47話「姉妹」
翌朝。
私は壁掛け鏡の前に座り、リーゼに髪を結ってもらっていた。
「はい、できましたよ。お嬢さま」
リーゼが弾んだ声で言い、手鏡を掲げた。鏡の中に、美しく結い上げられた髪が映る。
頭頂部から編み込まれた髪は、後ろで一つに結われている。両脇の髪は後ろへ流れ、花をかたどった結び目を作っている。
フレイヤに結ってもらったときより、ずっと華やかだ。
思わず頬が緩んだ。
「リーゼって、本当に手先が器用だね」
「これくらい、私には朝飯前ですよ」
リーゼも笑って答え、青いリボンを巻いたつば広の帽子を、私の頭にかぶせた。
「帽子、かぶらなきゃ駄目……?」
「もちろんです! お嬢さまは日差しの怖さをご存じないから、そんなことをおっしゃるんです。ただでさえ私たち冠翼族は肌が弱いのですから――」
「わ、分かった、分かったから。それよりリーゼ」
「はい?」
振り返り、リーゼを見上げた。
「これ、今度私にも教えてくれる?」
「もちろんです。でも、この髪型を一人で結うのは難しいので、別のものをお教えしますね」
「ありがとう」
リーゼの顔がぱっと明るくなり、別の髪飾りを取りに行こうとする。その背中を呼び止めた。
「あの、リーゼ。短い髪でもできるものってある?」
「短い髪、ですか……? そうですね。できるものは限られますが、いくつかありますよ」
「それも教えてもらえる?」
「もちろんです! 私はお嬢さまの侍女ですもの。私にできることなら、何だってお手伝いいたします」
「いつもありがとう、リーゼ」
扉を叩く音に続いて、イリアお姉様の声が聞こえてきた。
「アリア~、そろそろ行けそう?」
「はい、お姉様。今行きます」
支度を終え、お姉様とともに、オルネン家が治める小さな町、イルヴェンへ向かった。
***
イルヴェンへ入ると、緩やかに曲がる石畳の道が目に飛び込んでくる。
白い漆喰の壁に木組みを覗かせた二階建ての家々が軒を連ね、どの窓辺にも花鉢が並ぶ。路地の奥からは焼きたてのパンの匂いが漂い、夏の日差しを吸った石畳が乾いた熱を返している。
通りは冠翼族と人間で賑わい、町の人々は私たちの姿を見つけるたび、明るく声をかけてくる。
隣では、お姉様がハンカチで額を拭っていた。
「着いたばかりで悪いんだけど……暑くて死にそう。アリア、雪菓でも食べに行かない?」
身体を動かすと、背中に滲んだ汗へ服がぺたりと張りつく。
「はい、そうしましょう」
私たちは広場の片隅にある、小さな露店へ向かった。
注文すると、カウンターの向こうにいた幼い女の子が、黄色い液体の入ったカップを魔力石付きの機械へ差し込んだ。機械から取り出されたときには、中身がなめらかな氷菓へ変わり、カップの縁より高く盛り上がっていた。
お姉様が硬貨を取り出そうとしたところで、奥から女の子の母親が出てきた。
「あら、まあ! どなたかと思えば、領主様のご息女ではありませんか!」
女性は目を丸くし、エプロンで慌てて手を拭った。注文したものに加えて、おまけに別の雪菓まで一つずつ持たせてくれる。
「お代は結構ですよ。これはサービスです!」
「そういうわけにはいきません。近頃はただでさえ魔力石が高いのに」
「いいんですってば~」
お姉様が何度硬貨を差し出しても、店主は頑として受け取らなかった。
雪菓で身体を冷やしたあと、噴水の縁で一休みした。私は車椅子をそばへ寄せ、お姉様は石造りの縁へ腰を下ろしている。
噴水から弾けた水滴が、ときおり腕に触れて心地よい。
お姉様はスプーンでカップの底を掻きながら、広場の景色を見渡した。
「……子どもの頃は、よく来たよね。ほら、あそこの路地。覚えてる? アリアが転んで膝を擦りむいて、私がおぶって帰ったでしょう」
「……その頃のことは、あまり覚えていません」
「えー、覚えてないんだ」
お姉様は笑い、スプーンをくわえた。その視線が、広場の一角へ長く留まっている。
そこへ、スケッチブックを抱えた金髪の女の子が駆けてきた。私を見つけると不思議そうに首を傾げたが、ぱっと顔を輝かせ、こちらへ走ってくる。
「アリアお姉ちゃんだ!」
目元を和らげ、手を振った。
「ミリィ、久しぶり」
お姉様が耳元へ顔を寄せ、小声で尋ねてきた。
「知ってる子……?」
「何年か前に領地へ戻ったとき、一緒に絵を描いて遊んだんです。あの細工師のおばあさんのお孫さんですよ」
