35話「囮」
フレイヤとともに慌てて外へ出ると、大勢のグリムナル族が、一方向を見つめて震えていた。泣きだす子らもいて、大人たちがそんな子らを抱き寄せて宥めている。
もう一度。
ずうん――
巨大な振動が、地下坑を包む。
私は車椅子を押し、皆が見つめる方向へ向かった。先ほど老婆と行った、中央坑へつながる集落の外れの、あの壁のほうだ。
幾人ものグリムナル族が、周りの土を掘っては、そちらを埋めている。けれど土は壁になりきらず、振動が響くたびに、ざあっと崩れ落ちる。その中には、ニアもいた。
「これは、いったい……」
冷や汗を流してそちらを見ると、老婆が近づいてきた。
「あの化け物です。こうして……腹が減ると、私どものいるほうへ土を掘って越えてくるのです」
その言葉に、野外授業の魔物が頭の中で閃いた。灰色の目、裂けた口、目の前まで迫ってきた牙。息が浅くなり、指先が冷たくなる。
『アリア、大丈夫……?』
「……いいえ、大丈夫じゃありません」
適当に返事を濁した。
老婆が、私とフレイヤを振り返る。
「さあ、早くお発ちを。ここも、長くは持ちません」
「でも、地上には獣が……」
すると老婆が声を張り、ニアを呼んだ。
「ニア! 早く、救世主様とフレイヤ様を地上へご案内おし。森を抜けるまで、しっかりお守りするんだよ!」
ニアが涙ぐんで、首を振った。
「いや! ノアを置いていけっていうの!?」
また手で土壁を押さえた。松明の光にのぞいた彼女の爪が剝がれ、血がうっすらと滲み出ていた。
今度はフレイヤが、ニアの横へ寄って、同じく手で壁を押さえ始めた。ニアはそんな彼女をじっと見つめ、また壁を押さえた。
「フレイヤ、何やってるの……早く逃げないと……」
「私にも、よく分かんない」
フレイヤが壁に手を当てたまま言った。
「でも、アリアがそんなに震えてるってことは、前に言ってた野外授業のときの魔物ってやつと、似たようなやつなんでしょ?」
私はいつの間にか、がくがくと震える手を、もう片方の手できつく握りしめた。そして答えた。
「うん、そう。魔物……だから、早く逃げないと――」
「アリア。あたしは行けない」
フレイヤは一拍おいて、言葉を継いだ。
「結局、この人たちがこうして隠れて暮らしてるのも、全部人間のせいじゃん。 まあ……私たちを攫ってきたのは、確かだけど」
彼女の手首を掴んだ。思わず、手に力がこもる。
「それで何、残って手伝うつもり? 魔物を見たこともあるの? どんなやつか、知りもしないくせに!」
フレイヤは腕を振り払い、また壁に手を当てた。背を向けているので、表情は見えなかった。
「ごめん。アリアは逃げて。ソルベルグ家の長男だったら、危ない目に遭ってる人を置いて、逃げたりはしなかったと思うから」
「長男って、いったい何をバカげた――」
言いかけて、口をつぐんだ。私はそんな彼女の背を、しばらく黙って見つめた。何か返す言葉が喉元まで込み上げたが、そのどれも、口の外へは出てこなかった。
結局、私は一人で車椅子を回し、その場を離れた。
「救世主様……! お一人で行かれては、危のうございます!」
老婆が後ろから呼んだ。それに続いて、ニアの声が聞こえてきた。
「……がっかり」
それでも、車椅子を回す私の手は、止まらなかった。
戻る道すがら、クロノアが話しかけてきた。
『大丈夫? 一人で行けそう……?』
「はい、平気です。私一人でも、鳥になれば、どうにか逃げられますから」
道すがらも、振動は絶え間なく響いた。
集落の裏手、私が最初に入ってきた通路のほうへ向かっていた私は、ふと足を止めた。
魔力石のほのかな光に、壁の様子が目に入った。
初めて来たときは、視界が狭くて見えなかったもの。土壁のあちこちに、子どもが描いたらしい、たどたどしい落書きがあった。
ぐにゃぐにゃの棒人間が数人と、その手をつないだ、もっと小さな棒人間たち。頭の上には大きく描いた、丸い何か――もしかしたら、一度も見たことのない、太陽だった。
その落書きを眺めてから、手の中の魔力石へ目を落とした。その青い光の上に、私の顔が映る。
じきにその顔が歪んで、私に向かって囁いた。
――ねえ、次は誰を殺すの……?
