46話「花瓶」
『それで、アリア……本当に行くつもり?』
私はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。豪奢な天蓋の隙間から月明かりが細く差し込み、寝具の上に淡い線を引いている。
「どうでしょう……正直、私にもよく分かりません」
『でも、アリアの言うとおりなら、ひとまず危ないことはないんじゃない?』
片手を天井へ伸ばす。握った拳から一本ずつ指を開きながら答える。
「そうですね……旧結界観測所も結界の内側にあります。グランデル家の者は入れませんし、キリアン叔父様であっても、そこで迂闊に魔法は使えないはずです」
二本目の指を立てる。
「万一何かあっても、私の死が爆弾に等しいのなら、手出しはできないでしょう。もっとも、その話自体が本当かも分かりませんが……」
『それは絶対に本当だよ! 初めて会ったとき、わたしは確かに君の魔力を使って時間を巻き戻したんだから。しかも、一か月も!』
「まあ、クロノア様がそうおっしゃるなら……でも、そんなに途方もない量だったんですか?」
『普通の人なら、魔力を全部絞り出しても、時間を数秒止めるのが精いっぱいだよ。地下坑で止められたのも、ほんの数秒だったでしょう?』
「ふうん……」
指を閉じ、握った拳を布団の上へ落とした。
返事をせずにいると、クロノアが続けた。
『でも、キリアンがこっそりグランデルの連中を引き入れてる可能性はない? 反魔導騎士なんでしょう? そいつらを使って、オルネン家を皆殺しにするつもりだったら?』
「あり得ません。カシアン様によれば、グランデル家に大きな動きはないそうです。送り込めるとしても、少数の手勢か、異種族排斥主義者くらいでしょう。その程度の戦力では、たとえ結界内へ入れたとしても、お母様のいるオルネン家には敵いません」
『カシアンが嘘をついてたら、どうするの?』
「はあ?」
反射的に上体を起こす。
「カシアン様が嘘をつくはずないでしょう。今の言葉、取り消してください」
『う、うん。ごめん、ごめん。冗談だって……』
息を吐き、ベッドへ身体を戻した。
「そもそも、オルネン家直系の許可がなければ、外部の者は結界内へ入れません。すでに引き入れているのなら、わざわざ私を旧結界観測所へ呼び出す必要もないでしょう」
『それもそうだね……』
胸の下に残る傷跡へ手を添えた。
「分からないのは……どうしてお母様が、私の魔力を封じたのかということです」
『それって、昔、薔薇園でイリアと遊んでてできた傷だっけ?』
「はい。お父様が亡くなって、間もない頃です。お姉様が元気づけようと、無理やり私を連れ出して……そこで転んで、そのあとはよく覚えていません」
寝返りを打ち、壁へ顔を向けた。濃紺の壁紙を走る銀の紋様は、規則もなく枝分かれし、壁の端で互いに重なって消えていた。
「私が死ねば爆発する。それ以外では、王家との縁……」
傷跡を覆う手に力がこもる。
『……やっぱり、お母さんはアリアを守ろうとして――』
「やめてください」
言葉が勝手に口をついて出る。
「そんなはずありません。たとえ私を守るためだったとしても、あの人がしたことを、私は絶対に、一生、許しません」
沈黙が落ちた。窓の外から聞こえる虫の音に混じり、青い草の匂いが鼻先をかすめる。
――彼といた夜も、同じ匂いがした。
瞼を閉じて彼の面影を追い払い、目を開く。
車椅子に移り、扉を細く開け、廊下の左右を確かめる。長い廊下では、いくつかの魔力灯だけが低く輝き、人影はおろか、足音一つ聞こえなかった。
扉を閉めると、窓辺へ向かった。窓を押し開け、鳥の姿へ意識を集中させる。縮んだ身体から衣服が滑り落ち、窓枠を蹴って夜へ飛び出した。
『今日も見に行くの?』
「はい。もう少し、情報が必要です」
夜空へ昇ると、領地が一望できる。
屋敷を中心に低い丘が緩やかに連なり、その合間には魔力灯が点々と灯っている。
東には丸屋根を載せた研究棟が数棟並び、どの窓からも夜更けまで青い光が漏れる。その脇にそびえる観測塔の頂からは、細い魔力の糸が空へ伸び、ときおり青白い明滅を繰り返す。
