3話「残響」
「おい! おい、アリア!」
耳を刺す声があった。低く、それでいてやわらかな女の人の声だった。
私は息を呑み、目を開けた。
最初に見えたのは、机だった。艶のある濃い茶色の木の上には、教科書と筆記具がきちんと並べられている。羽根ペンは小さなガラス瓶の横にまっすぐ置かれ、インク壺のまわりにも染みひとつなかった。
目の前には、一冊のノートが開かれていた。
文字は行ごとにまっすぐ揃っている。魔導基礎理論、礼法学、王国史。科目ごとに色を変えた印までついていた。
間違いなく、私が毎日向かっていた机とノートだ。
私はじっと、自分の手を見下ろした。真っ白な両手。右手も、左手もある。指も、すべて揃っていた。
けれど次の瞬間、指先が黒く染まり始めた。肌が墨を含んだ紙みたいに滲み、端からゆっくり崩れていく。溶けた肉が、今にも机の上へ落ちそうだった。
息が止まった。心臓が肋骨の内側を狂ったように叩く。喉が狭まり、指先から身体の奥まで凍りついていった。
「アリア! 何してるの? 大丈夫?」
もう一度、背後から声が聞こえた。その声が耳に届いた瞬間、手は元どおりになっていた。
「え……え?」
私はゆっくりと振り返った。
そこには、白に近い金髪を短く切りそろえた少女が立っていた。青い瞳は鋭く吊り上がり、頬には、刃物でかすめたような薄い傷跡が残っている。
半袖の制服ブラウスから覗く腕は白く細く見えたが、手首から肘まで伸びる線は、しっかりと引き締まっていた。
私の学校で、ただ一人の友達。王都の北東、海に面した広大な領地を治めるソルベルグ伯爵家の長女。
フレイヤ・ソルベルグ。
彼女は私の前まで来ると、両手で私の頬を軽く引っ張った。
「え? ええ? 本当にどうしたの? いつも勉強ばっかりするから、とうとう頭がおかしくなった?」
するとすぐ、フレイヤの顔から笑みが消えた。彼女は私の頬から手を離し、指先でそっと目の下をなぞる。
「アリア……本当に大丈夫?」
「え……あれ?」
熱い雫がひとつ、頬を伝って落ちた。私は手の甲で頬を拭った。息を一度吸い込み、ゆっくりと彼女を見上げる。
「ごめん、フレイヤ。急に……嫌な記憶を思い出して」
声が少し震えた。私は唇を一度噛み、言葉を続ける。
「今日は、何日?」
「日付……?」
フレイヤが瞬いた。
「さっきまで、来週の開花の茶会の話をしてたじゃない。お母様に会いたくないって、ずっと文句を言ってたくせに」
「茶会……」
私は口を閉じ、机の上の曆を見た。
星王曆333年・春を示す月、白樺月。その七日の欄には、「開花の茶会」という文字が書かれていた。そのまわりには、私の字で落書きがびっしりと埋まっている。
『死ね。死ね。死ね』
小さな文字が、紙の上を覆い尽くしていた。
私はその隣へ視線を移した。
白樺月一日。進級式。
野外授業があった日から、ちょうど一か月前だった。
次に、机の上の魔導時計を見る。青い水晶板の中で、小さな光の針がゆっくりと動いていた。
午前七時三十分。登校まで、あと三十分。
私がぼんやり時計だけを見つめていると、フレイヤが隣へ寄ってきた。彼女は腰をかがめ、私の手の上に自分の手をそっと重ねる。
「茶会のことで不安なの? 心配しないで。お母様が来るのがそんなに嫌なら、私がアリアは具合が悪いって言ってあげる。来週は寮で休んでなよ」
私は彼女の手を軽く握り、横へどかした。
「ううん……大丈夫。行かなかったら、休みに家へ帰った時、余計に面倒なことになるから」
「アリア」
「大丈夫……本当に。ただ、急に昔のことを思い出しただけ。だから、心配しないで」
フレイヤの眉がぴくりと動いた。
「なに、またダリウスのクソ野郎に何かされたの? もう一回でもやったら、私が本気でぶっ飛ばして――」
「違う! そういうのじゃないから。本当に、気にしなくて大丈夫」
私は無理に口元を上げて答えた。そんな私を、フレイヤは数秒じっと見つめていた。
やがて唇を少し尖らせ、大きく息を吐く。彼女が口を開きかけたところで、私は机の上のノートを片づけ始めた。
「そろそろ登校の時間でしょう。今日は先に行ってて。私は少し準備することがあるから、あとで行く」
「椅子、押してあげなくていいの?」
「魔力で動くから。それに、それってただフレイヤが面白がって押してるだけでしょ」
「うっ……」
彼女は眉を少し寄せ、後頭部をかいた。それから寮室の入口へ向かって歩いていく。
扉を開ける前に、彼女はもう一度こちらを振り返った。
「とにかく、無理しないでよ、アリア。何かあったら、すぐ私に言って」
「うん。いつもありがとう、フレイヤ」
私は魔導車椅子に座ったまま、目元をゆるめて手を振った。
扉が閉まった。足音が遠ざかっていく。
部屋に一人きりになると、私はゆっくりと車椅子を動かし、衣装棚の前へ向かった。
扉を開けると、中には制服と外出着が整然と掛けられていた。白いブラウスには色褪せを防ぐための布がかけられ、季節用のマントは丈ごとに分けられている。一番奥には、ほとんど着ることのないドレスが数着、薄い香り袋と一緒に吊るされていた。
