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45話「解除石」

 数日後。長光月も終わりに差しかかっていた。


 朝早くから書庫へ向かい、研究日誌を広げる。風力石に循環式(じゅんかんしき)を組み込んで以来、いくつもの改良を試してきた。それでも数値は微増(びぞう)にとどまり、目標にはまだ遠く及ばない。


 鉛筆の尻で唇を叩きながら、ルーン文字辞典を読んでいると、扉が開いてリーゼが入ってくる。


「お嬢さま。イリアお嬢さまとキリアン様が、間もなくお屋敷へ到着なさるそうです。お出迎えになりますか?」

「うーん……もうそんな時間? 分かった」


 研究日誌とノートを閉じ、膝の上へ重ねる。車椅子を動かそうとしたところで、リーゼが先に取っ手をつかみ、押し始める。


「平気だってば。自動で動くんだから……」

「このくらいはさせてください、お嬢さま。ただでさえ高価な魔力石が、近頃は前にも増して値上がりしているんです。本当に必要なときだけお使いください」


 車椅子に嵌められた魔力石を、片手でそっと撫でた。


「うん……ありがとう」


 自室へ寄って研究資料を置き、リーゼとともに屋敷の正門へ向かった。



***



「アリア!」


 イリアお姉様が、両手で私の頬をつかんで引っ張る。


 後ろには豪奢(ごうしゃ)な馬車が一台停まり、鎧に身を包んだ護衛兵たちが、その周囲を固めている。


「お姉様、お久しぶりです」


 お姉様の腕をつかみ、やんわりと押し返した。


 彼女は今度は両手を私の肩へ置き、顔を近づけてくる。青い瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。


「アリア、身体はもう大丈夫なの? 野外授業のこともそうだし、そのあとには攫われたって聞いて……私がどれだけ心配したか分かってる?」

「私は大丈夫です。心配しないでください」

「これからは、私がずっとそばにいるから――」


 言葉の途中で、後ろからキリアン叔父様が歩いてくる。片目には、相変わらず細い鎖のついた片眼鏡(モノクル)をかけている。


 襟元をつかんでいた指に力がこもる。


「イリア。来週にはもう、宮廷魔導長の就任式が控えているだろう」

「はいはい、分かってますよ。ちょっと言ってみただけじゃないですか」


 お姉様は口の端を歪めて答えると、私の車椅子を押して屋敷へ進み始めた。


「それより、早く中へ入ろう。本当に暑くて死ぬかと思った」

「……長光月ですからね。今年は特に暑いです」


 答えながら、目だけを横へ動かしてキリアン叔父様を窺った。彼はただ穏やかに笑い、私たちを眺めている。


「こんなときくらい、ワープを使わせてほしいよ、もう……」

「仕方ありません。主要都市間のワープは、双方の許可が必要ですから」

「だから面倒なの! ワープには、オルネン家と転移先、両方の暗号が必要でしょう? しかも定期的に変わるから、時期がずれれば使えない。管理してる私たちが、一番苦労してるんだから」

「管理する家門だからこそ、厳格(げんかく)に守らなければならないんです」


 屋敷へ続く大扉の前まで来たとき、お姉様が足を止めた。


「あ、そうだ! ちょっと待ってて!」


 馬車へ駆け戻り、小さな木箱を一つ抱えて戻ってくる。


「これ、アリア宛ての荷物みたい。寮から送られてきたものかな?」

「寮の荷物……?」


 寮に置いていた荷物なら、数日前にすべて届いたはずだ。


 首を傾げながらも、箱を受け取る。


「ありがとうございます。あとで確認してみますね」

「うん!」


 それから他愛のない話を交わしながら、自室の前まで戻ってきた。


 お姉様は周囲を見回し、ぽつりと呟く。


「なんだか……ここへ来るのも、すごく久しぶりな気がする。変な感じ」

「お姉様は、お忙しいですから」


 唇を結び、声を落とした。


「結局……宮廷魔導長になられるんですね」


 お姉様はすぐには答えず、腰をかがめて私と目の高さを合わせた。


「アリアは私が宮廷魔導長になるのが嫌?」


 慌てて両手を左右に振った。


「まさか! 魔導家門にとって、最も名誉ある地位ではありませんか」

「ふうん……」


 お姉様は身体を起こし、靴先で床をこつんと鳴らした。


「まあ……幼い頃から、ほとんど決まっていたことだけど。でも、なんとなく嫌だな。こうしてアリアに会えるのも、これが最後になるかもしれないし」

「何をおっしゃっているんですか。お姉様が寂しくなったら、私がすぐ王都まで会いに行きますよ」


 彼女は私の頭を撫でた。


「アリアは本当にいい子だね。今日は用があるから、もう行かないといけないんだけど……明日は時間ある?」

「私は大丈夫ですけど、就任式に出るなら、明日には王都へ発たなければならないのでは?」

「明後日に出ても充分間に合うよ。じゃあ明日、一緒に町へ出かけない?」

「お姉様がよろしければ、もちろんです」


 お姉様は満面の笑みを浮かべる。


「よし。それじゃあ明日の午前中、アリアの部屋まで迎えに来るね! それと、私が贈った指輪は持ってる?」

「指輪ですか? はい、部屋に置いてあります。何に使うものか分からなくて……」

「それも用意しておいて。それじゃあ、またあとでね、アリア!」


 短い挨拶を残し、お姉様は足早に廊下の向こうへ消えていった。


 その姿が廊下の角へ消えるまで手を振り、自室へ入る。お姉様に撫でられて乱れた髪を片手で整え、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……やっぱり、お姉様がなるんだ」


