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34話「呪術」

 老婆が私を連れていったのは、集落の外れの、とある壁の前だった。


 ほかの土壁とは、色がわずかに違っていた。ひときわ色が淡く、まだ乾いていないのか、じっとりと湿ってぬめっていた。


 老婆が、壁のほうへぐっと身を寄せた。


「魔力に(さと)いあなたの種族なら、お分かりになるかもしれません。……感じられますか?」

「感じる、というと……?」


 壁を見つめても、何の変哲もない土壁にしか見えない。


 もう少し近づいて手を当てた、その瞬間――翼の先が、ひとりでに逆立つ。


 壁の向こうから、野外授業のときあの魔物に感じたものと似た波動(はどう)が、じわじわと滲み出ていた。翼の先から背骨の奥まで、ねっとりと絡みついてくる感覚。


 老婆が小さく息をつき、壁に指先を触れた。


「数か月前、この地下坑に何かが忍び込みました。家一軒ほどもある真っ黒い蜘蛛(くも)の化け物です。手当たり次第に人を喰らっては消え、また這い戻ってくる。おかげで私どもは、こうして最も外側の区画まで押しやられているのです」

「……この壁の、向こうが」

「ええ。あの奥の中央坑(ちゅうおうこう)を、あやつが占めております」


 老婆の声が、いっそう低くなった。


「厄介なのは、その中央坑が、いくつもの地下坑の出入り口へつながる要所(ようしょ)だということです。地上へ出る道も、食糧の補給路も――ほとんどが、あの向こう。今はどれも、塞がってしまいました」

「隠身で……こっそり通り抜けることは、できないのですか?」

「幾度か試みました」


 老婆は短く首を振った。ぱさついた尾が、力なく垂れ下がる。


「ですが、そのたびに、見事に捕らえられ、殺されました。おそらく……私どもと、似たようなものではないかと。目に映るものとは違う、何かを感じ取って追ってくるのでしょう」


 ――何かを感じ取る。


 あの夜が浮かんだ。


 魔物はカシアン様だけを執拗に追いながら、魔力のない私は目の前にしても、ただ通り過ぎていった。髪を(おとり)にして、ようやく私を振り返った、あの灰色の瞳。


 片手が震えてきて、もう片方の手で、ぎゅっと握りしめた。


此度(こたび)の依頼が片づけば……グランデル家が、あやつを退治してくれる手筈(てはず)になっております」


 彼女はそう言って、手の中の葉書を見下ろした。


 そして、


 びりっ。


 半分に裂く。


「え!」


 思わず、声が喉から飛び出す。彼女は淡々と、言葉を継いだ。


「署名ひとつない、こんな紙切れに、何の縛りがありましょう。よしんば向こうが約束を(たが)えたとて、地の底に暮らす私どもがそれを訴えたところで、誰が信じてくれましょうか」


 裂かれた紙片が、老婆の指先から土の床へ、はらはらと散り落ちた。


 その欠片を見つめ、それから顔を上げて老婆を見た。


「無知な問いでしたら、申し訳ありません。……黒魔術を使えば、あの化け物を退治することも、できるのではないですか?」

「黒魔術……?」


 老婆は何度か目を瞬かせ、やがて淡く笑った。


「ああ……呪術のことをおっしゃっているのですね。そんな、とんでもない。呪術とは、人を生かすためのものです」

「……人を、生かす?」


 その言葉の先に浮かんだのは、どす黒い血を吐きながら崩れ落ちていく、エルヴァンだった。同時に、あの陽だまりのような声が、耳の奥で幻聴(げんちょう)となって響き渡った。


