2話「暁」
「うう……っ……」
頭の中で、耳鳴りが長く広がっていた。細い針で耳の奥を刺される音が、どこまでも膨らみ、頭の中を埋め尽くしていく。
目の前は、深い闇に沈んでいた。何ひとつ、形を見分けることができない。
私は左手で床を探り、そこに手をついた。指先に触れたのは、凍りついた煉瓦だった。ざらついた硬い表面に、薄い霜が張っている。少し指を動かしただけで、皮膚が煉瓦に貼りつきそうになった。
床を伝って這い上がってきた冷気が、身体の内側まで入り込んだ。
右目も、右手も、痛むはずだった。けれど、裂けた場所も、失った場所も、すべて氷の下に沈んでしまったみたいに、感覚が遠かった。
「ここは……」
私は床に手をつき、どうにか腰を起こした。
その瞬間。
「うぷっ……」
腹の底から、熱いものが込み上げた。空っぽの胃からせり上がってきた胃液が、食道を鋭く焼きながら、口の外へこぼれる。
私は何度も空咳をして、震える手の甲で口元を拭った。
少しずつ、目が闇に慣れていく。周囲の輪郭が、ぼんやりと視界に浮かび始めた。
そこは、くすんだ煉瓦に囲まれた小さな部屋だった。天井は低く、壁も濡れたように黒ずんでいる。部屋の向こう側には、扉がひとつあった。閉まりきっていない隙間から、細い光が差し込んでいる。
私はその光へ向かって、右腕と左の肘で身体を引きずった。少し進むたびに、掌と肘が煉瓦に擦れる。遅れて鋭い痛みが広がったが、それさえも冷気に押さえつけられ、すぐにぼやけていった。
扉までたどり着くと、私は身体ごと押しつけて、どうにかそれを開けた。
どん、と扉が押し開かれた瞬間。
風が襲いかかってきた。
それはもう風というより、無数の氷片を一度に浴びせる壁だった。息を吸う前に、肺が内側から凍りつく。鼻先には、舌に金属を押し当てた時の匂いが流れ込んできた。
片腕で風を遮りながら、ゆっくりと腰を起こす。残った片目で、前を見た。
そこには、果てしない野原が広がっていた。
いや――野原と呼ぶには、あまりにも黒かった。地平線の向こうに低く沈む夕暮れの光さえ、その上には影ひとつ落とせていない。目の前に広がっていたのは、漆黒の粘土でできた深海だった。光を呑み、色を呑み、息遣いさえ呑み込んでいく、黒い平原。
私は顔を動かし、背後を見た。
煉瓦で築かれた巨大な城砦が、左右へ伸びていた。果ては見えない。だが、それはまともな城砦の姿ではなかった。
城壁のあちこちが、溶けて流れ落ちている。煉瓦は火に焼かれたように真っ黒に染まり、場所によっては蝋のように固まりながら、下へだらりと垂れていた。
人の気配はなかった。夜番も、馬車も、兵士の足音もない。
「……北進城砦?」
その名は、風景図鑑で見たことがあった。
霜嶺王国の北の果て。巨大な雪原を貫いて築かれた煉瓦の城砦。世界の北、凍りついた地にある小さなエルテル王国と、私たちの霜嶺王国を結ぶ唯一の交易路。
私は、そう教わっていた。けれどここには、まっすぐ伸びる城砦も、どこまでも続く白い雪原もなかった。
いくつもの疑問が、頭の中をよぎった。けれど、それ以上考えることはできなかった。冷気が、思考まで凍らせていく。
私は両腕を脇に挟み、身体を丸めた。
歯が勝手に鳴った。かちかち、かちかち。その音が、頭蓋の内側まで響いた。
私は身体をねじり、扉の方へ這い戻ろうとした。
その時。
とさり。
溶け崩れた城砦の端に、小さな鳥が一羽、ふらりと降り立った。
氷の下に閉じ込められたような宝石の光が、羽根の奥でかすかに揺れていた。小さな身体は腹を地面に押しつけたまま、動けずにいる。目だけが、とてもゆっくり、細く瞬いた。
私は歯を鳴らしたまま、その鳥のそばへ這っていった。冷えきった手で、そっと鳥を持ち上げる。そして制服のブラウスの内側、胸元に近いところへ、静かに入れた。
ほんのわずかだけれど、小さな温もりが触れた。
私はもう一度、扉の方へ身体を向けた。
その瞬間、世界が闇に沈んだ。どこが地面で、どこが空なのかもわからない。
私は顔を上げた。
ついさっきまで淡い橙色を残していた空は、もう消えていた。代わりに、黒い墨を幾重にも塗り重ねた壁が、頭上を埋め尽くしている。
そして、その空から。
ゴオオオオオオオ――と、世界の輪郭ごと呑み込む振動音が響いた。
続いて、黒い雪片がひとつ、音もなく落ちてきた。闇よりもなお暗い雪だった。
それはゆっくりと、あまりにもゆっくりと降りてきて、私の左手の上に触れた。瞬間、手の甲に黒い結晶が咲いた。
美しく、精巧で、冷たい黒薔薇。それは花弁を開くように、私の手を貫いて沈んでいった。
「え……?」
私は左手を持ち上げた。手のひらの真ん中に、穴が空いていた。その向こうに、自分の制服のスカートが見える。
一度目を閉じ、もう一度開けても、何も変わらなかった。
遅れて、痛みが来た。手から腕へ。腕から肩へ。背中の翼の先まで。裂ける痛みが、背骨を伝って広がっていく。
悲鳴は、一拍遅れて弾けた。
「あ、ああああああっ!!」
黒い薔薇が、また一輪落ちてきた。
さらに、もう一輪。
やがて数十もの花が空から降り、私の身体に貼りつき始めた。
触れた場所から、皮膚が黒く崩れていく。焚き火の上に置かれた雪の塊が端から溶けるように、身体が輪郭から流れ落ちていった。皮膚も、布も、血も、区別のない黒い水になって広がっていく。
私は叫んだ。けれど、ある瞬間から声が出なくなった。顎の下が、ぽっかりと空いていた。
扉へ向かって手を伸ばす。けれど、伸ばした手は途中から溶け落ちた。指が一本ずつほどけ、黒い雫になって床へ落ちる。
最後に残っていた左目の視界も、ゆっくりと暗くなっていった。
音も、寒さも、痛みも遠ざかる。
意識が、空っぽの深海の底へ引きずり下ろされていく。永遠に届かない、さらに下へ。
その時。すべてが消える直前、かすかな声が聞こえた。
遠い昔の時計が、一度だけ、時を逆へ刻む音。
『――時よ、暁へ還れ』