首を振りながら、ぎゅっと目を閉じた。すると今度は、別の声が聞こえてきた。
――君の価値を、他人の言葉で決めるな。
冷たい声。それなのに、その響きを耳にしただけで、喉の奥が締めつけられる。
閉じた目を開けた。
魔力石を握る手に、力がこもった。私は長く息を吐いて「はあ……まじで最悪」と小さくつぶやくと、車輪を反対側へ回した。
来た道を、壁のほうへ。
壁のほうへ戻ると、相変わらず皆が壁を押さえていた。だが壁には、いつの間にかあちこちに亀裂が走っている。
私はすぐに、老婆を呼び止めた。
「おばあ様、ここに地図みたいなもの、ありますか?」
「救世主様、どうしてここへ……」
車椅子の車輪を、とんとんと何度か叩いて答えた。
「おっしゃったとおり、私一人で行ったところで、この体じゃ、いくらも持ちません。それより、早く地図と、紙とペンもあれば、お願いします」
私の言葉に、老婆は小さく頷き、横のグリムナル族を振り返った。彼がすぐにどこかへ駆けていき、古い鉛筆一本と紙を数枚、手に持って戻ってきた。
車椅子から這い降り、地面に紙を広げた。片方に地図、片方に白紙。
白紙に、文字を書き連ねる。
――家一軒ほどの大きさ、黒。魔物の見込み高い。
――隠身が効かない。魔力を頼りに捕捉している様子。
――蜘蛛の形……何の蜘蛛?
そこまで書いて、老婆を見上げた。
「あの化け物について、もっと詳しく教えていただけますか?」
続けて、私の知る蜘蛛の名を、いくつか書き出す。
――この近辺の生息種:雪脚蜘蛛、岩洞蜘蛛……。
前で、老婆が口を開いた。
「あれは……脚が八本に、目はどれも白く濁っておりました。前が見えぬようでいて、こちらを正確に狙ってくるのです。それに、体に傷をつけても、たちまち塞がってしまいます……」
私のペンが止まった。
「胴はどうでしたか。脚に比べて」
「胴……ですか。そういえば、脚は短く太いのに、胴だけがやけに膨らんでおりました。動きは鈍うございましたよ。ただ、一度飛びかかるときばかりは、瞬く間でしたが」
その言葉に、私はいま書き出した候補の上へ、一つずつ線を引いた。
短く太い脚。膨らんだ胴。普段は鈍く、一瞬だけ速い……。
頭の中で情報を組み替えながら、クロノアを呼んだ。
「クロノア様。この前のあの魔物……位相が絡まって、位相喰いの影響だろうって、おっしゃってましたよね」
『う……ん? そうだっけ……? うん、そうだった気もする』
「ああもう、ひと月前のことも覚えていなくて、どうするんですか!」
頭の中で短く叫ぶと、そのまま紙の下へ、王国地図を素早くスケッチしていった。数日前、カシアン様の部屋で見た地図を思い浮かべ、線の一本一本をたどり直す。
霊門山脈の上へ引かれた黒い線。位相喰いの、影響線。
山脈の向こう側を、ペンでとんとんと突いていって――やがて手を止め、一つの単語を素早く書きつけた。
牢月蜘蛛。
霊門山脈の万年雪の稜線、標高の高い地帯にだけ棲む蜘蛛。極寒に合わせて膨らんだ巨大な体と、熱を惜しむ鈍い動き。
その下へ、かつて生物の試験に備えて覚えた知識を、頭の奥から引っぱり出しながら、弱点を書き連ねていった。
――冷気に特化した体。熱に弱い。火・油。
――胴の外殻は硬いが、脚の継ぎ目は脆い。
ペン先が紙を掻く音だけが、振動の合間を埋めていた。
横の地下坑の地図を、目で素早く追いながら言った。
「おばあ様、集落……いえ、家にある武器と刃物みたいなのと、通信石もあれば全部集めてください! 油も!」
その言葉に、壁を押さえていた者たちの視線が、いっせいに私へ突き刺さる。老婆が頷くと、何人かが立ち上がり、慌ただしく動き始めた。
ニアはその様子を見ながら、なおも壁を押さえたまま叫んだ。
「いきなり何やってるの! 壁、押さえなきゃでしょ!」
横でフレイヤが、壁を押さえるのを手伝いながら、少し得意げな声で返した。
「大丈夫。アリアは賢いから、きっと理由があるんだよ」
私はそのやりとりを片耳で聞き流しながら、地図のあちこちに、線を引いていった。
***
武器はお粗末だった。どれもこれも古びて、刃の鈍ったものばかり。そして、今にも壊れそうな、色褪せた通信石が二つ。
