37話「王子様」
魔物が口を開く。不揃いに伸びた数十本の牙、その隙間から、たんぱく質の腐った悪臭が、頭ごと揺さぶってくる。
それがニアのほうへ近づく瞬間、私は光る魔力石を前へ突き上げた。
「おい! ぉ……」
最初は大きく出た声が、すぐに萎む。
魔物の顔が、私を向く。
そのまま魔力石を後ろへ投げようとした瞬間。まばたき一つのあいだに、やつの口が目の前に迫っている。
やつの太い脚に車椅子ごと倒される。鋭い毛が腕を擦り、皮膚がひりつく。
思考が止まった。
どく、どく。
耳のすぐ横で鳴る、心臓の音。
やつの口の中へ世界が沈む、その寸前、ある声が響いた。
『時よ、止まれ――』
すべてが止まる。天井から落ちてくる土の一粒さえ、そのまま宙に。
続いて、クロノアが叫んだ。
『アリア、じっとしてないで! 長くは持たない!』
体の芯から熱がじわりと広がり、指先まで痺れるように火照ってくる。
『魔力石の魔力を吸収したから、早く! 逃げるなり、魔法を使うなりして!』
――魔力。
視線の先で、ニアはうつ伏せに倒れたまま動かない。彼女から私のほうへ、油が一筋つながっている。
魔力石を持った手を持ち上げた。
光がほとばしり、腕の血管が生々しく透けて見える。心臓が打つたび、血の筋がうねった。
魔力石を力いっぱい握りしめ、胸の内で、ルーン文字を唱えた。
氷……截つ……線……。
『もう限界!』
クロノアの声とほぼ同時に、私は小さく叫んだ。
「――氷截線」
蜘蛛の口へ――闇の中でいっそう明るく輝く線が一本、伸びていく。線の周りで、粒子が凍りつきながら光る。
魔物の悲鳴とともに、世界がふたたび動きだす。
次の瞬間、目の前の線が消え、空間が裂ける。あたりのすべてが凍りつき、数十輪の氷の薔薇が咲いた。
吐く息が、白く漏れ出る。
魔力石の光が、じわじわと薄れていく。
「は、はは……」
力なく笑って、色褪せた魔力石を懐に入れ、地を這った。
不思議と、手は震えず、頭の中は冷たく静まっていた。
ニアのほうへ行って、彼女を引っぱった。
「ニア……早く、逃げなきゃ……!」
外套越しにも分かるほど、熱を持った体。重くて、なかなか引きずれない。代わりに、彼女のポケットから通信石を取り出した。
通信石を叩く。何の反応もなかった。
「あれ? こんなはずじゃ……」
もう一度叩いてみる。今度も無反応。そもそも、自分が叩いているのかすら、感じられない。
ふと、ニアが私を見下ろしていた。たしかに私の下に倒れているはずの、彼女が。
「アリア、アリア!」
彼女が通信石を拾い上げると、それが、かすかに光った。
ニアが通信石を口の前に当て、泣きだした。
「誰か早く来て! アリアが……アリアがおかしいの……!」
そして、震える手で私の顔を撫でる。その手についていたのは、べっとりとした血。
息をするたび、氷の霜が肺いっぱいに満ちていくようで、体は動かない。
「クロノア……様……」
胸の内で呼んでも、うんともすんとも返らない。
続いて目に入ったのは、片隅に凍りついた魔物。それがぶるりと震えだし、氷の結晶が、ばらばらと崩れ落ちる。
ニアが魔物を見て、叫んだ。
「うそでしょ!? いい加減、死ねよ!」
松明を地面に投げつけた。油に沿って火が広がったが、溶けた氷の水に阻まれて、炎はじきに萎えていった。
――どうして毎回、こうなのだろう。
涙が一粒流れ落ち、こわばった唇を濡らした。
どれだけ備えて、どれだけ頭をひねっても。
――半端者。
私に返ってくるのは、その一言だけ。
魔物が、ゆっくりと動きだした。
その瞬間、一つの影が闇を裂く。凍った湖よりも透きとおって冷たいのに、目を温かく溶かしてくれる、青い光。
真っ黒な髪と、闇の一点さえ許さない、黒い両の瞳。
彼はそのまま跳び上がり、魔物の頭から背中まで、剣を手に体ごと回転しながら斬り抜けた。
黒い血が噴き上がる。
魔物が咆哮して身をよじると、彼は離れざまに、私たちの前へ受け身で着地した。
ニアを見て言った。
「離れていろ」
剣を手に、また立ち上がる。それから私を見ると眉間に皺が寄り、口を固く結んだのか、首から顎まで青い筋が浮き立った。
