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1話「初恋」

「ふん、ふふん……」


 目の前には、果てしなく続く初春の野原が広がっていた。


 芽吹いたばかりの若葉をのせた淡い緑の草原は、風が渡るたび、低い波を立てて揺れる。その上を、目を覚ましたばかりの土の匂いと、雨に濡れた新芽の青い匂いが流れてきて、鼻先をくすぐった。瑞々しくて、ほんの少しだけ苦い匂いだった。


 私は小さなキャンバスの脇で、手にしていた色鉛筆を掲げた。野原の果てと、遠く霞んで連なる山並みの長さを目でおおよそ測り、もう一度、手をキャンバスの前へ戻す。


 色鉛筆の先が、しゃり、と布の上をかすめた。


 描き始めてから、もう二、三時間は経っている。それでも瞼は少しも重くならず、手首は止まる気配を見せなかった。線を一本足し、色を少し重ね、また遠くの草原へ目を向ける。


 その時だった。背後の草むらで、かさり、と乾いた葉の潰れる音がした。


「もうすぐ日が沈む、アリア。戻る支度をしろ」


 温度をひとかけらも含まない声だった。


 その声を聞いた瞬間、腕の産毛がいっせいに逆立った。私は一度唾を飲み込み、ゆっくりと顔を上げた。


 彼が立っていた。


 眉を深く隠すほど整えて垂れた黒髪。生気の見えない黒い瞳。白い肌の下に薄く落ちる隈。顔には笑みも、しかめ面も、何の色も浮かんでいない。


 この国の王家の末息子であり、私が通う王立魔導学院・基礎部(グルンド・クラス)の級長。カシアン・ルーンヘルムだった。


 彼は私の顔を見もせず、私の前に立てたキャンバスだけを見下ろしていた。


 私は唇を舌で湿らせ、ゆっくりと口を開いた。声は、少し遅れて出た。


「カ……カシアン様。あの……申し訳ありません。もう少しだけ描いたら、すぐに戻ります」

「そうか。野外授業の終了時刻には間に合わせろ」

「は、はい。間に合うように戻ります」


 そう答えたあとも、私はしばらく動けなかった。色鉛筆を握った手を宙に止めたまま、彼の足音が完全に遠ざかるまで、その場で固まっていた。


「はあ……心臓、止まるかと思った……」


 遅れて抜けた息が、唇の間からこぼれた。けれどすぐ、口元がまた少しずつ持ち上がる。


 私はキャンバスの端に小さな人影を描き足した。ネイビーのベストを着た、金色の髪の人。線を一本置くたびに息を止め、色を重ねるたび、指先に力がこもった。


 それから、そっとポケットから魔導時計を取り出し、時刻を確かめる。


 十六時。


 約束の時間が、もうすぐそこまで迫っていた。


 私は再びキャンバスの前に身を傾け、忙しく手を動かし始めた。



***



 先ほどまでいた野原から、さほど離れていない森。まっすぐ上へ伸びた暗い針葉樹が、空に厚い幕を張っていた。枝と枝の絡む隙間からは、日差しがほとんど落ちてこない。濃い影だけが、風に合わせてゆるやかに揺れていた。


 その中央、ほかの木々より倍は太く、古びた大樹の下で、私は魔導車椅子(エーテル・シェーズ)を止めた。腕の中には、完成したばかりの絵を抱え、キャンバスの縁を指先でそっと押さえていた。


 キャンバス越しに、胸の鼓動が手のひらまで伝わってきた。喉の奥では乾いた唾ばかりが落ち、動くはずのない爪先まで、落ち着かずに震えている気がした。


 どれくらい待っただろう。木立の影の向こうから、一人の少年が姿を現した。


 乱れてはいないのに、目元へそっとかかる、熟れた稲穂の金色の髪。空の陽を宿した、丸く艶のある瞳。身につけたシャツとネイビーの制服ベストは、暗い森の中でも不思議なほど鮮やかに見えた。


 由緒ある騎士団の家系、グランデル公爵家(こうしゃくけ)の次男。エルヴァン・グランデル。


 彼は私の方へ歩み寄り、にこりと笑って、右手を軽く振った。


「アリア嬢。ここまで来るのも大変だっただろうに、来てくれてありがとう」

「いえ! こちらこそ……ありがとうございます」

「ん? 僕は何もしていないよ。どうして君がお礼を言うんだい?」


 私は両手をぎゅっと握りしめた。そして、そっと目を閉じる。入学してからのいろいろな出来事が、閉じた瞼の裏にひとつずつ浮かんできた。


「その……普段から親切にしてくださって。私は人間でもありませんし、歩くこともできないのに……」


 私は片手を背中へ回し、服越しに翼の付け根へ触れた。二枚の翼は、布の下で小さく折り畳まれている。


「ああ、またその話か」


 エルヴァン様は明るく笑った。


「君が人間かどうかなんて、僕には大したことじゃないよ。大事なのは、その人の中に何があるかだろう? 歩けないことを笑う連中なんて、二本の足しか誇れないだけさ。気にしなくていい」


