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5話「羽化」

 白樺月(しらかばづき)二日の朝。


 王立魔導学院・基礎部の教室には、初春の光が長く差し込んでいた。


 高い天井には古い木の(はり)がむき出しになり、壁には王国の地図が掛けられている。北には雪原。西にはグランデル領の大平原。北東にはソルベルグ領の海が、青い絵の具で塗られていた。


 細長い窓の向こうには、学院の庭が見えた。芽吹いたばかりの木々が、風を受けてかすかに揺れている。


 私の席は、最前列の窓際だった。


「ですから、魔力を用いる道具には、私たちが日常で使う魔力灯をはじめ、さまざまな種類があります」


 前では、教官が授業を続けていた。教官は白髪の老年の男だった。丸い眼鏡の奥には細かな皺が刻まれ、声は少しゆっくりしているが、よく通る。


 今日の授業は『魔導具の基礎』。


「特殊な目的で使われるものには、封印石、通信水晶、魔力増幅石などがあります。今日はその中でも、魔力の流れを目で確認できる増幅石について扱いましょう」


 私は教科書の余白に、教官が口頭で補足した内容を小さな字で書き込んでいった。


 ふと、ペンが止まる。そして空いた余白に、別の文字を書き始めた。


『王都は安全なのか? お母様が私の魔力を封印? 違うなら、誰が? それより、エルヴァン様はなぜ私の目を奪おうとしたのか?』


 最後の一文を書き終えてから、私は「様」と書いた部分を見つめた。


 少しして、ペン先でその文字を引いた。斜めに一本。続けて、もう一本。それから、問いの横をペン先でこつこつと突いていると、前の方から声が聞こえた。


「アリア君? 聞こえていますか」

「はい……?」


 はっと顔を上げた瞬間、クラス中の視線が私に刺さった。


 私は慌てて教科書を閉じ、中途半端に頭を下げた。両頬が熱くなる。


 教卓の上には、透明な球がひとつ置かれていた。内側に等間隔の波紋(はもん)が刻まれた、魔力増幅石だった。


「授業中にぼんやりするとは、アリア君らしくありませんね」


 教官の言葉に、教室の後ろで低い笑いが広がった。


 続いて、声変わりを迎えたばかりの男子生徒の声が聞こえる。


「また一人で変なこと考えてたんじゃないの?」

「そうそう。前に教科書に男の絵をいっぱい描いてたんだろ。うわ、鳥肌立つんだけど」


 私は下唇を少し噛んだ。手に力が入る。


「はいはい。皆さん、まだ授業中ですよ。静かに」


 教官が一度、手を打った。


「アリア君の番です。やってみましょうか」


 私はじっと増幅石を見つめた。それから、ゆっくりと魔導車椅子を動かす。


 教室の中が、またざわつき始める。


「あいつ、魔力ないんだろ」

「えー、少しはあるでしょ。増幅石なら何か見えるんじゃない? あんたでも見えたし」

「おい!」


 私は何も言わなかった。唇を閉じたまま、車椅子だけを前へ進める。


 教卓の前で止まり、そっと手を増幅石の上に置いた。


 冷たかった。よく磨かれた硝子玉(ガラスだま)に触れているだけだった。手のひらに当たる表面は、滑らかで硬い。


 私は両目を強く閉じ、指先に意識を集めた。ほんの少し、温かくなった気がした。本当に、ほんの少しだけ。


 大きく息を吸って、恐る恐る目を開ける。だが、増幅石はそのまま。


 青い光も、波紋も、小さな揺らぎさえない。透明な硝子玉がひとつ、教卓の上に置かれているだけだった。


 私は静かに手を下ろした。顔が勝手に伏せられていく。


 教官が口を開いた。古い毛布のように低く、やわらかな声だった。


「……魔力の量は、人によってそれぞれ違います。アリア君にはアリア君の才がありますから、あまり気を落とさなくても大丈夫ですよ。私も魔力はほとんどありませんが、こうして教壇に立っているでしょう」

「はい……」


 小さく答えて、席へ戻った。


 後ろのざわめきは、まだ続いていた。けれどその音は、耳に届く前に細かく砕けて、頬のあたりをかすめる埃のように散っていった。


「さあ、皆さん静かに。次はエルヴァン君、やってみましょう」

「はい」


 その声を聞いた瞬間、指先が固まった。心臓の音が速くなる。


 エルヴァンは教卓の方へ歩きながら、私の方をかすめ見る。そして、ごく小さく笑った。


 以前なら、その笑みひとつで一日中胸が浮き立っていたはずだった。


 今は、手が震えた。私は両手を制服のスカートの間へ深く押し込み、布を強く握った。頬が引きつるのを感じながら、口元だけを少し持ち上げた。


 その時、後ろから何かが飛んできて、私の頭に軽く当たった。


 小さな笑い声が、後ろの女子生徒たちの間から漏れた。


 振り返ると、床に丸めた紙が落ちていた。私はそれを拾い、指の中でもう一度、強く握りつぶした。それから何も言わず、鞄の奥へ押し込んだ。


「では、始めます」


 エルヴァンが増幅石の上に手を置いた。瞬間、球の内側で波紋が揺れ始める。


 最初は穏やかなさざ波だった。だがすぐに、真冬の湖を閉じ込めたような透明な青い光が内側から立ち上がった。波は少しずつ大きくなり、やがて小さな雷の嵐となって渦巻き始める。


