39話「献身」
どれくらい経ったろう。
ゆっくりと目を開けた。相変わらず体じゅうが強張っていたが、死んだも同然に重かった腕に、少しは感覚が戻っていた。
ただ、喉が問題だ。ざらついて乾き、ひび割れた喉は、唾を飲み込むたびに、裂ける痛みだけを返してくる。
私は腰を起こして、カシアン様を見つめた。
横向きに倒れ込んだまま、眠っている。
枕にしていた彼の外套を手に取り、その傍らへ近づいた。
彼の体に掛けてやろうとした瞬間、外套の内側で、灯りがきらめくのが見えた。手を入れて取り出すと、通信石が光っていた。
続いて、ほとんど叫ぶような声が聞こえてきた。
『カシアン様! カシアン様!』
セドリックだった。雨音が、あちこち入り混じって聞こえる。
「セドリック様……?」
『アリア! やっとつながった! そちらの状況はどうですか? まる一日つながらなくて、どれだけ心配したか』
カシアン様を見下ろしながら答えた。
「一日……? もう、そんなに経ったんですか……?」
『はい! それより、カシアン様に代わっていただけますか?』
「はい、少しお待ちください」
彼の肩に、そっと手を置いた。そして、はっと手を離した。
手のひらを焼くほどの熱。
「カシアン……様?」
もう一度その肩を掴んで、体を仰向けにした瞬間、両手で自分の口をふさいだ。口の端には血の跡が残り、前髪は冷や汗に濡れて乱れている。
「カシアン様、カシアン様!」
肩を揺すってみたが、何の反応もない。
通信石から、また声が流れてきた。
『アリア! 大丈夫ですか?』
「カ……カシアン様が、ひどく容態が悪くて……」
声が、震えてくる。
『容態? 具体的に、どんな感じですか!』
「えっと、その……口から血を……」
『よく聞こえません! もう少し大きく言ってください!』
通信石をいったん下ろして、目を閉じた。そして、両手で頬を、強く一度叩いた。
もう一度通信石を手に取り、はっきりと言葉を継いだ。
「容態が、ひどく悪いです。口から血を流していて、熱がひどいです」
『口から血を流している、ですって!?』
「はい!」
しばらく、彼の声が遠のいた。誰かとぼそぼそ話す声が過ぎたあと、また話しかけてきた。
『分かりました! 雨がひどくて、かなり遅れてはいるんですが……みんなで力を合わせて入り口を開けていますから、もう少しだけ持ちこたえてください! 何かあれば、すぐにまた連絡を!』
「分かりました。急いでください……!」
通信石の灯りが消える前、私はもう一度、話しかけた。
「あの、セドリック様! 今、時間はどのくらいでしょうか?」
『時間ですか? はっきりとは分かりませんが、そろそろ日が沈むころです』
「分かりました、ありがとうございます」
やがて、通信石の灯りが消えた。
すぐに、通信石をよく見える床の片隅に置いた。
そして外套を丸めて彼の肩の下に敷き、体を横へ傾けた。血が喉へ流れ込んで、気道をふさがないように。
それから、彼の体を探りはじめた。脚から腹部、腕まで。大きな外傷はなかった。目を近づけて見ても、痣ひとつない。
「けほっ……けほっ……」
彼が咳をすると、赤いものが口の端からこぼれる。
手先がおぼつかなくなる。深く息を吸って、吐いた。
(落ち着いて……)
自分に言い聞かせると、掛け布代わりにしていた彼のシャツで、口の端の血を拭った。出血が多く、白いシャツはたちまち、べっとりと赤く染まった。
外傷はない。なのに、喀血に高熱。打撲による内出血なら痣が残るはずなのに、それもない。
彼の手首の筋に手を当てて、脈をとった。速く、浅かった。
続いて彼の黒い肌着を脱がせ、ベルトを外して、体を締めつけるものをすべて解き放った。
それから、スカートの裾を手で引っぱって、破り取った。もう、スカートというより、ただの短い布を脚に掛けただけの格好になった。
その布をきれいに畳んで、彼の体と顔の汗を拭った。全身が汗にまみれているのに、唇の周りだけは、かさかさに乾いている。
「水……水が要る」
そう言って、瓦礫で塞がった両側の壁を探った。ふと、一か所から、ぽた……ぽた、と水滴の落ちる音がした。
そちらへ向かって壁を探ると、小さな隙間が一つ見つかった。小さな鳥が一羽、やっと通れるほどの隙間。
胸の内で、クロノアを呼んだ。
「クロノア様? そろそろ、起きましたか?」
何の返事もなかった。
日がちょうど沈みはじめたころ。精霊が活動する時間には、まだ少し早いけれど――鳥に姿を変えるには、充分な頃合いだった。
カシアン様を一度振り返り、今度はドレスを脱いで裂いた。小さくくるくると丸めて結び、布でできた小さな玉を作った。
