43話「誓約」
オルネン領へ戻ってから、約一週間。
私は屋敷の書庫で、机に向かっている。
古い紙と革表紙に特有の、乾いて甘ったるい埃の匂いが空気に染みついている。
机の上には青緑色の商業用魔力石がいくつも転がり、ルーン文字の解説書があちこちに開かれたままだ。
片手に魔力石を握り、風の効率を引き上げるルーンの組み合わせを頭の中で組み立てながら、一画ずつ刻んでいく。
書き終えて、魔力石を持ち上げる。
「ウィンド――」
短く唱えると、魔力石が青緑色に輝きはじめ、かすかな風が立つ。
「うーん……やっぱり、この程度か」
そう呟くと、まわりの本が一斉にばたばたとめくれはじめた。机が風に震え、奥の本棚までがたがたと揺れる。
「きゃっ!」
風はたちまち勢いを増す。私はカシアン様から新しくいただいた魔導車椅子の魔力石を両手で抱え込んだまま、車椅子ごと床へひっくり返る。
「お嬢さま!?」
扉を開けて書庫へ飛び込んできたのは、侍女のリーゼ。灰色がかった翼が慌ただしく羽ばたき、黄みの強い金髪が書庫の灯りを反射して揺れている。
「このところ毎日、いったい何をなさっているんですか! 爆弾でも破裂したのかと思いましたよ!」
彼女は私のそばに駆け寄って車椅子を起こし、乱れた髪を整えてくれた。
「リーゼ、平気だってば」
その手をやんわり払いのけ、にっと笑ってみせる。
懲りずにペンを取り、紙に書き込みはじめる。
「それよりリーゼ、これ見て。風の術式にこの数式を組み込むと、ほんの少しの魔力でも、これだけの出力が出るの」
「お嬢さま……申し訳ありませんが、私にはさっぱり分かりません」
「いいの! 見るだけでいいから」
別の魔力石へ手を伸ばしかけると、リーゼが車椅子をつかみ、有無を言わさず押し始める。
「ちょっと待って。あと一回だけ―― 」
「なりません、お嬢さま」
リーゼが書庫の扉へ手を伸ばす。
取っ手を握った途端――ばんっ、と扉が勢いよく開いた。
銀に近い淡金色の髪をした小さな男の子が、紙飛行機を手に駆け込んでくる。
ノエル・ヴァルデン。オルネン家の封臣である準男爵家、ヴァルデン家の末息子だ。
「ぶーん! アリア姉ちゃん、みーっけ!」
ノエルは書庫の中を所狭しと駆け回り、手にしていた紙飛行機を投げる。
紙飛行機はふわりと舞い上がり、高い本棚の上へ載る。
「姉ちゃん、あれ取って!」
「……私は登れないから、無理だよ」
ノエルは唇を尖らせると、私の背中から覗く翼をつかみ、ぶんぶんと揺らし始める。
翼の付け根から鋭い痛みが走り、声が尖る。
「ノエル、やめて――!」
「ええ~ 羽、ふわふわでおもしろいのに……」
ノエルはかわりに、手元の紙を――数日かけてまとめた研究日誌をさっと奪い取り、それで紙飛行機を折ろうとする。
「駄目、それは!」
慌ててノエルの手首をつかんだ。
ノエルは私の顔を見上げたかと思うと、たちまち顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「うわあああん!」
その騒ぎを聞きつけ、一人の女が書庫へ入ってくる。
ノエルの母、エステル・ヴァルデンだ。
彼女は泣き叫ぶ我が子を抱き上げると、私を上から下まで眺め回した。その目が手首の包帯に留まった途端、目元が露骨に歪む。
「……その汚らわしい手で、よくも我が子をつかんだわね」
「つかんだのではありません。ノエルが私の研究日誌を――」
「直系とはいえ、魔力すら持たぬ半端者が。魔導家門の恥さらし風情が、どの口で言い訳をするの」
言葉が喉につかえた。
それでも今度は、顔を伏せなかった。
「……ここはオルネン家です。そしてあなたは、定例報告のために訪れた封臣にすぎません。言葉を慎んでください」
エステルの顔が、みるみる赤く染まった。
「この出来損ないが、どの口で――」
ぱしん。
頬に熱が弾け、顔が横を向く。
止めに入ったリーゼも、エステルの腕に突き飛ばされ、背中から本棚へぶつかる。
熱を持った頬を押さえることもせず、エステルを見上げた。
「おまえのせいで、エララ様がどれほど心を痛めておられるか、分かっているの? それなのに、よくもそんな口を利けたものね」
彼女の鋭い声が、頭上から降り注いだ。
開いた扉の向こうには、騒ぎを聞きつけた侍女たちが次々と集まってくる。けれど誰もが私を一度横目で見ただけで、顔を背け、遠ざかっていく。
膝へ視線を落とし、両手を固く握り合わせる。
「……申し訳、ありません」
喉の奥から、どうにか掠れた声を絞り出した。
***
肩を落としたまま、自室へ戻った。
部屋の窓には濃紺の絹のカーテンが下がり、壁際には同じ色の天蓋を備えた大きな寝台が置かれている。銀の燭台と磨かれた家具だけが、沈みかけた夕日を冷たく返していた。
リーゼが食事を運んできても、いらないとだけ答えて下げさせた。
机の前に座り、ひたすら風力石の術式を整理し続ける。
術式を書き連ねるうちに日は完全に沈み、青い月明かりが部屋へ差し込んできた。
『アリア、おはよう!』
クロノアが弾んだ声で挨拶をしてきた。
「……こんばんは」
力なく返事をすると、クロノアの声からも弾んだ調子が消えた。
『今日はどうしたの……? また誰かにいじめられた?』
「いつものことです」