 私は思わず、仕上げに描いた人影へ目を落とした。キャンバスの端に、小さな金色の髪があった。


「あはは……そんなふうに言ってくださるのは、エルヴァン様だけです……」


 彼が一歩近づくたびに、心臓の音が少しずつ大きくなっていった。腹の奥が熱くなり、ぐにゃりと嫌な波を打つ。


 やがて彼が私の前に立った時。私は下唇を強く噛み、腕の中のキャンバスをそっと差し出した。


「これは……?」

「エルヴァン様に差し上げたくて、描いてみました! ご迷惑でなければ……受け取っていただけたら……」


 そこで、語尾が細く途切れた。キャンバスの縁を握る指先は、爪の先まで青白くなっていた。


 次の瞬間、エルヴァン様がゆっくりと私の絵を受け取った。彼の指が、ほんの一瞬だけ私の指に重なる。温かかった。


「……美しい。本当に」


 彼は絵を見下ろしたまま言った。


「だからこそ、もったいない」


 その言葉の意味がわからず、顔を上げようとした、その時だった。


「え……?」


 針葉樹が横へ傾いた。体が車椅子から滑り落ちる。


 肩に鈍い衝撃が走り、続いて頭が地面にぶつかった。頭蓋の内側で何かが大きく揺れ、鋭い耳鳴りが耳を刺す。呼吸が浅くなり、両手ががくがくと震え始めた。


 滲む視界の中で、エルヴァン様が私の前に膝をついた。彼は散らばった私の白い髪を、指先でゆっくりと払う。


 彼の瞳は相変わらず丸く、賢そうだった。ただ口元だけが、わずかに下がっていた。


「ごめんよ、アリア嬢。大義のためなんだ。こうするしかなかった」

「エルヴァン様……? これは、いったい……」


 言い終えるより早かった。


「きゃっ……! 」


 背後から誰かが私の髪をつかみ、上へ引き上げた。頭皮ごと剝がされる痛みが、頭のてっぺんからうなじへ広がる。髪の一本一本が、肉に食い込んだ鉤になって引き絞られた。


 私は反射的に両目を強く閉じた。けれど、無駄だった。


 荒い指が、私の右の瞼を無理やりこじ開けた。目の前に、黒い外套(マント)をまとった人物が立っている。フードの陰に隠れた顔は見えない。


 その手には、薄い刃物が握られていた。切っ先が、私の右目へゆっくり近づいてくる。


「待って……待ってください! やめて! お願い、やめて!!」


 私は全身に力を込めて身をよじった。しかし、両腕は背後から押さえつけられていた。


 脚が動くはずもなく、服の下で翼を広げようとしても、布に締めつけられて付け根がずきりと痛むだけだった。


 冷たい金属が、目元に触れた。その瞬間、世界が白く弾けた。


「いやあああああっ!!」


 自分の喉から、聞き覚えのない悲鳴が裂けて出た。


 音も、光も、痛みも、いっせいに押し寄せる。右の視界が黒く染まり、目の奥から熱いものを引き抜かれる感覚が、頭の深いところまで続いた。耳のそばで、濡れた布を裂く音がした。


 しばらくして、背後から私を押さえつけていた力が消えた。体が前へ倒れ込む。


 私は片手で右目を押さえた。手のひらの内側に、熱くぬめったものが次々と流れ落ちる。


 残った左目をどうにか開き、顔を上げた。前には、エルヴァン様と黒い外套をまとった者が二人、立っていた。


 私はエルヴァン様に向かって手を伸ばした。


「エルヴァン様……助け……助けて……」


 彼は何も答えなかった。代わりに、彼の隣にいた黒衣の男が剣を抜いた。フードの影の奥で、私を見下ろす目が冷たく光る。


 ()()


 その瞬間、指先にあった感覚が消えた。さっきまで伸ばしていた私の手は、もう見えなかった。代わりに、手首の先から鮮やかな赤が噴き上がる。


 私は切られた手首を胸元に抱き込んだ。


 口は裂けるほど開いているのに、声が出なかった。頭の中が、真っ白なキャンバスになっていく。頬を撫でる風は、いつの間にか真冬の冷気を帯びていた。全身が細かく震える。


 遠くで声が聞こえた。


「殺せとは言っていないよ」

「申し訳ございません」

「はあ……こんなに血を流されたら、あとが大変じゃないか。……まあ、いいけれど」


 足音が近づいてきた。


 こつ、こつ、こつ。


 エルヴァン様は血に濡れた草を踏み、私の前まで来た。赤く染まった野花が彼の靴の下で潰れ、その通り道に彼岸花(ひがんばな)が新たに咲きひらいた。


 彼は私の前にしゃがみ込んだ。声はまだ、春の日差しの温度を失っていなかった。


「ごめんよ、アリア嬢。あまり僕を恨まないでおくれ。あの()()()から国を救うためには、こうするしかなかったんだ」


 国のため。黒い雪。


 その言葉は私の中へ入ってこず、遠くでぼんやりと漂うだけだった。


「ふむ……魔力もない、半端な体の君には、何も知らされていなかったのか。それでも、同じ血を引いているはずなのに。オルネン伯爵家(はくしゃくけ)も、ずいぶん残酷なものだ」


 彼は深く息を吐き、言葉を続けた。


「まあ、最後の贈り物だよ。自分の目で確かめておいで。そうすれば、()く道も少しは寂しくないだろう?」


 その言葉を最後に、私の体の周囲へ青い光が滲み始めた。


 地面も、森も、エルヴァン様の顔も、ゆっくりと歪んでいく。残った片目の視界がぐるぐると回った。意識が、視界の向こうへ長く引きずられていく。


 最後に見えたのは、血に濡れた草の上に落ちた、私の絵だった。

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