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32話「救世主」

 老婆は私を「救世主(きゅうせいしゅ)」と呼び、うやうやしく接し始めた。


 そうして、今。


 どこからか彼らが用意してくれた古い車椅子に座り、後ろではニアがそれを押してくれていた。


 前ではグリムナル族の何人かが、松明(たいまつ)を掲げて歩く。その中央に、老婆が立っていた。


 老婆の腕や体のあちこちには、古びた包帯がぐるぐると巻かれていた。


 グリムナル族は誰もが一様に、骨が浮くほど()せこけ、仮面の外へはみ出た髪は、水気ひとつなくぱさついている。


 彼らの案内で、地下坑(ちかこう)を進んでいく。


 松明の光が届くところまでしか、ろくに見えなかった。土の壁は狭まっては広がるのを繰り返し、分かれ道が幾度(いくど)も現れては消えていく。


 壁には黒い絵の具のようなもので塗られた文字が、ぽつぽつと刻まれていた。ルーン文字のようにも見えたが、角ばった画のどこかが、黒魔術の文字を思わせた。


 何も言葉のないまま続く沈黙の中で、私はごく小さく声を出してみた。


「あの……ニア、今、どこへ向かってるの……?」

「家!」


 間を置いて、言葉を続けた。


「ところで……この車椅子は、どこで手に入れたの?」

「車椅子? 家から持ってきたんだよ! 家に行けば、いっぱいあるよ!」


 いっぱいある、という言葉に、私はしばし口をつぐんだ。


 やがて松明の照らす長い通路の先に、巨大な穴が見えてきた。そこを越えた瞬間――地下坑の果てには、集落がある。


 土を()ねて積み上げた家々が、窮屈(きゅうくつ)に、びっしりと寄り集まっている。路地と呼べるものもなく、屋根と屋根が触れ合い、その隙間に人ひとりがやっと通れるほどの隙間があるだけ。


 じめついた土の匂いに、汗の()えた酸っぱい臭いが混じって、鼻を押した。


 あちこちにグリムナル族が見えた。誰もかれも、真っ白な仮面。ある者は私と同じく古い車椅子に座り、ある者は片腕がなかったり、片足を引きずって歩いていた。


 そして彼らの視線が、いっせいに――松明から、続いて私のほうへ突き刺さった。


 目を逸らし、ニアとその横のノアを見たが、仮面のせいで、何の表情も読めない。


 老婆は何も言わず一軒の家へ向かい、私もその部屋へ入った。


 部屋の中は、思ったより小ぎれいだった。土の壁をなめらかに整え、乾いた草を編んで覆い、片側には木の根をそのまま削って作った低い卓と椅子が置かれている。


 老婆は私を見て、そっと頭を下げた。


「では、救世主様……ここで当分のあいだ、ゆっくりお休みください。入り用のものがあれば、このニアとノアにお申し付けを。食事は、のちほどお持ちいたします」


 彼女に向かって、頭を下げてみせた。


 ニアとノアが松明を引き継ぎ、老婆とその一行は部屋を出ていった。


 ノアはじっと座り、ニアはすぐさま伸びをすると、松明を片隅に掛けて、部屋の中をあちこち駆け回った。


「うう! 疲れた!」


 そして、私の前まで駆けてきてしゃがみ込み、私を見上げた。


「ねえねえ、それで、あんた、ほんとに救世主なの?」

「ごめん……救世主が何のことなのか、全然分からなくて……」

「ええっ! 救世主を知らないの?」


 横からノアが返した。


「ニア、救世主、地上から来た。知らない、あり得る」

「ノア、めずらしく正しいこと言うじゃん……」


 ニアはそう返すと、また私を見た。そして部屋の片隅から古い本を一冊持ってきて、私に手渡した。


 今にも崩れそうな手触りの、茶色い表紙。


 表題を読んだ。


「救世主アルナ……これ、何……?」


 静かに本を開いてみた。ところどころ読める字のあいだに、得体の知れない文字が混じっている。来る途中、壁で見た表記と似ている。


 前でニアが、尾で床を一度打って、声を高くした。


「うそだ! 救世主アルナを知らないっていうの?」

「……?」


 これで、二度目の疑問符だった。


 彼女の問いをそのままに、また本へ目を落とし、読める字だけを、たどたどしく拾っていった。


「アルナ、グリムナル族……解放……救いの英雄……」


 指先が、紙の上で止まる。


 私の知る歴史は、こうだった。


 罪もない人間の土地を奪い、人を喰らった野蛮な一族グリムナル族を、英雄シグムンドと大魔法使いアルナが力を合わせて追い払った――石像の前の碑文(ひぶん)にも、学院の授業でも、いつもそう教わってきた。


