4話「決意」
「つまり……あなたは、時の精霊……クロノア様?」
『うん、そうだよ。思ったより飲み込みが早いね』
思ったより。その言葉に、こめかみの横の髪がぴくりと揺れた。けれど今は、そこに引っかかっている場合ではなかった。
整理すると、こうだ。
私が悪夢だと思っていたあの地獄は、夢ではなかった。北進城砦で見た黒い平原も、空から降ってきた黒い雪も、身体が溶けていく感覚も、すべて本当に起きたことだった。
そして、あの場所で私が胸元に入れた青い鳥。その鳥こそが、時の精霊クロノアだった。死ぬ直前、クロノアは自分の権能で時間を巻き戻したのだという。
私は大きく息を吐き、掛け布を頭の先までかぶったまま、小さく尋ねた。
「では……私はあなたを、何とお呼びすればいいんですか……?」
『そのまま、クロノア様でいいよ』
「クロ……ノア……」
名前を口の中で転がしてみても、現実味は少しも湧かなかった。
『じゃあ、わたしは君を何て呼べばいい?』
「……アリア。アリアでいいです」
そう答えたあと、私は掛け布の中で両手を髪へ伸ばした。指が髪をつかんだ瞬間、腹の奥を誰かに握られたような感覚が込み上げる。
そのまま、力いっぱい引いた。
ぷつり。髪が数本切れた。
もう一度力を込めると、ぷつ、ぷつ、と乾いた糸が切れる音が手の中でした。
『いたっ! 何してるの、アリア!』
頭の中でクロノアの声が響く。
私は答えなかった。
今度は手のひらを開き、自分の耳を思いきり叩いた。
ぱんっ。鈍い衝撃が、耳の奥まで広がった。
もう一度、手を振り上げる。
『痛い、痛いってば! やめて!』
その瞬間、手が宙で止まった。どれほど力を込めても、下ろせない。見えない手が、私の手首をしっかりつかんでいる。
目元が熱くなった。喉がきつく締まる。
涙が頬を伝って落ちた。抜けた髪が数本、濡れた口元に貼りつく。
「ひっ……ふ……」
小さな声が、唇の間から漏れた。涙でぼやけた視界の奥に、いくつもの場面が次々と浮かんだ。
私を見下ろす家族の冷たい目。何度も壊された車椅子の魔力石。鞄の中にこびりついていたスライムの残骸。
そして――絵を受け取り、笑っていたエルヴァン様の顔。
その瞬間、腕のまわりに青い光が浮かび上がった。小さな青い粒が、肌の上に現れる。水滴ほどの、塵ほどの、ごく小さな光が、腕を伝ってゆっくり上がっていった。それはやがて肩と首筋を越え、全身へ広がっていく。
心臓の音が、少しずつ遠のいた。頭の中を埋めていた場面が、ひとつずつ離れていく。身体に入っていた力も、指先からほどけるように抜けていった。
乱れた髪が、目の前で揺れている。抜けた場所の頭皮はまだひりつき、叩いた耳の奥では、鈍い音が残っていた。
『……少しは、息できる?』
私は答えなかった。口を半ば開けたまま、月明かりを受けてかすかに光る自分の髪だけを見ていた。
『アリア、つらいのは分かるよ。でも、自分の身体を傷つけるのはよくない。わたしがそばにいるから。ね?』
「……あなたに。あなたに、私の何が分かるんですか……?」
声が低く割れた。
その言葉を最後に、頭の中の声はしばらく途切れた。私はそのまま座っていた。指一本、動かせないまま。
どれくらい時間が過ぎただろう。
涙はいつの間にか止まっていた。頬に残った乾いた跡が、肌を少しだけつっぱらせている。呼吸はまだ細かったが、少なくとも、さっきのように喉が塞がることはなかった。
私はゆっくりと身体を動かした。
魔導車椅子へ身を移し、机の方へ近づく。
ちく、たく。魔導時計の秒針だけが、一定の間隔で部屋を満たしていた。
私は恐る恐る口を開いた。
「クロノア様……いらっしゃいますか?」
数秒後、返事が戻ってきた。