私は皆の前に地図を広げた。その上に、石を三つ置く。いちばん大きな石は中央坑に、小さな石二つは、今いるこちら側に。
「これが、あの化け物―― ひとまず、蜘蛛と呼ぶことにします 」
大きな石を指した。続けて、小さな石を一つ、とんと突く。
「そして、これが私です。蜘蛛は目が見えない。代わりに、魔力で獲物を探します。だから私は地上へ登って、別の地下坑の入り口から回り込んで、中央坑へ行きます」
小さな石を、地図の上の迂回路に沿って、中央坑の脇の行き止まりの坑まで押した。それから魔力石を持ち上げてみせる。
「そして、この行き止まりに、魔力石を置くんです」
すると一人が尋ねた。
「魔力石にも、魔力があるでしょう。それなら、そちらも狙われるのでは?」
手の中の魔力石に目を落とした。淡い青の光が揺れる。
「これは魔導車椅子、魔力で動く自動車椅子用に作られたものなので。特定の状況でなければ、魔力が漏れ出ないよう加工してあります。ただ持っているだけなら、たぶん……狙われません」
語尾が、かすかに濁った。口の中が、からからに乾いていく。
「アリア、大丈夫なの? 大事なものなんでしょ……」
フレイヤが私を見た。私はその視線を避け、どうにか頷いた。
「平気……」
別のグリムナル族が尋ねた。
「そのあとは、どうするんですか……?」
私は床の小さな刃物を拾い上げた。
「行き止まりに着いたら、この魔力石の封印を解きます。ルーン文字なら得意なので、任せてください。封印を剝がせば、凝縮された魔力が噴き出す。そうすれば蜘蛛は、そちらへ向かう……はずです」
それから手を動かし、地図の上の、行き止まりの坑の入り口を指した。
「蜘蛛が坑に入ったら、その前で、私が油を撒いて火をつけます。これで死んでくれれば最高。でも――」
最後に残った小さな石をつまみ、行き止まりのすぐ上の、別の地下坑へ移した。
「万一、生きていたときに備えて、この近くの地下坑の上に戦闘組を待機させておきます。通信石の合図でいっせいに飛び込んで、火で弱ったやつの脚を集中攻撃。体が肥大している分、脚が脆いので」
そこまで言った。皆が静かに、私だけを見つめていた。
私がきょろきょろすると、老婆が口を開いた。
「……この作戦は、なりません」
「では、何かほかの手立てでも、あるのですか」
「この作戦では……救世主様お一人で、囮を置いて、油を撒いて、火までつけねばならないではありませんか。足も不自由でいらっしゃるのに。あまりに危のうございます」
その言葉に、口を閉じた。
ふと、ニアが口を開いた。
「あたしも一緒に行く」
老婆が彼女を振り返った。
「ニア。分かっているだろう。どれだけ隠身をしても、あやつには捕まるのだと。いても、足手まといになるだけだよ」
「外套」
ニアが短く言った。
「お母さんの外套を使う。あれなら、魔力の色まで隠せるから……たぶん、捕まらない」
老婆の声が、こわばった。
「ニア、それはならん。父さんとも、約束したじゃないか!」
「救世主様がこんなに頑張ってるのに、あたしたちは何もしないっていうの……? そんなの、できないよ! それに、外套を使えるのはあたしとノアだけ。だから、あたしがやるしかないの」
ニアが、老婆をじっと見上げた。
仮面が、その表情を覆い隠している。それでもその瞳だけは、いつもより一段と、固く光っているように思えた。
老婆は、何も言えなかった。
もう一度、壁がどんと鳴る。天井から、土がばらばらと落ちてくる。
沈黙を破ったのは、フレイヤだった。彼女がニアの肩に手を置いて、にっと笑った。
「戦闘組は、私に任せて! もし何かあったら、すぐ助けに行くから」
それでようやく、ニアも、私も、思わずぷっと噴き出してしまった。
と、壁際にいたグリムナル族の一人が、震える声で言った。
「でも……この方法で、本当にうまくいくんでしょうか……? もし、しくじったら……」
すると、すかさずフレイヤが胸を張って答えた。
「どうせ、ほかに手なんてないでしょ。それに、私はアリアを信じてる! 学校でも、いっつも満点ばっかり取ってるんだから!」
彼女の軽やかな声が、翼の先を重く押さえつけてくる。私は短く深呼吸をして、声を出した。
「……じゃあ、さっそく始めましょう」
私は車輪に手を置いた。




