44話「鼻血」
「――ああ、アリア。聞こえるか」
返事をする前に、もう一度だけ唾を飲み込んだ。
「はい、カシアン様。アリアです」
『……風邪でも引いたのか? 声がおかしいぞ』
「はは……冷たい風に当たったせいか、少し鼻声になってしまって」
『冷たい風……?』
声の調子を整え、話題を変えた。
「それより、今日の研究内容をご報告しますね」
机の上に置いていた研究日誌を開く。風力石に関する数式が日付ごとに並び、その横には、実験で得られた魔力効率が細かく記されている。
「今日は、昨日のおよそ一・五倍まで出力効率が上がりました」
『ほう……昨日の一・五倍か。並の魔導家門を凌ぐ成果を、君一人で上げるとはな。大したものだ。どうやって効率を上げた?』
カシアン様の声が明るくなる。
誰もいない部屋で、横髪を指にくるくると巻きつける。緩みかけた口元をきゅっと引き結び、声を抑えて答えた。
「発想を逆にしただけです。魔力漏れを完全に塞ぐのではなく、流出先を一つに絞りました。逃げた魔力を風の流れへ戻す循環式を組んだら、それ自体が渦を補強してくれたんです」
『つまり、これまで損失として切り捨てていた魔力を、出力へ戻したのか』
「はい。まだ不安定ですけど、方向は間違っていないと思います」
鉛筆を手に取り、研究日誌へ向き直った。
通信石の向こうで、カシアン様の声が低くなる。
『ひとまず、来月の夏の議会までに……中型風力石一つにつき、魔力換算で四百八十マナほどの出力が必要だ』
紙の上を走っていた鉛筆が止まる。
暗算するまでもない。今からさらに三倍以上、効率を引き上げなければならなかった。
「先週までは、その半分ほどではありませんでしたか……?」
『そうだ。だが、異種族排斥主義者どもの扇動の影響か、諸家では風力石への反発が強まっている』
引き出しから、今日届いた伝報晶板を取り出し、縁に埋め込まれた魔力石を押す。暗い表面に青白い光が走り、今日の見出しが次々と浮かび上がった。
〈霊門山脈を覆った黒い雪――その正体は、悪魔の災厄か〉
〈王家は北方の少数種族を守るため、風力石の改良と供給を進めているという。しかし実現は困難。遮断杭による主要都市の防衛こそ最善〉
伝報晶板を握る指に力がこもり、浮かんだ光の文字が小刻みに揺れた。
「おかしいです……。一つの集団が、ここまで世論を動かせるなんて。グランデル家が裏で糸を引いているに決まっています」
『まだ推測の域を出ない。監視は続けているが、南方使節団が本国へ戻って以来、グランデル家に目立った動きはない』
唇を強く噛み、問いかけた。
「そうですか……それで、この目標値について、お母様は何とおっしゃっていましたか」
通信石の向こうが沈黙した。
『無理だと。他の魔導家門も、皆同じ答えだ』
「では……北方は、見捨てるのですか?」
『そのつもりはない。そもそも風力石と遮断杭の開発は、どちらも充分に両立できる計画だった。それを――!』
カシアン様の声が鋭く跳ね上がり、言葉は途中で途切れる。
ひと息置いて、先ほどより抑えた声で続けた。
『……すまない。声を荒らげた。とにかく、北方も霜嶺王国の一部であり、そこに暮らす者たちも俺が守るべき民だ。だから、最後まで力を貸してほしい、アリア』
「もちろんです、カシアン様……」
鉛筆を強く握り締めて答えた。
『君一人に、あまりにも大きな負担をかけているのではないかと思ってな』
「そんなことありません! オルネン家は、王家へ忠誠を誓った魔導家門です。当然の務めを果たしているだけですから」
『……そうか。だが、無理だけはするな』
思わず口元が緩む。
唾を飲み込み、胸の奥まで息を入れる。意を決して口を開きかけたところで、カシアン様が先に話し始めた。
『それより、ププは元気にしているか?』
「え……? は、はい。もちろんです。今も、すぐそばにいますよ」
『あれだけ世話をしてやったのに、君のところへ行ってしまうとは、妙な気分だな。できれば、鳴き声だけでも聞かせてくれないか』
「……少々お待ちください」