 教室の中が静まり返った。さっきまで笑っていた子たちも、口を閉じていた。


「これは……」


 教官が眼鏡をかけ直した。


「見事ですね。普段から魔力量に優れていることは知っていましたが、増幅石を通して見ると想像以上です。上級部(アデル・クラス)へ進んだあとの成長が楽しみですね」


 教官が拍手をした。


 少し遅れて、他の生徒たちもそれに続く。とくにすぐ後ろから聞こえる拍手は、ひときわ大きかった。


 エルヴァンは穏やかに微笑み、やわらかく頭を下げた。


「いいえ。ここにいる同期は、皆すぐれた者ばかりです。これからも慢心せず、精進してまいります」


 その言葉に、手の中のスカートがさらに深く潰れた。


 皆。その一語だけが、いつまでも耳の奥を回っていた。



***



 長い授業が終わり、私は寮へ戻った。


 日はすでに傾いていた。窓の隙間から差し込む夕日の中で、埃がゆっくり漂っている。


 私は衣装棚を一度見た。けれどすぐに、制服のまま机の前へ向かった。


 鞄からノートを取り出した。まだ一ページ目しか使っていなかったそのノートには、スライムの残骸が貼りついていた。


 粘ついた半透明の塊が、紙と表紙にべったりと絡みついていた。顔を近づける前から、腐った牛乳に似た酸っぱく生臭い匂いが鼻の奥に刺さった。


 私はしばらくノートを見つめた。それから、一ページ目だけを慎重に破り取る。


 残りのノートはそのまま丸め、鞄の中に溜まっていたいくつもの紙くずと一緒に、屑籠(くずかご)へ落とした。


 机の引き出しから新しいノートを取り出し、ペンを持って、最初のページにゆっくりと書き始めた。


『グランデル公爵家:王国西部の大半を治める騎士の家系。王家に次ぐ影響力を持つ大貴族。次男、エルヴァン・グランデル:特技――剣術、魔法術、学問。弱点――不明』


 私はしばらくペンを止め、それから下にまた書いた。


『私が持っている情報:彼はなぜか私の目を欲しがっている。一か月後の野外授業で、私を呼び出す。協力者候補:フレイヤ』


 ペンで鼻筋を軽く掻いたあと、フレイヤの名の横に一語を書き足した。


 ――お姉様。


 数秒見つめてから、その上に長い線を引いた。私はそのまま、しばらく動けなかった。





 窓の外がすっかり暮れ色に沈む頃、私はペンを置き、両手で顔を包んだまま天井を仰いだ。


 指の隙間から、脚を失った蟻が身体を引きずり、天井を這っていくのが見えた。次の瞬間、巨大な蜘蛛の群れが天井を覆った。蟻の身体が、ばらばらに裂かれていく。


 その時。頭の中で声が響き、目の前の幻は空気にほどけて消えた。


『んん……アリア。こんばんは』


 クロノアだった。


 私はただ、ゆっくりと瞬きをした。しばらくして、口を開く。


「クロノア様。ひとつ、質問してもいいですか?」

『もちろん。何でも聞いて』

「結局、私はクロノア様の力を使えるんですか?」

『んー……無理かな』


 短い沈黙のあと、彼女は言葉を続けた。


『わたしは君。君はわたし。君の力が封じられているなら、わたしの力も封じられているのと同じ。そもそも精霊には、魔力がほとんどない。わたしたちは契約した相手の魔力を媒介にして権能を使うから』


 私はゆっくりと顔を伏せた。机に頬をつけると、口の中だけで「……死にたい」と呟いた。


 しばらく沈黙が落ちた。


 少しして、また声が聞こえた。


『君が望んでいるものとは、少し違うかもしれないけど……ひとつだけ、できることはあるよ』

「何ですか……」


 今度は、すぐに返事が来なかった。


 私は机に頬をつけたまま、目だけを瞬かせる。その時、指先に違和感があった。


 いや、指先だけではない。腕が。肩が。背中が。身体の輪郭が、内側から少しずつほどけていく。


 私は顔を上げようとした。だがその前に、視界が急に低くなった。


 制服の袖が、目の前で山のように膨れ上がる。白いブラウスの布が頭上から崩れ落ちる。視界いっぱいに広がった布が、一気に降ってきた。


「んっ……!」


 私は幾重(いくえ)にも重なった布の中でもがいた。手を伸ばそうとするが、そこにあるはずの手がなかった。代わりに、両脇を淡く透き通った空色の羽がかすめた。


 背中に力を入れた覚えもないのに、薄い翼がばたつき、布を叩く。


(ていうか、青……?)


 そんな疑問が一瞬だけ頭をかすめた。だが、頭上の布がさらに沈み込んできて、思考はそこで途切れた。


 私は全身に力を込め、身体をよじって、目の前の布を押しのけた。


 どうにか巨大な布の山から抜け出すと、部屋のすべてが遠く、高くなっていた。


 机の脚は、見上げるほど太い柱だった。椅子の座面は頭上に張り出し、その下に濃い影を落としている。ついさっきまで身を預けていた寝台は、布の斜面を広げた大きな丘に変わっていた。


「部屋が……大きく……?」


 声を出そうとした。けれど口からこぼれたのは、か細い鳴き声だけ。


 私はすぐに車椅子を動かそうとして、腕を伸ばした。


 また、翼が広がる。その瞬間、下の方から知らない感覚が伝わってきた。


 床の硬さ。板の継ぎ目。冷たさ。


 何か細いものが、そこに触れている。


 私は固まったまま、ゆっくりと下を見た。細い桃色の二本の脚。小さな(あしゆび)。床板に食い込む、白い爪。


「……え?」


 私はその足を、しばらく見つめていた。


 それから遅れて、今の自分が、ひどく小さな青い鳥になっているのだと分かった。

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