 ところが、この本の中のアルナは、グリムナル族を追い払った者ではなかった。


「……アルナが、あなたたちを救ったの?」

「うん!」


 ニアが目を輝かせた。そして数ページ繰り、一枚の絵を指した。真っ白な髪に全身を包帯で巻き、背に翼の生えた女の絵だ。


「もともと、あたしたちが住んでた土地があったの。でも人間が攻め込んできて、全部奪ったんだ。あたしたちを地の底へ追いやったの」

「人間、許さない」


 ノアが短く付け足した。


「でも、そのとき、たった一人。あたしたちの味方になってくれた人がいたの」


 ニアの声が、一段低くなった。


「人間たちと何度も話し合って、あたしたちが暮らせる場所を認めさせてくれた人。それが救世主アルナ。白い髪で、全身に包帯を巻いた冠翼族!」


 包帯を巻いた冠翼族。


 白峰で見た石像が浮かんだ。ローブの外へ出た手に、なぜか包帯がぐるぐると巻かれていた、あの女の像。間違いなく同じ人物だ。


 ――情報は、見る人と伝える人によって変わるものですから。


 いつか、碑文(ひぶん)の前でセドリックが言った言葉が、遅れて首筋をかすめた。


「それに、予言もあるんだよ」


 ニアが声をひそめ、本の最後のページを開いた。


「五千年後、二人のグリムナル族に(みちび)かれて、アルナの生まれ変わりが現れる。そしてもう一度、あたしたちを闇の中から救い出してくれるって」


 しばし、部屋の中が静まった。ニアとノアが、互いを見合った。


「……あれ。ノア、あたしたちも二人じゃん」

「ニア、そうだ。二人だ」


 二対の黄金色の目が、同時に私を向いた。


「ち、違うよ」


 私は慌てて手を振った。


「私は魔力もないし、歩くこともできないし……あなたたちを助けられることなんて、何もないの。人違いだよ」

「ええ、うそだ!」


 ニアが膝立ちのまま、ぐっと詰め寄ってきた。


「それより救世主様、呪術(じゅじゅつ)見せて、呪術!」

「呪術……? 魔法のこと? そんなの、無理だよ」

「でも、あるもん、呪術の跡!」

「……ん?」


 ニアが指で差した。私の太もものあたり――黒魔術でワープスクロールを偽装してできた傷跡。そして襟の下、エルヴァンに黒魔術を使ったとき浮かび上がった、胸元の黒い筋。


「早く、呪術、呪術! おばあ様以外の呪術師なんて、初めて見るの! 早く早く!」


 車椅子の車輪を回し、後ろへ下がった。


 何と返せばいいのか、口だけをぱくぱくさせていた、そのとき。部屋の戸が開き、グリムナル族が一人入ってきて、皿を数枚、床に置くと出ていった。


 ニアがそれを見て叫んだ。


「肉だ!!」


 皿には、赤い生肉(なまにく)が盛られていた。ニアはそれを見てぴょんぴょん跳び、ノアも同じように皿の前へ近づいた。


「ニア! 肉、本物の肉だ! でも肉、どこで手に入れた?」

「ノア、知らない! でも――」


 ニアが急ににやりと笑い、私を横目で見た。


「まさか、救世主と一緒に捕まえてきた地上人の肉じゃない?」


 続いてノアは呑気に、「肉、食べる」と言って、手を伸ばした。


 私は皿を見下ろした。そして、たった今ニアが漏らした言葉が、頭の中でゆっくりと巻き戻された。


 一緒に捕まってきた地上人……?


 その瞬間、舞踏会へ行く前、攫われる直前の記憶がよみがえる。


 慌てた顔で、意識を失っていく私を見ながら、最後まで私の名を呼んでいた彼女。


 赤い肉の塊と、あの顔と、人喰いの一族の話が、いちどきに重なる。


 皿を掴んだ指先が、白く強張(こわば)る。


「え……?」

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