「大丈夫ですか……? 顔色が、優れないようですが」


 老婆が私をじっと見つめ、小首をかしげた。


 うなじに手を当てた。いつの間にか冷や汗で濡れている。そこを手の甲で一度拭って、答えた。


「はい……はい、大丈夫です。それで、黒魔術……その呪術というのは、本当に、人を生かすものなのですか?」

「ご存じなかったのですか。 あなたにも、呪術の跡がおありなのに」


 手を伸ばし、私の腕の上へそっと重ねた。思わず、体が強張る。


「サエナ・ミル……我が息を、そなたに」


 老婆の唇が小さく動き、聞き取れない低い言葉が漏れ出た。なじみ深くも冷たい響きに、腕を引き抜こうとした、その瞬間――腕にあった擦り傷が、するすると塞がっていく。


 埋まるのではなく、肌が元へ戻る。さほど深い傷ではなかったとはいえ、以前、回復スクロールを使ったときとは違い、痕ひとつ残らなかった。


 老婆が手を引きながら言った。


「呪術というものはね。飢えた者にも、(かわ)いた者にも――どんな行き止まりの中でも、手を差し伸べることができるのです」


 ふと、老婆の腕に巻かれた包帯の上へ、うっすらと黒い筋が浮かび上がってくる。


 女は自分の腕をちらりと見下ろすと、肩をすくめて笑った。


「おや。そろそろ、包帯を替えねばならない頃合いですね」


 壁に背を向けた。


「陽が沈む時分です。戻りましょう」

「……陽が沈むのが、どうしてわかるのですか? ここは、空も見えないのに」


 彼女は歩みを止めないまま、短くだけ答えた。


「土の色が、変わりますから」


 その言葉を背に、車椅子を押して、彼女に従った。


 頭の中には、白峰で見たアルナの石像が浮かんでいた。包帯をまとった冠翼族、大魔法使いにして精霊術師。


 先を歩く老婆の、包帯を巻いた腕を、知らず知らず目で追っていた。


 かつて私に黒魔術を唱えてくれたクロノアの声が、その上へ重なる。


 車輪を握る指先に、わけもなく力がこもった。



***



 集落へ戻ったころ、老婆は私の部屋の前で足を止めた。


「夕暮れの森は、獣が多うございます。危のうございましょう。明日の朝になりましたら、無事にお帰りになれるよう、お手伝いいたします」

「化け物は……? あの壁の向こうのものは、どうするのですか」

「それは、私どもの務めです。あなたには、関わりのないこと。あえて危険を冒させたくは、ございません」


 老婆は淡々と言った。ふと、何か思い当たったように手を止め、懐を探った。


「ああ、危うく忘れるところでした。これを」


 差し出された手のひらの上には、カシアン様から貰った魔力石があった。淡い青の光が、闇の中でほのかに揺れている。


 それを、すぐさま奪い取る。


「これが、どうしてここに……」

「ニアが、きらきらしていると拾ってきたそうで。どうやら、救世主様のものかと。大事な品でしたら、申し訳ございません」


 一瞬、眉間がひくついたが、すぐに息を整えた。魔力石を胸元近くへ引き寄せ、手で撫でながら答えた。


「……ありがとうございます」




***




 部屋へ戻ると、フレイヤは我が家とばかりに、革の敷物の上で大の字に伸びて眠っていた。口の端には、うっすら涎まで垂らしている。


 そんな彼女の横に車椅子を停め、手の中の魔力石をじっと見下ろした。昼間の出来事が、頭の中でなかなか鎮まらなかった。


「クロノア様」


 そっと呼ぶと、なじみのある声が返ってきた。


『う……ん……アリア、おはよう。ところで、ここどこ……?』

「地下坑です」

『地下坑……??』

「グランデル家が人を使って、私を攫ったんです。でも、それがよりによって、この地の底の種族で……事情が、ちょっと複雑で。話すと長いんです」

『ふうん、そうなんだ……』


 ひと息ついたようなその口ぶりに、私はしばし言葉を失った。


「それより……もしかして、アルナのこと、何か知りませんか? 契約してたって、言ってましたよね」

『アルナ?』


 クロノアは、少し間を置いた。


『さあ……わたしもよく知らないなあ。何千年も前のことだよ、そんなの全部覚えてるわけないでしょ』

「黒魔術を使っていた、とか。そういうのは、ないですか?」

『黒魔術? うーん……よく覚えてないけど、なんで? そもそも五千年も前なら、黒魔術なんて概念もなかったよ。ただの一つの術式にすぎなかったんだから、使ってたかもね』


 魔力石を指先で転がしながら、また口を開いた。


「そうですか……。じゃあ、黒魔法で人を癒すことも、できるのでしょうか」


 クロノアが、黙り込んだ。数秒待ってみても、何の返事も返ってこなかった。


「……クロノア様」

『……うん。できるよ』


 魔力石を転がしていた指先が、止まった。


「どうして、それは教えてくれないで、相手を苦しめることばかり教えたんですか」

『……』

「私、それしかできないんだと思ってました。そんなこと知ってたら、カシアン様が何日も後遺症で苦しまなくても……」


 そこまで言って、口をつぐんだ。喉の奥がきつく詰まり、目元が熱くせり上がってきて、次の言葉が出てこなかった。


 クロノアはしばらく何も言わずにいたが、やがて低く口を開いた。


『君のことを、よく知ってるから』

「……え?」

『君はね、アリア。人を傷つけることには、いつも尻込みするでしょ。指先ひとつ触れるのにも、びくびくして。でも、誰かを助けられるならためらわない』


 クロノアはひと呼吸おいて、先を続けた。


『自分の魂を、すり減らしてでも。君は、そうするでしょう』


 私は、何も言えなかった。


 手の中の魔力石が、まだ淡く光っている。その青い光を覗き込む。


 私の顔がぼんやりと映って揺れていたが、光が薄く、今の自分がどんな顔をしているのかまでは、見えなかった。


 そのときだった。


 ずうん――


 部屋が、いや、地下坑全体が、巨大な振動に包まれる。


 天井の土が、ぱらぱらと落ちてくる。眠っていたフレイヤが、跳ね起きる。


「な、何?!」


 私は反射的に壁の向こう――昼間に見た、あの(きゅう)ごしらえで(ふさ)いだ土壁のほうを見た。

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