「えっ! あの赤ちゃんが? もうこんなに大きくなったの?」
勢いよく駆け寄ってきたミリィは、イリアお姉様に気づいて足を止め、その顔を横目でちらりと見た。
「ミリィ、大丈夫よ。こちらは私のお姉様、イリアよ」
「こんにちは、ミリィ」
お姉様がどこかぎこちなく片手を上げた。
ミリィはなおもお姉様を気にしながら、「こんにちはぁ……」と消え入りそうな声で挨拶した。それから再び私へ向き直り、スケッチブックを高く掲げる。
「お姉ちゃん、絵を描いてください!」
ふと、ミリィの手首についた丸い物が目に留まった。手持ち式の携帯魔力時計とは異なる、見たことのない品だ。
秒針には魔力の光が走っておらず、文字盤の内側には複雑な紋様がいくつも刻まれている。
「ミリィ、これは何?」
「これ? これはね、おばあちゃんが――はっ!」
ミリィは言葉を止め、自分の口を手で覆った。目を細め、にっと笑う。
「絵を描いてくれたら、教えてあげます!」
ミリィを膝へ載せ、スケッチブックを開いた。歪んだ線で描かれた絵を何枚かめくると、白いページが現れる。
鉛筆を握って手を走らせた。ほどなく、青々と茂る木々のあいだに立つ建物と、その上を飛び交う鳥たちが紙面に浮かび上がる。
「じゃーん。どう?」
「わあ……」
ミリィは口を半分開け、絵に見入っている。
広場の向こうから、数人の子どもがミリィを呼んだ。
「ミリィ! 来るって言ったのに、何してるの! 早くしないと遅れるよ!」
「あっ、そうだった! 今行く!」
ミリィは私の膝から飛び降り、子どもたちのもとへ向かおうとした。途中で振り返り、手首の時計を見せる。
「これ、おばあちゃんが作ってくれたんです! お姉ちゃん、絵ありがとう。またね!」
そう言い残し、友達のもとへ駆けていった。
ミリィを見送っていると、隣から視線を感じた。お姉様がにやにやしながら、こちらを見ている。
「……何ですか、その顔は」
「いや、ただ……やっぱりアリアはすごいなって」
「私なんて……お姉様のほうが、ずっとすごいでしょう」
「アリアは絵も上手だし、子どもたちにも人気があるでしょう。私には、そういうの無理だもの。それより、星航時計に興味があるの?」
「せいこうどけい……?」
お姉様は立ち上がり、大きく伸びをした。
「うん。翠蘭で使われている携帯時計らしいよ。魔力じゃなくて、ぜんまいだか何だかで動くんだって」
「翠蘭というと……今回の南方使節団が王国へ持ち込んだのでしょうか」
「そうそう。キリアン叔父様がいろいろ受け取ってきて、町にも少し分けたみたいだね」
顔を伏せた。
頭に浮かぶのは、引き締まった男の手首に星航時計が巻かれている姿ばかり。
不意に、車椅子が動き出す。
「お姉様?」
「どうやら妹が星航時計を欲しがってるみたいだから、お願いしに行かなきゃね~ 久しぶりにヘルガおばあさんにも挨拶したいし」
「欲しいなんて、一言も言っていませんけど」
「アリアのことなら、何でも分かるんだから。隠しても無駄だよ」
お姉様に押されるまま、町の細工師、ヘルガおばあさんの店へ向かうことになった。
「ヘルガおばあさん、久しぶり!」
細工店へ入るなり、お姉様が手を振った。
ヘルガおばあさんは眼鏡を押し上げ、首を伸ばして私たちを眺めると、目尻に深い皺を寄せて笑った。
「まあ、どなたかと思えば、イリアお嬢さまとアリアお嬢さまではありませんか。いったい何年ぶりでしょうね」
「三年……いや、四年ぶりくらいじゃないですか?」
お姉様は答えながら、店内を見回した。
ガラスの陳列棚には色とりどりの宝石を埋め込んだ指輪が収められ、窓辺には加工途中の銀板と工具が置かれている。
「それで、今日はどうなさったんです?」
「それが、アリアが星航時計を欲しがってるみたいで」
「星航時計?」
慌てて両手を振った。
「違います! 欲しいわけではなくて、ただ、どんなものなのか気になっただけで……」
「ああ、キリアン坊ちゃんがお持ち帰りになった品のことですね」
おばあさんは奥の作業台へ向かい、いくつかの品を持ってきて、机の上へ並べた。
どれも形の異なる時計だ。ガラスの下では、大小の歯車が噛み合い、規則正しく時を刻む。文字盤の片隅には、月と星をかたどった小さな円盤も収められている。
おばあさんは、時計の側面から突き出たつまみを回した。