 胸の奥に、薄い重みが沈んだ。それも長くは続かず、息をひとつ吐く頃には消えていた。


 腿の上に載せた木箱へ視線を落とす。机まで移動し、蓋を開いた。


「王都から……何だろう」


 最初に目に入ったのは、薄い紙に包まれた何かだった。


 持ち上げると、濃い薬草の匂いが鼻を刺す。思わず顔を背け、片手で鼻を覆った。


「うっ、おえっ……な、何これ……」


 その拍子に、包み紙の隙間から小さなメモが落ちる。拾い上げてみると、几帳面な文字でこう記されていた。


『冷水に半日浸し、一日二回飲むこと。喉の()れと鼻詰まりによく効く。夏風邪は長引くものだ。体調管理を怠らぬように』


 差出人の名は、どこにもない。


 メモを二度読み返すうち、頬が緩む。


 薬草を鼻先へ近づける。相変わらず喉の奥まで揺さぶるほど強い匂いだ。それでも、何度も嗅がずにはいられない。


 薬草を脇へ置き、箱の中をさらに探った。穀物の入った小袋を見つけ、机の引き出しの一番奥へしまう。


 箱の底には、半透明の手袋が一組残っていた。


「ん?」


 首を傾げて手に取る。スライムを薄く引き伸ばした、粘り気のある感触。長さは手首まで充分に覆えそうだ。


 包帯を解き、両手へ慎重にはめてみる。


 手袋はぴたりと皮膚へ吸着(きゅうちゃく)し、透明になる。手首まで這い上がっていた黒い傷跡も、視界から消えている。


 指を一本ずつ動かしてみる。何も身につけていないときと変わらず、自由に曲がる。


 両手を胸元へ引き寄せ、身体を小さく丸めた。


「ありがとうございます……」


 直後、誰かが扉を叩く。


「リーゼ?」

「キリアンだ。少し、時間はあるか?」


 薬草と手袋を木箱へ戻し、引き出しの奥へしまった。胸元を手のひらで撫で、呼吸を整えてから答える。


「はい。どうぞ」


 扉が開き、キリアン叔父様が姿を現す。片手に包みを提げ、空いた手を挨拶代わりに上げている。


 眉を寄せ、彼を睨んだ。


「そう睨まれると、私も怖いな」

「何をしに来たんですか」

「私が姪に会いに来るのに、理由が必要か? それより、贈り物がある。王都に滞在していた折、南方使節団から受け取った品でな。珍しい菓子がいくつか――」

「本題を話してください、叔父様」


 包みを弄んでいた手が止まる。


 叔父様は包みを部屋の隅へ置き、壁際の椅子を引き寄せると、私から少し離れた場所へ腰を下ろした。


 片手を伸ばし、私の頭へ載せる。


「よく今回も生き延びたな、アリア」


 その手を振り払い、車椅子を後ろへ下げて距離を取る。


「触らないでください」


 心臓が激しく肋骨を叩き始める。


 叔父様は両手を宙へ上げ、口元を緩めた。


「そう警戒する必要はない。今日は本当に、贈り物を渡しに来ただけだ」

「贈り物なんて必要ありま――」


 言葉が途中で止まる。


 今回も生き延びることができたなら、知りたいことを一つ教える。以前、叔父様がそう約束したことを思い出した。


「……叔父様を、どう信じろというんですか。正直に話してくださる保証もないでしょう」

「アリアには、すっかり警戒されているようだな。だが私は、お前に一度も嘘をついたことはないぞ?」


 叔父様が、笑みを残したまま続ける。


「では約束どおり、お前の知りたいことを一つ教えよう」


 その視線が、机の上に広げられた研究日誌へ向いた。


「まあ……風力石や遮断杭については、すでに知っているだろうし」

「……封印。封印を解く方法について、教えてください」

「封印?」


 彼は首を傾げた。


 私は胸より少し下、古い傷跡の残る場所の服を握り締めてみせた。


「お母様が、私の魔力を封じている件です」


 叔父様の表情が固まる。


 しばらく私を見つめたあと、片手で片眼鏡を押し上げ、声を低くする。


「それを、どうして知っている?」


 口の中が急速に乾いていく。


「それは……」

「まあ、いい。それはひとまず置いておこう。だが、その情報を私が持っていると、なぜ思った?」

「魔力封印の術式は、結界式(けっかいしき)と同じ原理で組まれています。そしてオルネン家で結界を管理しているのは、叔父様ですから」

「なるほど。封印式(ふういんしき)と結界式が同じ原理だと知る者は少ない。驚いたな」


 彼は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いていった。窓の外へ顔を向けたまま、語り始める。


「お前の魔力を解放する方法は二つある。一つは、ルーンヘルム家――つまり、王家と縁を結ぶことだ」

「では……お姉様が宮廷魔導長になる以上、その方法は無理なのですね」