『……なんだか、寮にいたときよりずっと沈んでるよ。早く戻ろうよ。カシアンにも会えるし』
「戻れないって言っているでしょう」
声が鋭く飛び出した。
「それより、クロノア様のほうが怪しいんです。ソリア様は同じ精霊なのに、昼間から平気で動き回っているでしょう。どうしてクロノア様だけ、夕方にならないと起きられないんですか。肝心なときには、いつもいないくせに……」
『それは……ソリアが太陽の精霊だから、特別なんだってば』
「そんな都合のいい決まりが、どこにあるんですか」
長く息を吐いた。
「もういいです。話したくありません」
『アリア……本当なんだって……』
返事をする前に、扉を叩く音がした。
「お嬢さま……少し、よろしいでしょうか……?」
「リーゼ、呼ばないでと言ったでしょう」
「それが……ご当主様がお呼びです。執務室へ来るようにとのことです…… 」
――まさか、今日の件でエステルを叱ってくださったのだろうか。
胸の奥に、小さな灯がともる。だが車椅子の肘掛けを握る指は、なぜか冷たくこわばっている。
リーゼに連れられ、執務室へ向かった。
「お母様。アリアです」
「入りなさい」
扉を開ける。
黒樫で造られた重厚な執務机。壁一面を埋めた魔導書。そして鼻先を撫でる、甘く落ち着いた香り。
お母様は窓を背にして立っている。
沈黙の末、お母様は扇で口元を覆ったまま告げた。
「オルネンの名を継ぐ者は、指先ひとつにも品格を宿さねばならない。その品格を持たぬ者は、ただの家門の汚物にすぎないわ」
「……お母様。それは、どういう……」
「今日、おまえがヴァルデン家の末息子を叩いたそうね」
「ち、違います! ノエルが私の研究日誌を持っていこうとしたので、ただ手首を――」
最後まで言葉を続けることはできなかった。
お母様の手には、細い木の鞭が握られていた。そのあとの記憶は、いつもと同じく輪郭が潰れていた。
気づけば手首の包帯は乱れ、腕に刻まれた黒い跡があらわになっていた。両手は指の節が埋もれるほど腫れ上がり、皮膚は黒ずんだ紫色へ変わっている。
唇を固く噛み、嗚咽を口の中へ押し込んだ。
魔導車椅子を最高速度で走らせ、自室へ戻る。寝台へ身を投げ、枕を両手でつかんで顔を埋めた。
「ひっ……どうして、私ばっかり……ひっく」
しゃくり上げながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
ふいに身体を起こす。頬の涙も拭わず、机の前へ向かった。
『アリア……うう、君のお母さん、本当に最悪だよ。それより、なんで急に机に向かうの? そのまま横になってたら駄目なの……?』
クロノアの震える声が聞こえる。答える代わりに何度か深く息を吸った。
しゃっくりがようやく収まった頃、口を開く。
「絶対に、許さない……」
『……どうするつもり? まさか、お母さんにも黒魔術を使う気……?』
「いいえ。黒魔術は、もう嫌です。あの一件以来、毎日のように目眩もしますし……」
『じゃあ?』
「魔力の封印に関する秘密を突き止めます」
濡れた目元を手の甲で拭い、続けた。
「血統保全誓約。聞いたことはありますか?」
『……ない』
「貴族の血統を守るため、直系の者には、たとえ当主でも勝手に手を加えることは許されていません。位相も、魔力も、肉体も――人為的に改変してはならないんです」
目を閉じ、こめかみを指先で二度叩きながら、記憶を辿った。
「昔、自分の子どもを最強の魔導師にしようと、非人道的な魔力改造実験を繰り返した家門があったそうです。とにかく、それがきっかけでこの誓約が結ばれました。違反が明らかになれば、当主はその地位を剥奪されます」
クロノアは黙り込んだ。
『人間って、本当に恐ろしいね……。でも君には、お姉さんがいるでしょう。キリアンもいる。お母さんが当主の座を追われたら、次は誰が当主になるの?』
「私です。オルネン家では、男性は当主になれません。それにお姉様は、もうすぐ宮廷魔導長となって、王家に属することになりますから」
『……当主になって、復讐するの?』
涙に滲んでいた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していった。
「はい。全員、追い出します」
机の縁を握る。
「お母様も、私を苦しめてきた者たちも。遠い、遠い場所へ。二度と私に手が届かないところまで」
奥歯を強く噛み締めた。
机の上に置かれた通信石が、淡い光を放ち始める。
通信石へ手を伸ばす。自然と口元が緩んだ。けれど手に取る寸前、泣きすぎて掠れた喉からは、声らしい声が出ないことに気づく。
短く息を吸い、片手を喉へ添える。
「あ、あー んんっ、こほん」
何度か声を整えてから、通信石を持ち上げた。
ーーーーー
作者のうめ紫蘇です。
第二部「地下坑編」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
*おかげさまで、ブックマークも10件を達成しました!
今回から第三部が始まります。これまでに張られてきた伏線を少しずつ回収しながら、物語も新たな展開へと動き出します。
これからも皆様に楽しんでいただけるよう、精いっぱい執筆してまいります。引き続き応援していただけると嬉しいです。
ブックマークや評価も、大変励みになります!