「これは本当に大した品ですよ。魔力を一切使わず、ここを巻くだけで、一秒の狂いもなく時を刻み続けるんですから」
お姉様も隣へ来て、時計を覗き込んだ。
おばあさんが、さらに文字盤の内側を指さす。
「それに、ほら。内側にある星の模様が、季節に合わせて変わるんです。夜でも、この星の位置を見れば、どちらが北でどちらが南か分かるそうですよ」
説明を聞きながら、お姉様が一つを手に取った。
「ふうん……さすが、機械工学の大国と呼ばれるだけはあるね」
「へえ……私は翠蘭というと、昆虫や動植物の種類がとても多いことくらいしか知りませんでした。あとは、一年中暑いとか」
「そうそう! アリア、知ってる? 南方使節団の人たち、外套を何枚も着込んで、『さすが北方、冷えますね……』なんて言ってたんだから。こっちは暑くて死にそうなのに」
「はは……そこまで違うとは思いませんでした」
ヘルガおばあさんも、私たちの話に加わった。
「それで、アリアお嬢さま。この時計がお入り用ですか? でしたら、一つお仕立てしますよ」
「え? これを作れるんですか?」
おばあさんは手を振り、声を上げて笑った。
「まさか。こんな精巧なものを一から作るなんて、私が死ぬまでかかっても無理ですよ。中の機構はそのままで、縁や外装を整えるだけなら私の領分です。一時間もあれば仕上がりますとも」
机の上に並んだ星航時計へ目を落とした。
「それなら……ご迷惑でなければ、秒針の中央に青い鳥の意匠を入れてもらえますか? 全体の色は……冬の湖を思わせる、明るい青で」
「冬の湖を思わせる青……?」
隣でお姉様が首を傾げ、同じ言葉を繰り返した。
「それから、大きさは……私より一回り太い手首に合うくらいで、革ベルトは黒がいいです」
「お嬢さまより、一回り太い手首……?」
今度はヘルガおばあさんが首を傾げた。時計をまとめて手に取り、立ち上がる。
「その程度なら簡単ですよ。一時間ほどしてから、またいらしてください。その頃には仕上げておきます」
「はい!」
返事をすると、お姉様が車椅子を押し始めた。
「じゃあ、私たちはもう少し食べ歩きでもしてこようか?」
「はい。いいですね」
膝の上に置いた手を、意味もなく開いては閉じる。店を出るまで、何度も作業台のほうを振り返ってしまった。
***
一時間ほどして、私たちは細工店へ戻った。
「ふう、お腹いっぱい」
「お姉様、いくら何でも食べすぎでは?」
「だって、こういう屋台の食べ物は、こんなときじゃないと食べられないでしょう」
お姉様が腹部へ手を添えて答えると、奥からヘルガおばあさんが出てきた。
「ああ、お戻りになりましたね。仕上がっていますから、確認してください」
作業台へ近づいた。
淡い青色の秒針と縁取り。その中央には小さな青い鳥の意匠があしらわれ、真っ黒な革ベルトがまっすぐ伸びている。
「……すごいです。でも、これは……?」
隣に、もう一つ時計が置かれている。
文字盤は一回り小さく、意匠は同じ。ただし革ベルトと秒針は、透き通る白色で揃えられている。
おばあさんが眼鏡を拭った。
「そちらは、アリアお嬢さまに私からの贈り物ですよ」
「え……? 私、これを誰かに贈るなんて、一言も……」
黒い革ベルトの時計を持ち上げてみせる。
すると、ヘルガおばあさんは片手を振り、片目をつむった。
「それくらい、見れば分かりますとも」
不意に、扉が勢いよく開いた。
土で汚れたスケッチブックを抱えたミリィが、店へ駆け込んでくる。
「おばあちゃん! あれ、アリアお姉ちゃんと、イリア……様」
「おお、帰ったかい」
お姉様は私の車椅子を押し、早々に出口へ向かった。
「では、私たちはこれで失礼しますね、おばあさん!」
「気をつけてお帰りなさい!」
訳が分からないまま二つの時計を手提げ鞄へしまい、ヘルガおばあさんとミリィに手を振った。
外へ出ると、日はすでに暮れかけている。空の端が橙色に染まり、石畳の上を私たちの影が長く伸びる。
昼のあいだに溜め込んだ熱が薄れ、路地を生温い風が吹き抜ける。
「もう、こんな時間なんですね」
「……あっという間だった」
お姉様は屋敷へ続く坂道へ車椅子を押していたが、ふと足を止めた。私の前へ回り込み、膝を折って目線を合わせる。
「忘れるところだった。アリア、指輪は持ってきた?」
「はい。一応」
鞄から取り出して見せた。銀色で、小指にちょうど収まる大きさの指輪だ。