「ん? 必ずしもそうではない。どのような形であれ、お前が王家に属する身となれば封印は解ける。まあ、宮廷魔導長になるのが最も簡単な道ではあるが」


 カシアン様から贈られた、車椅子の魔力石へ手を置いた。喉の奥が固く塞がっていく。


 今からでも、お姉様に宮廷魔導長にならないでほしいと、頼めるのだろうか。そんな考えが頭をよぎり、首を振った。


 叔父様が振り返った。


「意外だな。これは随分と素直に信じるらしい。お前があの王子を想っているから、封印石が時折反応でもしていたのかな?」


 奥歯を噛み締め、叔父様を睨みつけた。


「……では、もう一つは何ですか」

「今から話すところだった。もう一つは――お前の死だ」


 彼は一歩ずつ、私の前へ近づいてくる。


 目の前に膝をつき、笑みを浮かべながらこちらを見上げる。人差し指を、胸の下に残る傷跡へ伸ばした。


 指先が触れる寸前。


「ぱん!」


 何かが弾けるのを真似て、指をぱっと開く。手を宙に浮かせたまま、堪えきれずに笑い始める。


「……何がそんなにおかしいんですか」

「はは、すまない」


 目尻を拭い、言葉を続けた。


「アリア。お前は知らないだろうが、その魔力は歴史を塗り替えるほどのものだ」

「お姉様と同じくらい……ですか?」

「イリアと? まさか。比較にもならない。大したものだったぞ。大魔法使いアルナの再来と目されたほどだ」


 叔父様は笑いを収め、立ち上がった。


「要するに、お前が死ぬか、それに等しい損傷を負えば、封印が弾ける」

「弾ける……?」

「ああ。王家と縁を結べば解除され、死に瀕すれば爆発する。魔力源ごと封印が弾け飛び、押さえ込まれていた魔力が一度に噴き出すわけだ。どの程度になるだろうな……」


 顎へ手を添え、天井を仰ぐ。しばらくして、叔父様は片目を開く。


「この屋敷だけでは済まないだろうな。下手をすれば、オルネン領一帯が丸ごと吹き飛ぶかもしれない」

「そんな……あり得ません」


 ここから王都までは、馬車でも五日はかかる。


 乾いた唇を舌先で湿らせ、口を開いた。


「それでエルヴァン……グランデル家は、ワープを使おうとしたんですね」

「やはり理解が早い。そうだ。ここでお前に死なれては困るから、遠い辺境(へんきょう)へ送る。黒雪に呑まれた地なら、お前が死んでも誰にも知られず、爆発に巻き込まれる者もいない」


 翼の先から足元まで、一気に肌が粟立つ。


 黒い雪が残像となって視界を横切る。それだけで胃の奥が持ち上がり、吐き気が喉元まで込み上げた。


「どうして……私に、そんなことをしたんですか」


 抑えたはずの声が、鋭く響いた。服を握る手は、抑えようとしても震え続けていた。


「それは、自分で突き止めてみることだ。お前が私にした質問は、封印を解く方法についてだったからな」

「……」


 叔父様は扉へ向かったが、その途中で足を止めた。


「ああ、ちなみに。今話したのは、封印にあらかじめ組み込まれた正規の解除条件だ。実はもう一つ、別の方法がある」

「どういう……」

「封印を施した際に、同時に作られた解除石が一つ残っている。エララ姉上にも知らせず、領地の外れにある旧結界(きゅうけっかい)観測所(かんそくじょ)へ、私が隠しておいた」


 彼は顔だけをこちらへ向け、微笑んだ。


「お前が望むなら、その魔力封印を私が解いてやろう」


 心臓が大きく跳ねた。だが、胸に灯った熱をすぐに押し殺す。


「……罠ですね。そんなことをして、叔父様に何の利益があるんですか」

「警戒するのは分かる。だが、冷静に考えてみろ。両家はいずれ衝突する。私も今さら、グランデル家につける立場ではない」


 叔父様は片眼鏡の位置を直した。


「ならば、オルネン家の勝算を少しでも高めておく方が、自然だと思わないか?」


 返事ができなかった。唇を噛み、膝の上へ視線を落とす。


「ほかに、お前が不安に思う要素もないはずだ。もしその気があるなら、五日後、定例演習(ていれいえんしゅう)が行われる日の午後、旧結界観測所へ来るといい」


 顔を上げた。


「……私が行かなかったら?」

「それなら、それまでだ。王家と縁を結ぶ日を待つか、今のままでいるか」


 叔父様は扉の取っ手へ手をかけ、肩越しにこちらを振り返った。


「どちらを選ぶかは、お前次第だ、アリア」


 扉が閉じた。


 膝の上に置いた両手を握り締める。爪が手のひらへ食い込んでも、力は抜けなかった。


 窓の外では、長光月の遅い陽が傾き、地面へ長い影を落としている。


 私はいつまでも、その場から動けなかった。

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