屋敷の南には、整然と手入れされた薔薇園が広がる。
そこには視線を留めず、さらに高度を上げる。
最上階の窓枠に爪を立てた。首だけを伸ばし、室内を覗き込む。
机に向かう母の姿を認めた途端、首を壁の陰へ引っ込める。心臓が激しく脈打ち、爪が窓枠へ深く食い込む。
『やっぱり無理なんじゃない? ここまで来て、もう十回くらい同じことしてるよ……』
「いいえ、今日は必ず確かめます」
息を整え、窓枠から身を乗り出しかけたところで、片翼に鈍い衝撃が走る。
「うっ……!」
均衡を崩し、真っ逆さまに落ちていく。片方の翼だけを懸命に羽ばたかせるが、地面へ叩きつけられ、土の上を転がる。
『痛い……痛いよぉ……』
顔を上げると、淡金色の髪をした小さな男の子――ノエルが立っている。その隣にいるのは、定例演習のため滞在していた別の封臣家の子息、ニルス。
「ニルス、見た? ぼくが言ったとおりでしょ。毎日この時間、この壁に変な青い鳥が来るんだよ」
「わあ、本当だ!」
ニルスが落ちていた枝を拾い、こちらへ近づいてきた。その先端で、私の腹を何度もつつく。
「あれ? こいつ、逃げないよ?」
「羽、怪我してるみたい。ほら、そっちに追い込んで!」
枝が背中と翼を小突いた。無事な翼を羽ばたかせて後ずさるものの、身体は浮かばない。爪で土を掻きながら横へ逃げても、すぐに別の枝が回り込み、行く手を塞いだ。
「何を騒いでいる!」
頭上から鋭い声が落ちてきた。
「ひいっ!」
ノエルとニルスは揃って身を翻し、反対側へ一目散に逃げていった。
ほどなくして、上から人影が降りてくる。
お母様。
全身を青い光が包み、足先が地面へ触れる直前に、まとっていた魔力を消した。
お母様は私の前にしゃがみ込み、両手でそっとすくい上げる。
「怪我をしているな」
指先が、垂れた翼に沿って動く。身体を強張らせたまま、その手を受け入れるしかなかった。
お母様は私を抱くと、宙へ舞い上がって自室へ戻る。
その部屋は、幼い頃に見たときから、何一つ変わっていない。
壁に掛けられた絵も、窓辺の古びた安楽椅子も。机の隅には父が使っていた万年筆が、インク瓶と並べて置かれている。その脇の衣装掛けには男物の外套が一着掛かり、父がいつもかけていた眼鏡も、畳まれたまま元の場所に残されている。
お母様は私を机に降ろし、翼へ手を重ねた。詠唱ひとつなく、掌に灯った温かな光が羽根の奥へ染み込み、脈打っていた痛みを少しずつ鎮めていく。
治療を終えた母は、書類に目を通し始める。
書類の脇へ跳び移り、紙面を覗き込む。領内の行政処理に、研究施設の管理報告書。
顔を上げ、母の横顔を窺う。
目元には細かな皺が刻まれている。口元にも、首筋にも。
(そういえば、お母様も、もう三十代の終わりだった……)
書類を片づけ終えた母は、引き出しの奥から一冊のノートを取り出した。手帳ほどの大きさだが、ひどく分厚い。
そちらへ近づこうとすると、手の甲で押し戻された。
お母様は何かを書きつけると、ノートを引き出しへ戻した。
「いつまでここにいるつもりだ。翼はもう治っているだろう。いてもいいが、野の鳥は野で生きるものだ。泊まるなら今夜だけにして、明日には出ていきなさい」
そう告げると、母はベッドへ横になる。二、三度、乾いた咳をしたあと、規則正しい寝息が聞こえ始める。
寝息を数え、眠りが深くなるのを待ってから、音を立てずに机へ舞い降りた。
嘴で引き出しの取っ手をくわえ、引っ張ってみる。びくともしない。
鍵穴の上には、淡い魔法陣まで重なって光っている。爪で何度か引っ掻いても、表面を滑るばかりだ。
とうとう諦め、引き出しから離れる。
窓枠へ飛び乗り、部屋を振り返る。
眠っている母の背中。その向こうでは、父の遺品が今も変わらず元の場所を守っている。
窓辺には、透き通るほど白い花を挿した花瓶が置かれている。
『綺麗な花だね』
「……アリアという花です」
『へえ……やっぱり心の中では、アリアのことを大切にしてるんじゃない?』
嘴を擦り合わせた。
「まさか。私はアリアなんて好きではありません。色もないし……私が好きなのは、薔薇です」
そう言い残し、音もなく翼を広げ、窓の外へ身を投じた。