お姉様も懐から同じ形の指輪を取り出した。私の指輪を受け取ると、その手の中で青い光が揺らめく。
「ほら、手を出して」
言われるまま手を差し出した。
お姉様は右手の薬指へ指輪を通そうとしたが、途中でつかえてしまった。それを見て、指輪を抜き取る。
「あら……アリア、大きくなったんだね」
「私も、もう十六歳ですから」
今度は小指へ指輪をはめられた。
「ところで……これは何なんですか?」
お姉様も自分の右手の薬指へ揃いの指輪をはめ、笑いながら手を掲げる。
「これはね、アリアがつらいときや寂しいとき、指輪に心を込めて私の名前を呼べば――お姉ちゃんがどこにいても、すぐにアリアを見つけられるおまじないなの」
「……位置感応術式ですか?」
「おまじないったら、おまじないなの!」
思わず笑いが漏れた。
「では、お姉様がつらいときも、私に分かるんですか?」
「私の心配までしてくれるの? お姉ちゃんのことは心配しなくていいよ」
頬に張りついていた横髪を、お姉様が耳へかけてくれた。
彼女の瞳が、かすかに揺れている。
「急にどうしたんですか、お姉様……もう二度と会えないわけでもないのに。ほら、もうすぐ日も沈みますし、早く帰りましょう」
お姉様は俯き、ひと呼吸置いて顔を上げた。
「そうだね。アリアの言うとおり。帰る前にもう少しだけ、付き合ってくれる?」
「今からですか?」
答える代わりに、お姉様は片手で私の手を握り、もう片方の手で杖を掲げた。
魔力増幅石が明滅し、魔力が低い波となって足元へ広がっていく。
車椅子から身体が宙へ浮かぶ。腹の奥が一気に沈み、思わずお姉様の手を強く握る。
「う、うわあっ!」
きつく目を閉じた。
「目を開けて、アリア。お姉ちゃんを信じて」
恐る恐る瞼を上げる。
茜色に染まった世界が、足元いっぱいに広がっている。
屋根は夕日を受け、熟れた杏の色に輝いている。町を横切る道には夕映えが流れ込み、曲がりくねる光の帯を描く。
「わあ……綺麗です」
「でしょう? 昔のこと、覚えてる? お母さんとお父さんと一緒に、こうして夕日を見に来たよね」
「はい……」
お父さん――その言葉に、膝の上のスカートを指先で強くつまんだ。すぐには声が出なかった。
お姉様は視線を丘の上にある薔薇園へ向けた。
「ああ、あの庭も懐かしい。よく遊んだよね。アリア、薔薇が好きだったでしょう?」
「はい……まあ、今はもう花なんて育てていませんけど。私も大人になりましたから」
「アリアはまだ子どもでしょう。それに、大人が花を好きだっていいじゃない。そうだ、知ってる? アリアが三歳になる頃まで、あそこは薔薇園じゃなくて、アリア園だったんだよ」
「へえ……」
ふっと会話が途切れた。
夜の気配を含んだ涼しい風が、頬を撫でていく。乾いた草と冷え始めた土、それに、どこかの家から立ち上る夕餉の煙の匂いが混じっている。
「アリア、最近……つらいこと、いろいろあったよね。大丈夫? 何かあるなら、お姉ちゃんに何でも話して」
「つらいこと、ですか?」
口を開きかけ、閉じた。喉までせり上がった言葉が、そこで形を失っていく。
「私は……大丈夫です」
「まあ……誰にだって、話したくないときはあるよね。でも、忘れないで。アリアのそばには、いつだってお姉ちゃんがいるから。お父さんも、空から見守ってくれてる。お母さんは厳しいけど……」
「はい……いつもありがとうございます、お姉様」
お姉様の杖が、ひときわ明るく輝いた。
空中に生まれた氷の結晶が寄り集まり、一羽、また一羽と鳥の姿を成して飛び始める。
無数の氷鳥が夕空を泳ぎ、茜色を映しながら大きく広がっていく。真夏の空に、氷の湖が花開く。
お姉様がにやりと笑った。
「それで、いったい誰が、うちのアリアの心を奪ったのかな~?」
「え? 心って、何の話ですか」
「もう、姉妹のあいだで隠し事はなしでしょう? まさか、カ――むぐっ!」
慌てて、お姉様の口を両手で塞いだ。
「そ、そういうのじゃありませんから!」
頬が燃え、耳たぶまで熱くなる。
お姉様は塞がれた口で、何かをもごもごと訴え、最後には両手を上げて降参の仕草を見せた。
手を離した途端、お姉様は腹を抱えて笑い始める。そんな横顔を睨んでいた私も――結局、一緒に笑ってしまう。
足元では夕焼けが最後の一筋まで広がり、氷の鳥たちはその光を受けてきらめきながら、遠い空へ散っていった。