整理された衣服のあいだから、乾いたラベンダーの香りがかすかに漂った。
私は衣装棚の扉の内側についた鏡を見た。
鏡の中に、私がいた。
腰の下まで届く真っ白な髪。毛先には、ごく淡い波の名残が残っている。前髪はきちんと横へ流され、額がすっきりと見えていた。
そして青い瞳の中には、私たちの家系――翼を持つ冠翼族に特有の、上下に長く裂けた瞳孔があった。両頬には、藍色の雫の形をした斑点がうっすらと浮かんでいる。
私は右目に手を伸ばした。瞼をなぞり、目元を押す。指先で押した分だけ眼球が沈み、すぐにわずかな重みをともなって戻ってきた。
ゆっくりと手を下ろす。
手首。手のひら。指。
ひとつひとつ触れるたび、肌の下の温かさと脈が感じられた。指を曲げると、関節がちゃんと動いた。爪の先をこすると、小さなくすぐったさまで返ってくる。
私はしばらく、その感覚を確かめ続けた。それから、制服ブラウスのボタンをひとつずつ外していく。
真っ白な上半身が鏡に映った。背中に力を入れると、肩甲骨の下から小さな翼が開いた。私の前腕ほどの長さしかない、白い二枚の翼。羽根の先がかすかに震える。
「夢……だったの……?」
私はそう呟いた。
それから登校時間がすぐそこまで迫るまで、しばらく鏡の中の自分だけを見つめていた。
***
進級式は、何ひとつ変わらずに始まった。
霜嶺王国の王都、霜灯都に建てられた王立魔導学院。
王国の貴族の子弟と、一部の特別な才能を認められた子どもだけが通うことを許される学校。そのうち基礎部は、十歳から十五歳までの学生が所属する課程だった。
基礎部では、毎年制服の色が変わる。
新しい学年を迎える学生たちは大講堂に集まり、自分の階梯に応じたベストと肩章、スカートを授けられる。担当教官は、王国の守護紋――咆哮する狼の紋様が刻まれた杖を手に学生の名を呼び、学生たちは一人ずつ前へ進み出て、新しい色を受け取った。
私が今日受け取ったのは、基礎部最後の課程、終階の象徴である紺色のスカートだった。
大講堂の高い窓からは、初春の光が差し込んでいた。銀色のシャンデリアの下では学生たちの囁きが低く広がり、教官たちは新学年の義務と礼法、魔導実習時の注意事項を手短に告げていく。
王家への忠誠の誓い。守護精霊へ捧げる黙礼。新学年代表の短い挨拶。
すべての手順は、決められた順番どおりに進んでいった。
私はその中で、何度も右手を見下ろした。何も起こらなかった。目も、腕も、すべて元のままだった。
そして今。私は再び、寮の自室にいた。
机も衣装棚も、魔導車椅子から手の届く位置に収まり、寝台は部屋の隅にひとつだけ置かれていた。
車椅子を動かし、窓辺へ近づく。窓を開けると、夕方の風が部屋の中へやわらかく流れ込んできた。
日はもう西へ傾いていた。空の端は淡い金色から桃色へ滲み、その下には紫の影がゆっくり降りている。初春の風は昼間より少し冷たかった。窓辺に置いた乾いた花びらが、わずかに揺れた。
私は少しのあいだ目を閉じた。
再び目を開けた時、世界はもう一段深い闇に沈んでいた。
王都のあちこちにある街灯へ光が灯り始める。
霜灯都の象徴である、高価な青い珠を備えた街灯――霜灯。その内側に咲いた白い光が、寮の下に見える整った街並みを照らし始めた。
石畳の道。赤い屋根の店。アーチ型の窓が並ぶ屋敷。
私はしばらく街の通りを眺め、それからゆっくりと窓を閉めた。
そして、ベッドの方へ戻る。車椅子から身体を移し、倒れ込むようにベッドへ身を投げた。
やわらかなマットレスが身体を受け止める。上質な布で織られた掛け布は冷たくもなく、重すぎることもなかった。指先に触れる感触はなめらかで、枕からはかすかな石鹸の香りがした。
私は両手で顔を覆った。
「やっぱり……夢なんだ。エルヴァン様が、あんなことするはず……」
指のあいだから、短く息を吐く。
その時だった。
『あ……あ。聞こえる……?』
どこからか、声が聞こえた。宝石よりも澄んだ、高い声。耳ではなく、頭の内側で、透明な雫が落ちる音が広がっていく。
私はすぐに身体を起こした。背筋を冷たい汗が一筋、伝い落ちる。
「誰……?」
私は掛け布を引き寄せ、身体に巻きつけた。
部屋の中を見回す。机の下。衣装棚の横。カーテンの裏。扉のそば。
誰もいない。部屋の扉も閉まっていた。
『よかった~ 聞こえてるみたいだね』
また、声が聞こえた。
私は息を呑み、掛け布をさらに強く握りしめる。
「だ、誰か……いるんですか?」
『ごめんね。すごく驚かせちゃったよね? でも、部屋の中を探しても何もないよ。わたしは、あなたの中から聞こえている声だから』
その声は、とても近かった。
私は答える代わりに右手を上げ、自分の頬へ向けた。両目をぎゅっと閉じ、力いっぱい振り下ろそうとした、その瞬間。
『えっ、ちょ、ちょっと待って!』
その言葉と同時に、右手が宙で止まった。
その瞬間、ふいに頭の奥へ、ひとつの記憶がよみがえった。
悪夢の中で、黒い雪に溶け消える直前に聞いた、あの声。今聞こえた幼い少女の声が、その記憶の奥で静かに重なった。




