48話「追放」
「フレイヤったら……セドリック様が可哀想だよ」
手紙を読みながら、口元を緩めた。
隣にいたリーゼが車椅子の取っ手へ手を置き、私の顔を覗き込んでくる。
「どなたからのお手紙ですか、お嬢さま? 今の笑顔、とっても可愛らしかったです」
「もう、そんなお世辞は言わなくていいから」
手紙を丁寧に折り畳み、引き出しへしまった。
「これは友達から届いたの」
「ご友人……! ソルベルグ家のお嬢さまですね!」
「そうだけど……どうして分かったの?」
リーゼは気まずそうに指先を合わせた。
「それは……お嬢さまのご友人といえば、その方かと……は、はは……」
「……私にだって、ほかにも友達くらいいるよ」
「えっ、本当ですか?」
リーゼは胸元で両手を合わせ、目を丸くした。
「もういいから、早く行こう。遅れちゃう」
「はいはい。ところで、もう一人のお友達って、いったいどなたなんです?」
「……秘密」
私たちは屋敷を出て、定例演習が行われる演習場へ向かった。
***
演習場へ入ると、石造りの空間が視界いっぱいに広がる。
地面には魔力の衝撃を和らげる灰色の石板が格子状に敷かれ、外周には古びた結界石の柱が等間隔で立っている。
その内側には、封臣家の魔法使いたちと、剣を佩いた護衛兵たちが列を作っていた。
夏の日差しを浴びた石板から、陽炎が立ち上っている。
壇上には、真夏にもかかわらずオルネン家の正装をまとったお母様が立っている。
その隣まで進み、車椅子を止める。
イリアお姉様が宮廷魔導長の就任式へ発ってから、すでに数日。壇上にいるのは、お母様と私だけ。キリアン叔父様は壇の下、演習場の端から進行を見守っている。
お母様は私へ一度も目を向けず、口を開いた。
「戦の消えた時代だ。ゆえに、魔法使いも安全になった――そう口にする者は多い」
低く乾いた声が、演習場に響き渡った。
「愚かな話だ。戦場で真っ先に首を落とされるのは、いつの時代も魔法使いだった。そして今なお、反魔導兵器を携えた者が一人いれば、お前たちの大半は何もできないまま死ぬ」
魔法使いたちのあいだから、かすかなざわめきが起こった。
「特殊な鉱石にルーンを刻んだ反魔導兵器は、たいていの魔法を斬り裂き、無力化する。防壁も炎も意味をなさない。では、どう対処するべきか」
お母様が杖の先で、石板をこつりと叩いた。
「二つしかない。剣の届かない高さまで浮上するか――敵が迫る前に詠唱を終え、斬り払えないほどの魔法を浴びせるかだ。……だが」
そこで言葉が途切れた。
「魔力で肉体を強化した熟練の戦士は、十メートルの距離を一、二秒で詰める。無詠唱でない限り、後者はまず不可能だ。結局、重要なのは一つ。どれだけ早く浮上し、どれだけ長く空中に留まれるかだ」
説明が終わると、キリアン叔父様の合図に合わせて定例演習が始まった。
反魔導剣を構えた護衛兵と、各家の魔法使いたちが、二十メートルほどの間隔を空けて向かい合う。合図が下ると護衛兵たちは一斉に駆け出し、魔法使いたちも詠唱を始めた。
結果は散々だった。
浮遊魔法で飛び上がったものの、すぐに落ちる者。攻撃魔法を完成させても、反魔導剣ですべて斬り払われ、何もできずに終わる者。
三十人を超える魔法使いのうち、護衛兵の接近を阻んだ者は五人にも満たない。
護衛兵は誰一人、魔力による身体強化を使っていなかった。それでも、この有様だ。
二度、三度と演習を繰り返した頃、お母様の声が響いた。
「そこまで!」
壇上から降りたお母様を前に、場の空気が張り詰める。
「魔法使いは全員下がりなさい。護衛兵は私の前へ並べ」
魔法使いたちが黙って隅へ退き、護衛兵たちは同じく二十メートル先に横一列で並んだ。お母様が手招きする。
「もっと近くへ。もう少し。そこでいい」
護衛兵たちは十メートルほどの距離まで近づき、足を止めた。
「平和な時代とはいえ、あまりの有様に言葉もない。私が手本を見せる。よく見て学びなさい」
お母様が杖を握り直した。
「手加減は要らない。全力で来い」
合図とともに、護衛兵たちが一斉に駆け出した。
お母様が杖を掲げた瞬間、全員の動きが止まる。足が石板ごと氷に閉ざされている。
数人の護衛兵が魔力を全身にまとい、氷を砕いて飛び出した。
お母様の前に、小さな白い雪玉が生まれる。それが先頭の護衛兵へ一直線に飛び、振り下ろされた反魔導剣に斬られた瞬間――炸裂する。
演習場が真っ白な雪煙に覆われる。目の前さえ見えない。
雪煙が薄れると、お母様は太陽を背にして空に浮かんでいた。翼を大きく広げたその姿は逆光に塗り潰され、天使とも悪魔ともつかない漆黒の影となって揺れている。
次の瞬間、辺りの音という音が上空へ吸い込まれる。
空一面に底知れない闇が広がり、その奥では無数の白い雪晶が地上を見下ろしている。
そこへキリアン叔父様が護衛兵たちの前へ駆け込み、両手を振った。
「エララ姉上、やりすぎです! そこまでにしてください!」
空を覆っていた闇がほどけ、お母様が地上へ降りてきた。
着地すると二、三度咳き込み、魔法使いたちへ目を向ける。
「魔法とは、ただ攻撃し、防ぐためのものではない。足を凍らせ、視界を奪う。使い方はいくらでもある」
そう告げ、壇上へ戻った。
