42話「約束」
がたん、がたん。
馬車が揺れるたび、ときおり尻が痛む。
馬車の中は、カシアン様と二人きり。
カシアン様はただ、馬車の後ろ、幌の向こうの外ばかりを見つめていた。つられて幌の向こうへ目をやったが、青い木々と土の道の残像が、後ろへ流れていくだけだ。
俯き、抱えた膝のあいだに額を埋めた途端、カシアン様が声をかけてきた。
「本当に、これでよかったのか。アリア」
はっと顔を上げる。カシアン様は相変わらず、幌の向こうへ顔を向けたままだ。
「よかった、というと……何のことでしょう?」
「グリムナル族への処分だ。何がどうあれ、あの者たちが君を攫っていったことに変わりはない。貴族に対する誘拐行為は、処刑に準ずる罪だ」
服の外へはみ出た翼を片手で押し込みながら答えた。
「大丈夫です……結局、グランデル家からの指示が原因でもありますし……私は、あの人たちが傷つくのを望んでいません」
「そうか」
会話が途切れ、馬の蹄の音だけが響いた。
今度は、私から話しかけた。襟を掴む手に、力がこもる。
「それより、カシアン様……グランデル家は、これからどうなるのですか?」
カシアン様はすぐには答えなかった。
やがてこちらを向き、ほんの一瞬だけ目を合わせると、再び視線を伏せた。
「君の目と、オルネン家への侵略。それによる誘拐の依頼。見ようによっては荒唐無稽な話だが、俺は君の言葉を信じる。ただ……物証がない以上、王家としても迂闊に動けないのが現実だ」
「やはり、そうですか……」
「ただ、王都に戻れば、俺にできる範囲で最大限の備えをしてみよう」
「ありがとうございます……」
そこへ、ソリアが幌の外から飛び込み、そのままカシアン様の肩へ行儀よく止まる。
「トト……!」
彼がソリアにつけた愛称だ。その名を呼ぶと、張り詰めていた目元から力が抜ける。彼はソリアの脚に結ばれた手紙を外す。
「遠い道のりだったろうに、健気なものだ。俺は、君ほど麗しい鳥を見たことがない気がするな。それにしても、ププのやつは、飯をちゃんと食べているだろうか……」
その言葉に、背筋がひやりとする。
ぎこちない笑みを浮かべて言った。
「カシアン様は、鳥が本当にお好きなんですね。今回も、餌を寮にたっぷり入れておいてこられたのではないですか? あ……寮は当分、閉めていたんでしたね」
カシアン様は私をちらりと見ると、笑みを消し、手紙へ視線を戻した。
「ああ……問題ない。鳥の餌は欠かさず与えるよう、代わりに言い含めてある」
そう言いながら手紙を読む指先に力がこもり、紙の端に皺が寄った。読み終えると、きちんと折り畳んで懐へしまい込んだ。
「何か、あったのでしょうか……?」
「何でもない」
彼はそれだけ言うと、ソリアの頬を何度か撫で、再び幌の向こうへ顔を向けた。
その横顔をしばらく窺ったあと、俯いた。胸の真ん中に濡れた布が貼りつき、息が深く入らない。
***
北から下りて、オルネン伯爵領へ向かって、はや二日目の夕方。
赤々と燃えていた焚き火の光も次第に萎え、その周りを囲んで、傭兵たちが横たわって眠っている。
空には、二つの月が中天に懸かっていた。その下に無数の星が撒かれて、夜空は黒いというより、むしろ銀の粉を散らした川に見えた。
ときおり星が一つ、長く尾を引いて、山の稜線の向こうへ消えていった。
けれど私は、相変わらず眠れずにいる。体は気だるいのに、胸の片側だけが締めつけられている。
身を起こすと、クロノアが話しかけてきた。
『アリア、今日も眠れないの……?』
「はい。まったく」
胸元の襟を掴み、視線を落とした。
『やっぱり魔力中毒の副作用かもしれないから、カシアンに言ってみなよ。回復スクロールでも使ってみたほうがいいって』
「その魔力中毒の話はやめてくださいってば。聞くだけで吐き気がします……それに、大した問題じゃないので、気にしないでください」
『でも……』
膝の上に頬を載せ、離れたところに横たわるカシアン様へ目を向けた。呼吸に合わせて上下する毛布。彼の黒い髪が、月明かりを受けて青く光っている。
胸が、ちりちりと疼いてくる。
物音を立てないように身を這わせ、横に置いておいた車椅子へ乗り移った。
すると、カシアン様の後ろの針葉樹に止まっていたソリアが、片目だけを開けて私を見下ろした。
ソリアに向かって人差し指を唇に当て、野営地から離れた平地へ車椅子を進めた。
上着の内側へ無理やり押し込んでいた翼を引き出すと、押さえつけられていた羽根のあいだに夜気が染み込んだ。窮屈だった背中が、ずいぶん軽くなる。
風が一度、強く吹いた。髪が舞い上がって視界を遮り、前方では、青く伸びた草が波打つ。
風に乗った冷気が、腕に巻いた包帯を突き抜け、肌を刺した。
「うう……寒い」
両手を脇に挟み、翼を縮こませた途端、毛布が一枚、体の上を覆った。
「ひやぁっ!!」
全身を跳ねさせて振り返ると、そこにカシアン様が立っている。彼も両手を震わせて、一歩後ろへ下がる。
「カ……カシアン様、どうしてここに……」
「君こそ、こんな時間にここで何をしている」
「わ、私は、ただ、少し眠れなくて……」
カシアン様は、私の横の草むらへどさりと腰を下ろし、何も言わずに空を見上げた。
