41話「黒雪」
夕方、天幕の中。
明日になれば、もう皆とはお別れだ。
私の横では、フレイヤとニアが向かい合って、きゃっきゃと笑いながら雑談を交わしている。
私は小声で言葉を挟んだ。
「ニア……おばあ様は、本当に大丈夫なの? 一緒にいてあげなくていいの?」
「うん! 平気だよ。フレイヤのオスがくれた回復スクロール使ったら、すっかり治ったもん!」
ニアが間の抜けた声で言うと、横からフレイヤが、その肩をぽんと叩いた。
「だから、そういうんじゃないってば。それに、あんなにひょろひょろなのに、どうして私のオスなの」
「そうだね。じゃあ、フレイヤがオスで、セドリックがメスってことにすればいいね!」
するとフレイヤが、にやにや笑って頬を掻いた。
「えへっ、そう? そうかも」
その様子に、小さく息をついて切り出した。
「それで……フレイヤ、グリムナル族を連れて領地に行くって、本気なの?」
「うん! お父様も許してくれた。もともとうちの領地は少数民族も多いし、影鱗族もときどき来てたから、影鱗族として入るなら、何の問題もないの」
フレイヤがピースサインを作って、にっこり笑った。
私は次に、ニアを見た。
「ニアは、それでいいの? なんだか、ごめん。私がもう少し早く、ちゃんと備えていたら……魔物も安全に仕留めて、地下坑が崩れることもなかったのに」
「またその話! 平気だってば、アリア。不安はいっぱいあるけど……でも、おかげで、地上でもう一度、光を見て暮らす機会をもらえたんだから」
そして、私の手をぎゅっと握ってみせて言った。
「ありがとう、救世主様。やっぱり予言のとおりだよ!」
次に、フレイヤの手を握った。
「フレイヤもありがとう! 最初は……乱暴にして、ごめんね」
「私もごめん……ノアを蹴っちゃって……」
フレイヤまで泣きそうな顔になると、ニアが声を張って話題を変えた。
「それでそれで! フレイヤの領域に行くと、オーロラっていうのが見えるって、本当?」
フレイヤも表情をゆるめて、返した。
「領域じゃなくて領地! もちろん~ オーロラがいちばんよく見えるから、うちの領地の名前、極光京っていうんだから」
「きょっ……こう?」
ニアが舌を回しかけて、首をかしげた。
「それ、どういう意味なの?」
「えっと……その、あのね……」
フレイヤが私を横目で見た。私はその様子に、ふっと笑って答えた。
「極光っていうのが、オーロラを指す言葉なの。空の果てから降り注ぐ光、っていう意味。『光が降りる都』くらいかな」
「そう、それ! それだよ!」
フレイヤが相槌を打って笑った。
ニアが感心して、質問を続けた。
「それより、そこに行ったら、お肉もいっぱい食べられる?」
「お肉? うーん、魚なら、いっぱいあるよ」
「サカ……ナ?」
「うん! 海にあるお肉!」
会話が弾んでいると、天幕がわずかに開き、ノアが入ってくる。両手には、灰色の枕を抱えている。
「ニア、寝る時間。眠い」
「ノア、今日は一人で寝て。あたし、もうちょっといてから行く」
「ニア、だめだ。ノア、一人で寝られない。おばあ様も待ってる」
「仕方ないね……」
ニアは私たちに短く挨拶をして、外へ出ようとして――ふと、私のほうへ近づいてきて、耳元で小さく囁いた。
「王子様にも、代わりにありがとうって伝えてね……」
そしてノアの脇腹をとんとん叩きながら、一緒にとぼとぼと歩いていった。
フレイヤが私を見て尋ねた。
「なになに? 何て言ったの?」
「あるの……そういうのが」
「ずるい!」
私と、ぶつぶつ言うフレイヤは、場所を決めて横になった。