目を閉じる。意識を鳥の感覚に集める。体が軽くなり、脚の感覚が、翼の感覚へと変わっていく。
すぐに、いま作った布の玉を口にくわえ、壁の小さな穴へ身を投げた。
抜け出ると、中央坑は、すっかり瓦礫と化していた。天井はあちこち崩れ落ち、折れた柱と土くれが、うずたかく積み上がっている。
水音のするほうへ近づくと、天井の小さな隙間から、雨水がだらだらと流れ落ちている。
壁を伝う水の筋に、くわえた布切れをたっぷり浸して、またカシアン様のいるところへ戻った。
人の姿に戻って、水を含んだ小さな布を彼の口元へ持っていき、絞った。水が、三、四滴落ちた。
間を置かず鳥になって、飛び立つ。布の玉をくわえて、水のあるところへ。
何度も、何度も。
数十回往復して、また飛び立とうとした瞬間、頭がくらりと回って、いくらもしないうちに倒れ込んだ。
立ち上がろうとしたが、翼が痺れて、引きつってきた。翼の代わりに足を地面に踏ん張り、前へ、前へ、水のあるほうへ這っていった、その矢先――
「けほっ、けほっ」
また、咳の音が聞こえてくる。
すぐに人へ戻って、カシアン様の傍らへ行った。
どす黒い血が、次から次へとあふれ出る。脱いだドレスで口を拭い続けても、止まらない。
「どうして……? どうして……! 内傷もないのに、どうして!」
そのときだった。半ば眠ったような声が聞こえてきた。
『アリア……大丈夫……?』
「クロノア様……!」
唇が、わなわなと震えてきた。
「カシアン様が……カシアン様が……」
『落ち着いて、アリア。ちょっと、彼の体に手を置いてみてくれる?』
手を、彼の胸に置いた。硬い筋肉でわずかに盛り上がった胸が、呼吸に合わせて、荒く上下している。
クロノアが言葉を継いだ。
『これは……位相の一部が溶けて、絡まってる。長くは持たない。かなり、まずい』
「位相……? どうして急に――」
同時に、魔物を殺し、頭から噴き出した黒い血を浴びたカシアン様の姿がよぎる。そして、前にクロノアが言っていた言葉――魔物は位相喰いの影響かもしれない、と。
手を離して、自分の手のひらに目を落とした。そして、また、彼の胸に置いた。
目を閉じた。
『黒魔術を……使うつもり?』
「はい。位相が傷ついているなら、位相を注げば、ある程度は効くはずです」
『でも……大丈夫なの? 羽織るものもないし……異端の刻印が、全身に広がるよ』
目を開けて、カシアン様の顔を見る。
私の体を見て、顔をしかめて背を向けるカシアン様。そして私から、忌み嫌う顔で去っていく、みんなの後ろ姿が、幻となって目の前にちらついた。
だが、口の端は私も知らないうちに、わずかに上がっていた。
「……いいんです。お姉様がいる以上、私が彼と、友達以上の何かになれるはずもありませんから」
唇を、強く噛んだ。目から雫がいくつか落ちて、彼の胸に置いた手を濡らした。
「……カシアン様といるとですね。不思議と、笑っている自分を、いつも見つけるんです。それで……充分です」
『アリア……』
「だから、いいんです。私と近くにいたって、どうせ危険に巻き込むだけですから。もう……私のせいで、彼が傷つく姿を、見たくないんです」
片手で目元を拭うと、床に置いた通信石が光り、セドリックの声が流れてくる。
『アリア、カシアン様の容態はどうですか! 雨がひどくて夜も更けて、今日は作業が難しそうなんです。もう少し、持ちこたえられそうですか……? アリア? アリア、聞こえますか?』
その声を背に、目を閉じた。
「クロノア様。今回のことが終わって……お母さんのことも、全部終わったら。私、少し休みたいです。うんと、長く。そのときは……この体を、クロノア様が好きに使ってくださってもいいですよ」
『……何それ』
クロノアの声が、低くなった。
「……なんてね」
私は薄く笑った。
「まずは、これを終わらせましょう」
そして口を開いて、唱えた。
「サエナ・ミル……我が息を、そなたに」
胸の奥深くから何かが、腕を伝い、手を伝って、伸びていく。体から、力がすうっと抜けていく。指先から温もりが、感覚が、一つずつ彼のほうへ流れ込んでいくのが分かる。
胸にあった小さな異端の刻印が、いっそう黒い根となって、体のあちこちへ伸びていく。
ほどなく、彼の荒い呼吸が次第に鎮まりはじめる。火の玉のようだった体の熱も、消えていく。
そのまま、彼の傍らにくずおれた。指一本にも、力が入らない。
あるだけの力を振り絞って手を伸ばし、彼の頬に、そっと触れる。
ざらついた、けれど温かい頬。
視界が、少しずつ霞んでいく。
――おやすみ、そしてさようなら、私の王子様。




