36話「潜入」
ニアの案内で地上へ上がって、十分ほど。
雲ひとつない空に、二つの月が世界を深い青に染めていた。淡い風に葉の擦れる音、涼しい空気。
道すがら、あちこちに眠る獣や、木の枝にとまる夜行性の鳥が見えた。けれど、ニアについていくあいだは、何も起こらなかった。
やがて私たちは、とある草むらのあいだにたどり着いた。ニアが、何もない地面を指さした。
「着いたよ」
「……何もないけど?」
ニアが地面を手で探る。何かを押さえつけると――片隅の大きな岩がすうっと横へずれて、小さな下り坂が現れた。
闇の奥から、饐えた臭いが、ゴオオ、という風の音に乗って鼻を突いた。
「当然でしょ。あたしたちの種族じゃないと、見えないようになってるんだから」
ニアは油の樽を背に担ぎ、縄で体に固定した。黒い外套を頭からすっぽりかぶり、片手には松明を持つ。
「あたしが先に行くから、ついてこられる?」
「……うん、心配しないで」
彼女が坑へ入ろうとした途端、その外套の裾をそっと掴んだ。
近くで見ると、生地のあいだに、うっすらと文字が刻まれている。皺になっていて、読み取ることはできない。
真っ黒な外套。よくは覚えていないけれど、エルヴァンの傍らにいたグリムナル族の男が使っていたものと、似ていた。
「ねえ、この外套……使うと、何か危ないの?」
ニアが私を振り返った。声は軽やかなのに、松明を握る手だけがわずかに震えている。
「これ? 気にしないで。魂がどうこうで危ないとは言われてるけど、死ぬよりはマシでしょ」
外套を放して、頭を下げた。
「……なんか、ごめん。私、一人で逃げようとしてたのに」
「なによ。あたしたちこそ、ここまで攫ってきたのに。他人のために、ここまでしてくれてありがとう。やっぱり予言どおり、救世主様に間違いないよ!」
短いやりとりを残して、また坑へ入ろうとする彼女を、私はもう一度呼び止めた。
「あのね、ニア。 こんなときに言うことじゃないけど……私はアリア。アリア・オルネン。救世主様じゃなくて、名前で呼んでくれていいから」
するとニアは、くるりと振り返って、私の前にしゃがみ込んだ。
「おばあ様にバレたら、めちゃくちゃ怒られそうだけど。最後になるかもしれないし……」「最後って、なにそんな縁起でもないこと――」
言いかけたその途中で、ニアは自分の仮面に手をかけた。
グリムナル族の誰もがつけている、白い仮面。食事のときですら、一度も外すのを見たことがなかった。
仮面の下から、丸みを帯びた痩せた顔が現れた。大きな黄金色の目が、闇の中で輝いている。ただ、頬も額も、土か何かであちこち汚れている。
彼女は、にっと笑ってみせた。
「あたしはニア。ニア・ゲコヴィッツ。すっかり遅くなったけど、よろしくね、アリア」
しばらく、彼女の顔だけを見つめていた。
ニアは首をかしげ、両手で顔をごしごしとこすった。
「顔、汚いよね。うう、恥ずかしい」
「ううん! ただ……可愛くて」
ニアが私を睨んだ。
「うそだ!」
「ほんとだよ」
「ほんと?」
そしてまた、くしゃっと笑うと、仮面をかぶり直した。地面が、どんと揺れた。
「しゃべりすぎた。早く行こう、あたしが先に行くから。無事に帰れたら、地上の話、もっと聞かせてね! あたし、同い年の女の子と話すの、初めてなんだ」
「うん……! フレイヤも一緒に、いろいろ話そう」
「ええっ、あのもぐら女も? あいつ、馬鹿みたいに力だけ強くて怖いんだもん。ほんとは男かもよ」
その言葉に、ぷっと噴き出してしまった。震えていた手も、鳴っていた心臓も、少しは落ち着いた。
「たしかに、フレイヤは馬鹿力なとこあるよね。でも、意外と乙女なとこもあるんだよ」
「えー、うそだ!」
「ほんとだってば。この前なんて、恋愛小説を読みながら何て言ってたと思う?」
そうして私とニアは、たわいもない雑談を交わしながら入り口をくぐり、魔物のいる中央坑へと下りていった。
***
地下坑へ足を踏み入れた瞬間、世界のすべてが闇に沈む。月明かりは、一筋も差さない。
先を行く、すっかり透明になったニアの手にした小さな松明――その灯りだけを頼りに、前へ進む。