真ん中に置いた小さな魔力ランプの明かりを消すと、じきに闇が押し寄せてくる。
夏の虫たちの鳴き声。そして天幕の隙間から染み込む夜気には、昼のあいだ温められて冷えていく土の、わずかな生臭さが混じっていた。
フレイヤのほうへ体を向けた。彼女が、うんと伸びをした。
「ううー、何日も土ばっかり掘ってたから、体じゅうが砕けそう……」
「ごめん……フレイヤ。それと、ありがとう」
「これくらい、なんてことないよ!」
しばしの静寂。フレイヤが先に話しかけてきた。
「ところでさ、アリアはカシアン様と、どこまでいったの?」
「どういう意味……?」
「だって、カシアン様は服を脱いでて、アリアは裸だったんでしょ。まさか……アリア、もうすぐお母さんになるの?」
その言葉に唾が気管へ入って、鋭い咳が次々とこぼれた。私は喉を押さえながら、どうにか声を絞り出した。
「けほっ、そんなんじゃないから! あれには、事情があるの……」
フレイヤが私のほうへ、身を寄せてきた。闇の中でも、彼女の顔がはっきり見える。目尻だけで笑っている。
「な、なによ」
「ふうん……うそだ。お母様が言ってたもん。好きな人と、服を脱いで一緒に寝たら、お母さんになるんだって」
「は!? そんなことで、お母さんになるわけないでしょ!」
フレイヤが、唇を突き出して、ぶうぶう言った。
「じゃあ、うちのお母様が嘘つきってこと?」
「それは……」
「じゃあ、どうやったらお母さんになるの? チュー?」
うなじから耳たぶまで、熱いものがかっと込み上げる。
彼女に背を向けた。片手では、腕に巻かれた包帯を、いっそうきつく握りしめた。
「とにかく、カシアン様とは何の関係もないから……私なんかがいたって、迷惑なだけだもの」
フレイヤが、私の背にそっと手を置いた。
「なんか……ごめん。でも、私は異端の刻印なんて全然気にしてないよ? 司祭様も事故だって言ってたし。あっ、司祭で思い出した! おばあ様の腕をあんなふうにしたの、今でも腹立つ!」
何も答えず、ただ顔を伏せて、いっそう体を丸めるだけだった。
フレイヤが続けた。
「カシアン様だって気にしてないって! アリアが寝てる間、毎日のように来てたし。司祭様に『彼女が目を覚ましたらすぐ知らせろ』ってさ。隣で聞いてたけど、あの顔怖すぎて死ぬかと思った!」
「カシアン様が……?」
「うん! だから心配しないの。誰もアリアを迷惑だなんて、思ってないんだから!」
その言葉に、胸の片隅が少しほどける。
だが同時に、午後の、あの後ろ姿が重なる。私に一度も目をくれず通り過ぎていった、冷たく強張った顔。
その二つが、どうにも一つにつながらなくて、闇の中で、何度か目を瞬かせるばかりだった。
(まあ……彼が無事なら、それでいい。)
そうして、夕暮れがすっかり暮れて、目を閉じて、眠りについた。
***
朝、森の空き地には、馬車が数台と傭兵たち――優に十五人はいそうな人々が集まっている。
司祭と聖騎士たちの姿は、もう見えない。
フレイヤとグリムナル族も、そこにいる。もともと着ていた、体に張りついた革の伝統衣装は、どこにもない。代わりに皆、粗末な布を継ぎ足して羽織っている。
片隅から、フレイヤが私のほうへ近づいてくる。腰には剣が一本提げられ、体には鎧をまとっている。
フレイヤが私の手を握った。
「じゃあ、私たちはそろそろ行くね、アリア。次に会うときまで、無事でいてよ……」
ニアも歩み出て、私の手に自分の手を重ね、涙ぐんだ声で言った。
「アリア、絶対また会おうね……! 次に会ったら、蜂蜜菓子、絶対食べさせてよ!」
「わかったよ。そして、死にに行くわけじゃないんだから、またすぐ会えるよ」
