31話「双子」
唇が切れて、少し動かすだけでもひりつく。
もう一度、体を起こした。
「クロノア様……」
呼んでも、うんともすんとも返らない。静かに目を閉じて鳥の感覚を意識してみても、何ひとつ変わらなかった。
私に分かるのは、まだ夕方ではないということくらい。
不意に、闇の一角が妙に揺らぎ、翼の先がわずかに痺れてくる。
ドレスの背のファスナーへ手を伸ばしかけて、ブレスレットの短剣で背の生地をそっと裂き、翼を出した。
翼が外へ出ると、その微かな振動が、いっそうはっきりと感じ取れる。
そちらへ向けて、ごく小さく声を出した。
「誰か……いますか……?」
沈黙。もう一度、少しだけ大きく。
「あ……あの!」
すると、宙から幼いながらもよく通る少年の声が聞こえてきた。
「ニア。こいつ……やっぱり、おれたちが見えてる」
続いて、中性的で澄んだ少女の声がした。
「ノア、馬鹿言わないで。あたしたちの隠身は完璧なんだから」
同時に、ひとつの場面がよぎる。野外授業のとき、エルヴァンの傍らに現れた隠身の種族――影鱗族の男。
私は声のするほうから後ずさりながら叫んだ。
「いや……いや……! なんでも言うとおりにしますから……!」
しゃくり上げるあいだ、前のほうから、少年――ノアと呼ばれた者の声がした。
「ニア。人間、うるさい。イライラする」
今度は少女――ニアと呼ばれた者が、溜め息まじりに返した。
「ノア、変なことしないの。おばあ様が来るまで待機だってば。ちょっと、ちょっと!」
続いて、誰かが私の顎をぐいと掴み上げた。
手を前へ伸ばすと、感触があった。革の生地、その向こうから伝わる、温もりのある肌。
ブレスレットの刃を慎重に開き、前へ振った。
その瞬間、顎の圧が消える。
すぐ目の前に、一人の人影が現れる。
尻の下から長く伸びた、爬虫類を思わせる細い尾。真っ白な仮面の上からのぞく茶色の髪。仮面の目の部分からは、闇の中でも分かるほど明るい黄金色の瞳が、私を見下ろしていた。
服は――息が止まる。
白峰で見た伝統衣装と、まったく同じだった。体に張りついた革の服。人喰いの野蛮な一族、グリムナル族の面影を色濃く宿した、あの服。
しばし思考が止まる。
続いて、
「あ……ああっ!」
私はすぐさま背を向け、力の限り反対側へ這った。
また聞こえてくるノアの声。
「ニア。この人間、目玉、抜く。殺す。おれを攻撃した。人間、危険」
いくらも進まぬうちに、髪が上へ引っぱられた。ブレスレットの刃を持ち上げたが、手をがっちり掴まれて動かない。彼のもう片方の手が、私の瞼をこじ開けて吊り上げた。
そして――見覚えのある光景。
目の前へ、一本の刃物が近づいてくる。闇の中でもくっきり見える鋭い刃が、じりじりと。
「いや……っ……」
刃が眼球に触れる、その寸前。
「ノア! 待って!」
近すぎて形すら見えない距離で、刃が止まる。
そして横から、何もなかった空間から、もう一つの人影がするりと姿を現した。
私に刃を向けた少年、ノアと似た背丈と装い、そして仮面。ただ、少し小柄な体つきで、茶色の髪が背の後ろへ長く流れ落ちていた。
同じく黄金色に光っていた目から、一瞬、光が消える。
ニアが私に近づいてきて、翼の先を触りながら口を開いた。
「この子、人間じゃ……ない……?」
ノアは刃を腰へ差し込みながら、私の顔から足元までをじろじろと見回した。その目は、まだ黄金色に光っている。
「ニア、違う。色がない。魔力ないのは、出来損ないの人間」
「ノア、色じゃなくて、ちゃんと見てよ。ほら、翼!」
ニアが私の翼をぐいと引っぱった。
ノアの目からも、光がすっと消える。そして私の翼を見るなり、両手を上へぱっと突き上げ、半分跳ねる勢いで後ろへ飛びのいた。
「ニア! 人間じゃなかった! 翼だ! 冠翼族だ! グリムナルの友だ!」
「え……?」
私の口からは、短い声だけがこぼれ出た。
こうして私は、わけも分からぬまま、彼らと向かい合って座り、話を交わすことになった。
***
短く二言三言かわして、私が知り得た情報は、次のとおりだ。