『うん。ずっといるよ、アリア』
「私が、おかしくなったのでなければ……本当にクロノア様が、私の身体に入ったんですね」
『入ったというより……ひとつになった、って言った方が近いかな』
「ひとつ……?」
私は本棚に手を伸ばした。
歴史書を一冊取り出し、机の上に開く。
――霜嶺王国史概説。
厚い革の表紙には、王立魔導学院の印章が押されていた。
震える指先で目次をめくる。そこから数枚、薄い紙をめくっていくと、古い挿絵のある章にたどり着いた。
そこには、こう記されていた。
『精霊とは、創世の女神ルミナが世界を形づくる際、自らの権能の一部を分け与えて生み出した、清らかで尊い存在であると伝えられている。古代の偉人たちは精霊と契約し、火、水、風、時間、生命など、人の魔導では届かない力を借りたという』
しかし、その記録のほとんどは星王曆以前の神話時代に限られていた。近い時代の記録は、ほとんどない。
残っているのは、失われた信仰と、忘れ去られた契約についての短い注釈だけだった。
本をめくるあいだ、クロノアの声がまた頭の内側で響いた。そのたびに、眉間が小さく動く。
『君が今読んでいるとおり、精霊は特別な条件のもとで、生き物と契約を結ぶことがあるんだ。ただ、今はもう、ほとんどの精霊が姿を隠しているけどね』
「どうしてですか?」
『あなたたちが、わたしたちを探さなくなったから』
クロノアの声は、意外なほど軽かった。
『精霊は信仰を糧にするの。でも今は、わたしたちを信じる者なんてほとんどいない。だから皆、自然と遠ざかって眠りについたんだよ。わたしはまあ、面倒が減って助かったけど』
私は引き出しを開け、小さなペンダントを取り出した。丸い夜空の意匠の中に、瞬く星が十字の形で刻まれている。
「星様とは、違うんですか? 今でもほとんどの人は、星様を信じていますけど」
『違う違う。それは母様への信仰でしょ。わたしたちのことは、誰も信じてないの』
「母様……」
私はペンダントを静かに裏返し、机の上に置いた。
クロノアはそれ以上説明しなかった。私も尋ねなかった。
私は本を閉じ、背表紙を本棚へ差し戻そうとした。そのとき、また声が聞こえた。
『とにかく、死ぬ前に見た位相喰い。覚えてる?』
「位相……喰らい?」
『黒いやつ。雪みたいな形をしてたでしょ』
「あ……」
その瞬間、頭の中に像が浮かんだ。
真っ黒な空から落ちてきた黒い雪片。残酷なほど美しかった、黒薔薇の結晶。私の手を貫いて沈んでいった冷たい花。
指先が細かく震えた。腹の奥が、また揺れる。
私は目を強く閉じ、深く息を吸った。
「それは……いったい何なんですか?」
しばらく沈黙が流れた。
クロノアの声が、低くなる。
『わたしにも分からない。ただ、ひとつだけ分かる。あれは、この世界にあってはいけないものだよ』
その声の奥に、ごくかすかな震えがあった。
『触れたものの位相そのものを歪めるもの。母様が設計した世界の理に背くもの。すべてを食い尽くして、最後には無へ戻してしまうもの。わたしは、あれを位相喰い と呼んでいる。……せっかく寝てたのに、ひどい目覚ましだよ』
私は唇を閉じた。乾いた喉の奥を、唾がひとつ、ゆっくり落ちていった。
『あれに触れたせいで、君とわたしの位相が絡まったんだ。だから、わたしが権能で時間を巻き戻した時、君も一緒に戻ってきた』
頭の中には、いくつもの疑問が浮かんだ。けれど、ひとまず飲み込む。
「よく分かりませんが、位相……つまり、私たちの魂が混ざったという意味ですか?」
『そうそう。正確には少し違うけど、今はそれでいいよ。だから精霊の力が強まる時間――母様が照らす夕暮れにだけ、こうしてあなたに話しかけられるの』