フレイヤは目元を拭って、泣きそうになった。その姿を見ていると、私も思わず鼻の奥がつんとした。
「もう、何なの? どうせフレイヤは、グリムナル族を送り届けたら戻ってくるんでしょ? 寮は私が掃除しておくから、心配しなくていいよ」
「寮……?」
フレイヤが涙を拭って、私を見た。私が首をかしげると、彼女が「あ……」と小さく息を吐いて、ゆっくりと口を開いた。
その唇が開いて、また閉じて、そしてもう一度開いたとき。
後ろから、カシアン様が声をかけてきた。
「学院は当分、休校だ、アリア」
「カシアン様……休校だなんて、急にですか?」
カシアン様は何も言わず、ただ北の霊門山脈を見つめる。私も彼につられて、そちらを見る。
いつもと同じ、果てもなく雲を突き抜けて空へそびえる、黒い山脈。
――黒い、山脈。
一年じゅう真っ白な万年雪に覆われているはずの霊門山脈の頂が、石炭のような色で塗り潰されている。
車椅子の手すりを握る手が、がくがくと震える。
「これは……いったい……」
カシアン様が、淡々と答えた。
「黒い雪。黒雪と呼ばれるものだ」
彼に続いて、フレイヤが説明を添えた。
私たちを救助しているあいだ、霊門山脈の空が真っ黒な雲に覆われ、黒い雪が降って山を黒く染めたこと。山脈を越えてはこなかったが、世界を丸ごと呑み込むほどの轟音が、生々しく響き渡ったこと。
私が時間を巻き戻してくる前、北進城砦で見たものと、正確に一致している。
カシアン様は背を向けて馬車のほうへ歩きながら、付け足した。
「だが、案ずることはない。黒雪への備えは順調に進んでいるし、学院もまた、万一に備えての休校にすぎん。だから我々はこのまま、君をオルネン伯爵領へ送り届けに行く。そう心得ておけ」
いくつもの問いが、頭の中で次々と噴き上がってくる。
けれど私も、フレイヤも、傭兵たちも。皆が彼の後ろ姿を見つめるばかりで、何ひとつ言葉を口にできなかった。
沈黙の中、傭兵の一団が半分に分かれた。半分はカシアン様のいる馬車のほうへ、半分はグリムナル族のほうへ歩いていった。
その前に立ったセドリックが、フレイヤを見て言った。
「フレイヤ、僕たちも早く行こう」
「えっ、セドリック? そこで何してるの?」
「僕と傭兵の何人かも、道中を一緒に護衛するんだ。カシアン様にも、昨日ちゃんと話してある」
フレイヤが、とことこと駆け足でセドリックのほうへ走っていった。
「ええー、いいのに……」
「もしものことがあるから。最近は異種族排斥主義者の活動も活発だっていうし、用心して悪いことはないから」
「セドリック……ありがとう。やっぱりきみしかいないよ……。お父様に言っておくから、いっそ、うちの領地で一生暮らすのはどう?」
フレイヤがセドリックを抱きしめた。鎧まで着ているので、セドリックの体が、いっそう小さく見えた。
セドリックは顔をしかめて、全身をよじって抜け出した。
「それはちょっと……僕にも、家門があるから」
「じゃあ、セドリックの家族もみんな一緒に暮らせばいいじゃない!」
「冗談だよね……?」
そのとき、後ろからカシアン様の声が聞こえてきた。
「アリア。そろそろ出発するから、早く馬車に乗れ」
「は、はいっ!」
言い合うフレイヤとセドリックを背に、車椅子を回して進みだした、その瞬間。
「アリア!」
顔を巡らせると、ニアが手を振っている。続いてノアが、そして、ほかのグリムナル族の皆も。
「救世主様、ありがとう!」
その姿に、私は小さく笑ってみせて、一緒に手を振り返した。
そうして私たちは、黒く染まった霊門山脈を背にして、それぞれの道へと発っていった。