「夜空が綺麗だな」
「そうですね……」
「昨日もずいぶん寝返りを打っていたな。何か、心配ごとでもあるのか」
「……いえ。何でもありません」
沈黙が落ちた。風が草の上をひと撫でして過ぎたあと、彼が口を開いた。
「魔力中毒の後遺症か」
「そういうのではありません」
「フレイヤとグリムナル族のことが、気がかりなのか」
「いえ……まさか。フレイヤなら、今ごろ大の字になって寝ていますよ」
「たしかに、そうだろうな」
夜空を見上げているうちに、目に水気がこみ上げてくる。空の星々が滲み、白い点から白い霧になる。
目をぎゅっと閉じて、大きく息をひとつ吸い込んだ。
「カシアン様……一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ」
「私は、カシアン様にとって……どういう存在なのでしょうか」
語尾がかすれた。
「そんなもの、俺の大切な民の一人であり、友ではないか。質問の意図が、よく分からんな」
「お嫌いなわけでは、ないんですよね……?」
「どうして俺が君を嫌う。俺の命を二度も救った恩人ではないか」
「……うそ」
閉じた目の隙間から、熱いものが流れ出た。もう一度、呼吸を整えた。
「どうして私を見るたび、目を逸らすんですか? 私が恥ずかしいんでしょう? 汚らわしいんでしょう……?」
「アリア、違う。それは――」
顔を上げると、彼とまっすぐ目が合う。
鋭かった彼の目が、見たこともないほど大きく見開かれている。
手首を持ち上げ、包帯を解いた。無数の黒い線が絡み合って、蜘蛛の巣となって腕に広がっている。
「歩くこともできず、異種族で、全身に刻印まで……う……」
喉が詰まってきた。声を引き出そうとしても、口の外へ出てくるのは、泣き声ばかりだ。
私なんかが。覚悟していたことなのに。醜い、汚らわしい、みすぼらしい。
頭に浮かぶ言葉が、一つひとつ鉤となって、心臓に食い込んでくる。
そのときだった。
ぬくもりとともに、木の甘い匂いが鼻をかすめる。
カシアン様が、私を抱きしめる。
押しのけようと腕を上げたが、それ以上は動かなかった。
「そんなことを言うな。前に言ったではないか。歩けないことも、異種族であることも、何の関わりもない」
彼は私の肩を掴んで身体を離すと、まっすぐ目を覗き込んだ。
真っ黒な瞳にはかすかな光が宿り、その中に私の顔がぼんやりと映っている。
彼は私の腕を取り、剥がれかけた包帯を丁寧に解いていった。黒い傷跡が、月明かりを含んで、あらわになる。
「君にだけ、一つ秘密を教えよう」
「え……?」
「俺は、教会を信じていない」
彼は口元をゆるめ、目を細めた。
「異端の刻印だの何だの、そんなものはどうでもいい。俺が信じるものは――俺が見て、俺自身が判断する」
私の二の腕に手を置き、そっと撫で下ろした。
「そしてこの刻印は、俺にとって、何よりも美しい傷跡だ。君はこれで、俺を救ったのではないか」
「……」
「寒くて、全身が崩れ落ちていくようだった。その最中でも、はっきりと聞こえていた。君の声が」
涙を拭い、顔を上げて彼を見た。
「ほんとですか……?」
彼は突然、片手で口元を覆い、顔を背ける。
「また目を逸らしたじゃないですか……」
「……それは」
泣き声がこみ上げかけた、その矢先。
「それは……仕方がなかった。君のあんな姿を見たあとでは、すぐに顔を合わせることができなかった」
「はい……?」
そこでようやく思い至った。
彼の傍らで、裸のまま気を失っていたことを。しかも救助されたときは、カシアン様は外套一枚で私の身体を包み、そのまま抱えて駆け出したのだ。
全身の産毛が、一本一本、ぞわりと逆立つ。
両手で顔を覆った。頬から耳の先まで、かっと熱くなる。
「こほん……ともあれ、君を嫌うことなど一度もない。余計な心配はするな。あの時のことは、俺の胸にしまっておく。だから、許してくれ」
「……別に」
小さくつぶやいた。
「ん? 何と言った」
「いえ……何でも……」
それからしばらく、二人とも夜の草原で黙り込んでいた。
頬の熱がいくらか引いたころ、口を開いた。
「では、一つだけ約束していただけませんか……?」
「約束の中身によるが、ひとまず聞こう」
「友、ともおっしゃいましたよね。辛いことや、そういうものがあれば、一緒に分かち合ってほしいんです。それが友だち、じゃないですか……」
彼はしばし黙ったあと、私の車椅子を掴んで前へ押しはじめた。
「そうしよう。代わりに、君も辛いことがあれば、隠すな」
「分かりました……」
顔を伏せ、口元をゆるめた。
「ところで、どちらへ行かれるんですか?」
「夜も更けた。そろそろ戻って、寝るとしよう」
「ですね……そうですね」
「それで、何が君を眠らせなかったのだ。俺が目を逸らしたことだけが理由とは思えない」
「……カシアン様、意外なところで、ずいぶん鈍くていらっしゃるんですね」
「それはどういう意味だ」
「何でもありません」
「隠しごとはなしと、決めたばかりではないか」
「隠してません」
車輪が草を擦る音を聞きながら、彼の押す車椅子に身を預け、夜空を見上げた。
野営地の灯りが近づくまで、二人で他愛もない話を交わした。