「今日は、これ以上続けても結果は見えている。各自戻って、どうすべきか考え、鍛え直しなさい。続きは明日、二日目の演習で見る」
封臣家の魔法使いたちは深く頭を下げて返事をした。私も彼らに倣い、頭を垂れた。
――自らの魔力で、周囲一帯を支配する領域。
人はそれを、覇天と呼ぶ。
膝の上で手を開き、また強く握り込んだ。
皆が解散しかけたところで、お母様の声が彼らを呼び止めた。
「それから、全員に重要な報告がある」
お母様の手が、私の肩へ置かれる。
「すでに知っている者も、初めて見る者もいるだろう。ここにいるのは、アリア・オルネン。長女イリア・オルネンが宮廷魔導長となった今、オルネン家で唯一の当主継承者だ」
その場にいた全員の視線が、私へ突き刺さった。
肩に載せられた手の重みが、ひどく馴染まない。
思わず顔を上げ、お母様の横顔を仰いだ。心臓が、どくりと大きく脈打つ。
「だが、アリア・オルネンは今年限りで、東の海を越えた霧嵐公国へ渡ることになった。帰国の予定もない」
目を見開く。周囲の音が、急速に遠ざかっていく。
今聞いた言葉が、頭の中で一つにつながらない。ばらばらのまま、意味を持たずに転がっていく。
肩から手が離れたことにも気づかなかった。
「それに伴い、アリアに代わる次期当主は、封臣家の中から最も優れた子弟を選ぶこととする」
演習場が、たちまちざわめいた。
「静粛に!」
お母様の一喝で、声が止む。
「今回の定例演習から、その選考も兼ねる。これまで以上に励みなさい。王家とも家中とも話はついている。午後は私がこの演習場で直接指導する。その気のある者は参加しなさい。以上、解散!」
言い終えると、お母様は踵を返し、屋敷へ戻っていった。
車椅子を急発進させ、その背中を追った。
「お、お母様! お待ちください!」
ようやく、お母様が足を止めた。
「霧嵐公国へ行くなんて、どうして急にそんな……! あまりにも一方的です。私はまだ学院も卒業していません。それに――」
振り返ったお母様の目を見た瞬間、声が止まる。
冷たく細められた双眸が、身体ごと私を凍りつかせる。
「アリア。口が過ぎる」
歯が細かく鳴った。両手を強く握り締め、顔を伏せる。
「一か月後、霧嵐公国へ発つ。そのつもりで支度を整えなさい」
それだけ告げ、お母様は廊下の向こうへ消えていった。
その場に縫い止められたまま、床から目を上げられなかった。
「そんな……あり得ない……」
呟いた瞬間、背後から伸びた手が肩へ置かれた。
「やれやれ、アリア。私も力を尽くしてみたのだがね。お前も知っているだろう。お前の母親は、一度決めたことを決して曲げない」
返事はしなかった。
「今日の午後、旧結界観測所で待っている。魔力を取り戻し、自分の価値を証明する最後の機会になるだろう」
キリアン叔父様も、廊下の向こうへ歩き去っていった。
***
部屋へ戻り、鏡の前に車椅子を止めた。
目の下には濃い隈が落ち、唇は乾いてひび割れていた。
胸の下に残る傷跡へ、爪を立てる。
窓辺から物音がする。振り向くと、ソリアが窓枠に止まっている。
「ソリア……?」
近づくと、ソリアは片目を閉じ、もう片方の目だけでこちらを窺う。脚を確かめたが、手紙らしきものは結ばれていない。
「手紙は……? なぜここに……」
答えは返らない。
「あの、ソリア……いえ、ソリア様。以前、カシアン様の寮室で私に語りかけたのは、ソリア様ですよね?」
ソリアは、ゆっくりと瞬きを返すだけだった。
「『刃を振り下ろす前に、三度、その面を覗き込むがよい』……今も覚えています。あれは、いったいどういう意味なのですか? 私が三度、誤った選択をするということですか?」
やはり、答えはない。
口から出る言葉が次第に速くなり、声も高くなっていく。
「それに、ソリア様はどうして昼間でも動けるのですか? クロノア様のことを知っているのですか?」
そのとき、扉が開いた。
同時にソリアが翼を打ち、窓の外へ飛び立つ。
反射的に手を伸ばすが、すでに届かない高さまで昇り、日の光の中へ消えていく。
「お嬢さま……? 大丈夫ですか……?」
「うん……私は大丈夫、リーゼ。それより、あとで少し出かけてくるから」
「ご一緒します、お嬢さま」
「いいの。一人で行きたいから」
リーゼはそれ以上何も言わず、静かに扉を閉めて出ていこうとした。
「待って、リーゼ!」
「はい、お嬢さま」
呼び止めた彼女へ、近距離用の通信石を一つ手渡す。
「これを持っていて。私が呼んだら、どこにいてもすぐに来て」
「もちろんです。飛行魔法には自信がありますから! でも……危ないことをなさるおつもりではありませんよね?」
「うん……違うから、心配しないで。もう行っていいよ」
リーゼが部屋を出て扉が閉まってからも、窓辺を離れられなかった。
引き出しを開ける。手紙の下には、先日持ち帰った二つの時計が、並んで収められている。淡い青色のものと、透き通る白色のもの。
白い時計を取り出し、手首へ巻いた。
秒針が、かち、かち、と時を刻む。
秒針が三つ進むのを待ってから、車椅子の向きを変えた。
扉を開けて廊下へ出た。車輪の音が、一定の間隔で続いていく。
屋敷の裏門を抜け、領地の外れへ続く道へ向かった。