すぐさま剣を両手で握りしめ、魔物を睨みつける。
「国を蝕む魔物め。前のようにはさせん」
温もりなく押し殺した声。彼が、前へ進み出た。
その後ろ姿を、私はすでに見たことがある。そして、その先の結末も。
手を伸ばした。指が、わずかに持ち上がっただけで、動かなかった。
「魔物……ローゲ……ロ……」
牢月蜘蛛と続けようとして、声が口の中で固まった。
やがて魔物が飛びかかった。目で追えたのは、ほんの一瞬だけ。
カシアン様がその牙を剣で受け流した途端、金属の擦れる音とともに、火花が激しく散った。
結局、剣身が半ばで断たれ、弾け飛ぶ。けれど彼はすぐに、片手でその折れた刃を掴むと、蜘蛛の眉間へ突き立てた。
「ギシャアアッ!」
魔物が後ろへ退くと、折れた剣をそのまま、やつの前脚へ突き刺す。だが半ばまでしか入らないと、剣を放して、足で蹴り込む。
脚が断ち切られ、やつはその巨大な体を支えきれず、頭から地面に突っ伏した。
続いて彼は腰から短剣を抜き、やつの牙を取っ手代わりに、頭の上へよじ登った。短剣を、頭のてっぺんへ突き立てた。
「弾けろ――」
頭の内側から、青く光が広がっていった。
じきに――どぐしゃァッ!
弾け飛んだ頭から、脳漿と血が入り混じり、黒い雨となって降り注ぐ。鼻が落ちそうなほど、鉄錆びた血の匂いと腐臭が、どっと押し寄せる。
カシアン様は魔物の亡骸から下り、こちらへ歩いてくる。
私とニアの前まで来ると、私を数秒見て、ニアへ視線を移して言った。
「君、上がれば、鎧を着た傭兵たちがいる。言って、担架を持ってこさせろ」
「え、えっ……?」
「二度言わせるな。担架を持ってこい。動けるだろう」
「はいっ! ニア、行きます!」
ニアが跳ね起きて、片方の道へ駆けていった。
彼女の姿が消えると、カシアン様は私の前にしゃがみ込む。
どうして彼がここにいるのか――ありとあらゆる思いが、頭の中で渦を巻いた。一度目を閉じて、もう一度開けても、彼は変わらず私の前にいる。
彼が、血のついていないほうの手を上げた。
私は顔を少し横へ背け、ぎゅっと目を閉じた。
そして、
「君は……見るたびに、どこかしら傷だらけだな」
彼が私の頬をそっと撫でる。凍りついていく頬の上に、彼の温もりが伝わってくる。
目を薄く開けた。
べっとりと血に染まった髪の隙間から、黒い両の瞳が私を見ていた。眉は、わずかに下がっていた。
「う……う……」
口から漏れ出る、言葉にならない呻き。目尻を伝って、ただ熱い雫だけが落ちていった。
けれど彼は表情ひとつ変えず、私の瞼を掴んで開いた。彼の顔が近づく。それから、私の手にある魔力石を見た。
腐った悪臭の合間に、草の匂いがかすめた。
彼は懐からスクロールを一枚取り出しながら言った。
「何を血迷って、こんな無茶をする。精製されていない魔力を、体に取り込むなど……正気の沙汰ではない」
スクロールを私の体に乗せた。
「ヒール」
青い粒子が立ちのぼり、私の体を包んだ。さっきまで冷えていく一方だった体が、その端から、熱が上がってくる。
「これで、この前のは返した」
彼が背を向けようとしたとき、私は全身の力を右腕に集めて、その手首を掴んだ。
「動くな。魔力中毒には、じっとしているのが――」
彼が振り返るその一瞬、喉の奥からひと言が漏れ出た。
「……行か……ないで……」
ごめんなさい、と言うつもりだった。
すると彼が、刹那、かすかに笑った。その笑みが消えたあとも、私の瞳の中で、ずっと揺れている。
彼は私の手をほどくと、崩れた壁の隙間に挟まって乱れた私の翼を、手で丁寧に引き抜いてくれた。
「どこへも行かん。魔物が完全に死んだか見てくるだけだ。救助が来るまで、待っていろ」
そして、遠ざかっていく。
その後ろ姿を見つめながら、口から、また一言こぼれ落ちた。
「王子様……」
だが、その言葉が空気を伝って届くより先に、地下坑全体が足元から激しく揺れ動く。
天井がまるごと落ちてくるような轟音とともに、四方の土壁が裂けて、崩れ落ちる。