「星様が照らす時間……」
そう呟きながら、私は窓の方を見た。
星と月の光は、青の奥にかすかな赤みを含んでいた。その光が窓の形を床に落とし、淡い四角となって板張りの上で静かに揺れている。
私はふいに身体を机の方へ向け、もう一度歴史書を開いた。
精霊についての一節を探し、ペンで下線を引く。
『精霊は契約を結んだ者に、自らの権能の一部を貸し与える』
私はその文に、太い線を重ねた。
「では、私も……クロノア様の力を使えるんですか?」
『ん? まあ、そうだね? 契約ではないけど、ひとつになってるわけだし。ある意味では、契約より強いかもしれない』
その言葉を聞いた瞬間、指先が熱くなった。心臓が一度大きく跳ね、呼吸が浅く速くなった。
私はペンを握りしめた。
「ど……どんな力ですか? 時間を巻き戻したり、ものすごい魔法を使えたり……」
『時間はしばらく巻き戻せないと思うけど……。どうして?』
「復讐したいんです。私を苦しめて、見下して、騙した人たちに。全部……」
語尾が細かく震えた。私は奥歯を強く噛みしめる。
歴史書の余白に描かれていた金髪の少年の落書きが目に入った。昔、授業中に何度もこっそり描いた顔。私はペン先を、その顔へ突き立てた。
がり、とインクが滲む。もう一度、削るように線を重ねた。紙がじり、と裂ける。笑っていた顔は、すぐに形を失い、目元から黒いインクの涙を垂らした。
『復讐? それは、君が自分でやればいいんじゃない? ていうか、君を見下すやつがいるの? ふうん~ なかなか見上げた度胸だね』
「私が、ですか……?」
『うん。誰に復讐したいのかは知らないけど、魔法でまとめて吹き飛ばせばいいでしょ』
私は目を細め、奥歯を小さく噛み鳴らした。
「からかっているんですか?」
『え? だって、君くらいの魔力なら、わたしの助けなんてなくても――』
クロノアの声が、不意に止まった。さっきまでの軽さが消えた。言葉の隙間に、短い息が混じる。
『……あれ。何か、おかしい』
「おかしいって、何がですか?」
『少し待って。手、借りてもいい?』
「はい?」
私が答えるのと同時に、右手が勝手に宙へ伸びた。
見えない何かが手の内側へ入り込み、骨と腱のあいだをつかむ。私の手なのに、私の手ではなかった。指が一本ずつ開き、手のひらが上を向く。
吐き気が喉元までせり上がった。
やがて、手のひらが熱を持ち始める。かすかな疼きだったはずのものが、皮膚の下で膨らみ、指の骨の隙間まで入り込んでいった。
黒い雪が触れた時の感覚が鮮明に蘇る。
「痛っ……! やめて、やめて……!」
その瞬間、手から力が抜けた。
私は左手で右の手首をつかみ、身体を丸めた。泣き腫らした目にまた涙がにじみ、口元からは唾液がこぼれる。
手のひらには何もなかった。それでも、焚き火へ突っ込んだあとの熱だけが、まだ皮膚の奥で燻っていた。
『……ごめん』
クロノアの声は低かった。そして続いた言葉に、私は痛みを忘れた。
『どうやら君、魔力を封じられているみたい』
「封じ……?」
『うん。どうやったのかは分からない。でも、あなたの中には魔力が溢れてる。なのに、出口だけが塞がれているんだ。水で満ちた泉に、誰かが石の蓋を押し込んだみたいに』
私はその言葉を、ぼんやりと繰り返した。
その瞬間、母の顔が浮かんだ。
私は唇を強く噛んだ。薄い鉄の味が、口の中に広がる。
そして机の上へ手を伸ばし、破れた落書きの部分を握りしめた。
目は、白樺月七日の欄に釘づけになっていた。
――開花の茶会。
クロノア様が何度私を呼んでも。日付が変わり、就寝時間をとうに過ぎても。
私は、その文字から目を離せなかった。




