
答えず、結界の外に立つ男たちのもとへ進んだ。境界を越えてから振り返り、青白い薄膜へ手を添える。
乾いた喉を鳴らしてから、口を開いた。
「私、アリア・オルネンは、この五名にオルネン領への立ち入りを許可する」
結界に目立った変化はない。
だが、外套の男たちが一人ずつ境界を越えても、薄膜は何の抵抗も示さない。
最後に境界をまたぎ、結界の内側へ戻った。
「約束は必ず守ってください、叔父様」
「もちろんだとも」
叔父様の手が、うなじに触れる。鋭い痛みが走る。
慌ててうなじを押さえると、指先に血がつく。赤く濡れた指が震え始める。
顔を上げると、キリアン叔父様が片手に注射器を持ち、こちらを見下ろしている。
「私に、何を――」
言葉を継ごうとした途端、顎が固まる。
リーゼに渡したものと対になっている通信石を懐から取り出そうとする。だが、腕も指も、ぴくりとも動かない。
叔父様は車椅子の前へ回り込み、興味深げに顔を覗き込む。
「おお……これほど早く効くとは。実に面白い品だ」
目だけを動かし、叔父様の手にある注射器を追う。
「これが気になるのかい? 心配しなくていい。命に別状はないそうだ。しばらくすれば身体も動くようになると聞いているから、安心しなさい」
彼は私の前にしゃがみ込み、動かなくなった身体を観察する。
意思に反して、口の端から唾液がこぼれた。顎を伝い、服の上へ落ちていく。
指一本だけでも動かそうと、そこへ意識を集中させた。だが、指先がかすかに震えるだけで、手を握ることさえできない。
「ふむ……姪がこんな姿になったのを見ると、さすがに哀れでね。もう一つだけ教えてあげよう」
キリアン叔父様が注射器を持ち上げた。
「これは南方に生息する寄生生物の幼生だ。脳に達すると、その組織に癒着して寄生するらしい。それから、あの五人全員がグランデル家の人間というわけではない」
「こ……、く……ぜっ、……ゆる、さ……」
唇から声を絞り出しても、舌は動かず、音は言葉の形を結ばない。
叔父様は親指で私の口元を拭うと、立ち上がり、服の袖についた埃を払う。
視界の端で、外套の袖口から覗いたものが光った。男の手首に巻かれていたのは、星航時計だった。
「まあ、すべて話してしまっても構わないのだがね。念のため、ここまでにしておこう」
叔父様はスクロールを男の一人へ手渡すと、翼の羽根を一本つまむ。
そのまま、引き抜く。
羽根が肉から引き抜かれる痛みが、背中から頭のてっぺんまで駆け上がる。抜き取られた羽根の根元には、血がべったりと付着している。
叔父様はほかの四人を連れ、屋敷の方角へ去っていった。
残った一人が私の前に立ち、受け取った巻物を広げる。光を受けて浮かび上がったルーン文字――間違いなく、ワープ用の巻物だ。
男は巻物を懐にしまうなり、髪を根元近くから鷲掴みにし、車椅子から吊り上げる。
頭皮を引き裂く痛みに、視界が白く弾ける。悲鳴は肺の内側を巡るだけで、喉から一音も出てこない。
近くの木へ投げつけられる。
羽根を抜かれた翼が幹に叩きつけられ、呼吸が途切れる。
男は剣を抜き、こちらへ歩み寄ってくる。
「アリア・オルネン……」
一歩ずつ、足音が近づいてくる。
「十年ほど前……覚えているか。お前が父親と馬車で帰る途中、襲撃を受けたことを」
剣先が、私の喉へ当てられる。
「あの襲撃者の中に、俺の父がいた」
切っ先が皮膚へわずかに食い込む。
「後に見つかった父の亡骸は、惨たらしいものだった。お前は私たちが悪だと思っているのだろう。だが、先に裏切ったのは、お前たちだ」
喉元に触れた剣先が、細かく震える。
男は剣を引き、大きく息を吐く。
「この手でお前を殺せないことだけが、心残りだ。だが……今は星様のもとにおられるセレネ様が受けた苦しみだけは、返してやる」
――セレネ?
グランデル家の長女。平民と恋に落ちたという理由だけで、家を追放された――そう聞かされていたはずだ。
男は剣を構え直し、私の翼を掴んで持ち上げた。
動かない身体を、どうにか捩ろうとした。
視界の端を、漆黒の槍が貫く。槍の穂先から、赤い血が滴り落ちている。
誰かの腕が身体を支え、私を車椅子へ座らせる。
槍に貫かれた男がうつ伏せに倒れ、そのまま動かなくなる。
霞む視界の先に立つのは――純白の仮面をつけた男。
ただし、あの男たちとは形が違う。身にまとった黒い外套は、ニアが着ていたものと同じだった。
野外授業でカシアン様と刃を交えた、あのグリムナル族の男。