目を閉じ、鳥の感覚へ意識を集めた。
身体が一気に小さくなる。崩れ落ちた服の袖口から這い出し、通信石の前へ飛び乗った。
「ピヨッ、ピヨッ」
二度、胸を張って鳴いてみせる。
『うむ。元気そうだな。きちんと餌は食べているか?』
「ピヨロロッ」
『そうか、そうか。だからといって、嘴で人をむやみに突くのではないぞ』
人の姿を思い浮かべる。
元の身体へ戻ると、足元へずり落ちた服を慌てて引き上げる。中途半端な姿勢で袖へ腕を通していると、通信石からカシアン様の声が聞こえた。
『ありがとう、アリア。ププに餌をやってほしいという頼みまで、君には世話をかけてばかりだな』
「いいえ……このくらい、当然です」
『では、ほかに用がなければ切るぞ』
唇を開きかけたものの、結局、言葉を飲み込む。
「はい、カシアン様。どうか、ゆっくりお休みください」
『ああ、君もな。今夜は身体を冷やさず、早く休め。それから、グランデル家が異種族排斥主義者【ピュアリスト】を利用している可能性もある。充分に警戒するように』
「ありがとうございます」
通信石の光が消える。
通信石を机の隅へ置き、服を整える。研究日誌を開き、途中だった数式の整理を再開した。
『やっぱり、カシアンはいい子だね~ それより、何を言おうとしてたの?』
「何のことですか」
『さっき通信してたときだよ。カシアンに何か言いかけては、何度もやめてたでしょう』
答えず、数式を書き続けた。
『気になる、気になる!』
「はあ……ただ、婚談について聞こうとしただけです」
『婚談?』
「はい。先日まで王城に滞在していた南方使節団が、本国へ戻ったでしょう」
『それが何の関係あるの?』
鉛筆を止める。
車椅子の背もたれへ身体を預け、天井を仰ぐ。頭上の魔力灯が淡い橙色の光を広げ、目の奥を刺した。
「王族はたいてい、同じ王族――多くは他国の王族と結婚しますから。政略結婚というものです」
『ええっ! アリアと結婚するんじゃなかったの?』
「何をわけの分からないことを言っているんですか……」
『うう……』
間を置いて、クロノアが尋ねた。
『好きな相手じゃなくても、その政略結婚っていうのをしなきゃいけないの?』
「普通は、そうですね」
『なんか、悲しいね……』
鉛筆を握り直し、数式の続きに取りかかろうとしたとき。
『じゃあ、アリアが宮廷魔導長になれば、カシアンと結婚できるの?』
「……まあ、そうかもしれませんね。宮廷魔導長は王家に属する者ですから。たいていは宮廷魔導師として仕えるだけですが、過去に一度だけ、王族と結婚した者がいたとは聞いています」
鉛筆の先で、紙の一点をこつこつと叩いた。
「でも、宮廷魔導長になるのはイリアお姉様です。私には関係ありません」
『ええー、二人ともなればいいじゃない』
「オルネン家の直系で、最も優れた魔導師一人。それが条件です。……この話、前にもしたでしょう?」
クロノアが声を張り上げた。
『知らない! もう、なんだか腹が立つ! アリアはずっとカシアンと一緒にいなきゃ駄目なのに!』
「それは、カシアン様が穀物をたくさんくださるからでしょう」
『うっ……』
顔を擦ろうと片手を上げたが、腫れ上がった指を見て止めた。手を膝へ戻し、黙って鉛筆を走らせた。
「とにかく、この話はもうやめてください。話したところで、私が惨めになるだけですから……」
『……ごめん』
***
「お嬢さま、お嬢さま! どうなさったんですか、その鼻血は!」
リーゼの鋭い声に、目を覚ました。窓から差し込む強い朝日が、彼女の金髪に反射している。
「う……ん……リーゼ?」
リーゼは震える手でハンカチを持ち上げ、私の鼻の周りを拭った。白い布に、黒ずんだ赤い粉が、ぽつぽつと残る。
それを見た瞬間、眠気が吹き飛ぶ。
机に散らばっていた研究日誌とノートをひとまとめに抱え、車椅子を走らせる。
「どちらへ行かれるのですか、お嬢さま!」
「ごめん! 試してみたいことができたの!」
慌てて追いかけてくるリーゼの足音を背に、私の一日が始まった。