静寂の中、「どがぁん!」という轟音とともに、天井から土が降り注ぐ。その欠片が肩にぱらりと落ちるたび、膝から力が抜け、全身がぶるぶると震える。喉の奥はからからに乾き、唾さえ飲み込めない。
奥へ入るほど、腐った悪臭が濃くなる。
前方で、ニアの松明が、ぴたりと止まる。私はごく小さな声で尋ねた。
「ニア……大丈夫?」
いくらもしないうちに、松明が再び動いて、小さな返事が返ってくる。
「うん……ちょっと、胸が痛くて。平気、これくらい」
また進みだしたころ、クロノアが話しかけてきた。
『たぶん、あのニアって子、そう長くは持たないよ……』
「それ、どういう意味ですか……?」
胸の内で問い返した。
『あの黒い外套に刻まれたルーン文字……位相を媒介にしている。君も知ってるでしょ。初めて位相をスクロールに込めたときの、あの感覚』
答える代わりに、片手を上げて眺めた。
体の内から、細い糸が一本、するりと抜けていく感覚。力ががくりと抜けて、内側が空っぽになるあの虚しさ。
進んでいく途中、ニアが私の手をぎゅっと掴み、足を止めさせた。前を見ると――巨大な円形の広場が現れる。
もとの集落よりもずっと大きい、土を捏ねた建築物。そして地面のあちこちに、黒く固まった血の跡。
喰いちぎられた下半身からこぼれた臓物の上を、蛆が這い回っていた。粘つく音が、耳の奥で生々しく響く。
腹の底から、熱いものが込み上げる。
「うっ……」
力の限り口を押さえ、どうにか喉の手前で押しとどめた。視界が狭まり、目の前がぐらりと回る。
『アリア、落ち着いて! 深呼吸、深呼吸!』
その言葉に合わせてゆっくり息をしようとしたが、ひっ……ひっ……と、短く途切れるばかりだ。車椅子を押す手が、びくとも動かない。
私がそのまま固まっていると、前でニアが私の肩を軽く揺すって小さく叫んだ。
「アリア……! 早く行かなきゃだよ!」
彼女の声は、水の中で聞くように、遠くでくぐもって揺れていた。
片手に握りしめていた魔力石を顔の前へ引き寄せ、奥歯を強く噛みしめた。
木の皮の青い匂いが、この悪臭の中でさえ、鼻先をかすめた気がした。
まだ心臓は肋骨を叩いているが、車椅子を握る手がまた動き始めた。
「ごめん……。行こう」
そして私たちは、また前へ進んだ。
いくらも行かないうちに、一本の行き止まりにたどり着いた。
魔物が壁を叩く音が、すぐ隣で響くほど生々しく伝わってくる。
行き止まりの先に立ち、私は刃物を手に、魔力石の前へ手をかざす。そして、ニアから松明を受け取る。
ニアは透明な姿のまま油の樽を持って、小さく言った。声の合間に、薄い息づかいが混じっている。
「じゃあ……あたしは油を撒くから……準備できたら……すぐ合図して……」
「……うん、気をつけてね」
唾をひとつ飲み込んで、刃物を魔力石の上へ当てた。手ががくがくと震えて、文字を刻むことができない。
手の甲を、歯で力いっぱい噛んだ。
鋭い痛みが走る。けれど、震えは鎮まり、歯の跡の上に小さな血の粒が滲み出た。
魔力石の上へ、ごく小さくルーン文字を刻んでいく。
やがて魔力石の魔力が強制的に解き放たれ、強烈な青い光が噴き出す。
すぐに振り返り、ニアを呼ぼうとする。しかし、通路の真ん中に、油の樽を抱えたまま、ニアが倒れていた。
「ニア……? ニア!」
声を殺したまま、精いっぱい大きく叫んだ。けれど彼女は身じろぎもせず、ただうつ伏せに倒れているだけだった。
そちらへ近づこうとした瞬間、全身が強張る。
翼の先を伝って、ぬめる不快な振動が、背骨を這い上がり、頭のてっぺんを叩いた。奥歯に力を込めても、歯がかちかちと打ち鳴る。
松明を、ゆっくりと持ち上げた。その灯りの中に入ってきたのは――
水を吸って膨れた死体のように、ぱんぱんに膨らんだ、黒く巨大な胴体。その上に、太く黒い毛が、ねっとりと絡みついて逆立っている。関節があってはならない方向へねじ曲がった、短く太い八本の脚。
数十の目は、どれも何ひとつ映さない乳白色に爛れているのに、そのすべてが、正確にニアを向いている。