この二人はニアとノア。二卵性の双子で、今年で十四歳。好きな食べ物はクマムシ、趣味は砂浴び……。
そして彼らはグリムナル族で、王都から数十キロは離れた北の一帯に、地下坑を掘って暮らしているという。
さらに、「おばあ様」と呼ぶ者の命で、私を攫ってきたのだそうだ。
目の前では、ニアが休みなく話しかけてきた。尾の先が、左右に揺れている。
「それでそれで、地上にある……その、きらきらして黄色くて丸いやつ! あれ何? 食べたことある?」
「え……蜂蜜菓子のこと、かな……?」
「ハチミツ菓子っていうんだ!」
「蜂蜜、菓子……」
「おいしい?」
「う……うん」
「どんな味?」
そんな得体の知れない質問の連なりのなか、私はいったん話を切って、こちらから尋ねた。
「それより……私も質問して、いいかな?」
「もちろん!」
私は唾をひとつごくりと飲み込んで、口を開いた。
「あなたたちは、つまり……グリムナル族、なんだよね?」
「そうだよ。あ、一部の地上人は、影鱗族とも呼ぶみたい」
「地上人……?」
「うん! 地の上に棲むやつら!」
テラン。どこかで聞き覚えのある響きだった。
そして続けて、
影鱗族と、グリムナル族。呼び名は違っても、野外授業で見た男とこの子たち――隠身、そして顔にかけた仮面が、重なって見えた。
さらに、野外授業の下見のとき耳にした、グリムナル族の話が思い出された。
――人喰い。
私は大きく息を吸い込み、また言葉を継いだ。
「人喰……ううん。それより、色っていうのは、何……?」
「色? ああ!」
ニアが言うと、その目がすぐに黄金色に光り始めた。
「これ! あたしたち、魔力の色が見えるの」
そして、もう一度私の体を撫で回し始めた。
「でも不思議……ほんとに魔力がないんだ。ほんとに冠翼族……?」
私は彼女の手をそっと掴んで外した。
横に座っていたノアが付け足す。
「ニア、冠翼族は色が濃い。この女、偽の翼かもしれない」
二人の視線が、いっせいに私へ突き刺さる。私は慌てて翼をぱたぱたさせ、手を振った。
「本物の冠翼族だよ! 魔力は……事情があって」
するとニアが、ノアの頭をぱしんと叩いて笑った。
「ノア、まさか。人間が翼をつけて歩き回るわけないでしょ、冗談きついなあ。だから、あたしたちが隠身しても気づいたんだよ」
「ニア、そうだ……おれたちの隠身、完璧。人間、分からない」
ノアは頭を下げ、叩かれたところを軽く掻いた。
私も、どうにか口角を上げて言った。
「それより……二人は、人間が嫌いなの?」
「人間? もちろん。邪悪で、悪魔みたいな――」
ニアが歯を食いしばって声を荒げかけた、その途中で、彼女の視線が地下坑の一方へ向いた。ノアも、同じところを見た。
私も、そちらへ視線を移した。
いつになくはっきりしていた。翼の羽根が、一枚一枚、逆立った。
そして次の瞬間、ニアがそちらへ駆けていきながら、弾んだ声で叫んだ。
「おばあ様!」
続いて闇の中から、見えるか見えないかの人影が現れた。
いちばん前には、腰を曲げ、片手に杖を突いた老婆。その周りには、ニアやノアよりずっと体の大きな、仮面をつけたグリムナル族が五人、ずらりと並んでいた。
ニアが駆け寄ると、老婆はその頭を撫でた。ふくよかであたたかな声だった。
「おやおや、ニア。婆が遅くなったねえ。どこか怪我はないかい」
「ニア、大丈夫!」
続いてノアも駆け寄った。
「ノア、人間、いっぱいいた。怖かった」
「ノアも、よく頑張ったねえ」
それから老婆が、私を見る。その後ろで、闇の中の黄金色の目がいくつも、いっせいに私へ向いた。
「それで、あれがグランデルの連中の言っていた人間、というわけかい?」
そのとき、ニアが老婆の腕を掴んだ。
「うん! でも、人間じゃないよ! 冠翼族だよ!」
「なんだって……?」
老婆の声が、ぐっと低くなった。目から光が消えた。彼女は近づいてきて私の顔を撫で、髪をくんくんと嗅ぎ、翼の先をいじった。
そして翼を左右へぐいと引っぱりながら、声をあげた。
「おお……おおお!」
「ひっ、あっ……!」
翼はもともと敏感なところなので、思わず悲鳴がこぼれた。




