30話「消失」
長光月七日。キリアン叔父が学校を訪ねてきてから、もう五日が過ぎた。
けれど、彼の警告が拍子抜けするほど、そのあいだは何も起こらなかった。
代わりに、私には小さな習慣がひとつできた。学院の中を見て回り、警備用の魔力石がきちんと点滅しているか確かめること。
いつものように、授業の終わった寮の前。私は少しのあいだ車椅子を停め、玄関前の警備用の魔力石を見つめた。
相変わらず、ほのかな青い光を絶え間なく放っている。
ふと、車椅子がぐいと前へ動く。すぐに振り返ると、フレイヤがぐったりした顔で私の車椅子を押していた。
「びっくりした……もう来たの、フレイヤ? 今日は剣術の練習があるって言ってなかった?」
「あったけど……暑くて死にそうって言って、逃げてきた」
彼女がピースサインを作って笑ってみせると、私も思わずぷっと噴き出した。
そうして寮の部屋の前、踵を返そうとしたところで、私はその手首をそっと掴んだ。
「フレイヤ。今夜の舞踏会、一緒に行くって約束、忘れちゃだめだよ」
「あ、そうだった!」
フレイヤが目を丸くして答えた。私が唇を尖らせると、彼女は後頭部を掻きながら言葉を継いだ。
「大丈夫、大丈夫。七時までにアリアの部屋に行くから」
「約束だよ……寝ないでね」
「うんうん。それより、珍しいね。アリアが自分から舞踏会に行くなんて」
「いいから。あとでね」
その言葉を残して、部屋に入った。
すぐに鞄を放り出し、衣装棚の前へ近づいた。いちばん奥に、きれいに畳んでおいた夏の舞踏会用のドレスがあった。
淡い青の生地に銀糸の刺繍が入った、袖の短い軽やかなドレスだった。
着てみると、腰のあたりがぴったりと締めつけてきた。お腹に力を込めてファスナーを上げながら、つぶやいた。
「クロノア……ほどほどに食べてって言ってるのに……」
そして、鏡を見る。
背中の翼は生地の内側にぴたりと張りついて見えず、太ももが少し覗いて、白い肌を透かしていた。
縦に裂けた瞳孔さえなければ――鏡の中の私は、ただのありふれた一人の女に見えた。手首には、フレイヤから貰ったブレスレットがはまっている。
わけもなく横の髪を耳にかけてみたり、はにかんで笑ってみたり。そんな自分の姿を見たら、胸の奥がむずむずしてきた。
すぐにベッドの上へ倒れ込み、枕で顔を覆った。心臓が、いつもより少し速く打っている。
そのまま時間が過ぎ、フレイヤが来るのをただ待った。
フレイヤが部屋に入ってくるなり、ぱっと笑ってみせた。舞踏会用にしては爽やかな、少し中性的な灰色のパンツ姿。
彼女は私を見るやいなや駆け寄ってきて、車椅子に垂れたドレスの裾を触ってみた。
「きれい……アリア、こんな服も持ってたんだ?」
「……うん。ていうか、フレイヤはワンピースないの? いつもパンツじゃない」
するとフレイヤは立ち上がり、私の机の椅子に座った。その瞬間、机の脇のあたりが、わずかに揺らぐような――同時にほんの少し、翼の先がぴりっと痺れる感覚が走った。
椅子に座ったフレイヤが、片手をひらひら振りながら言った。
「ワンピースなんか着たって、動きにくいだけだよ。アリアはパンツを穿いたことがないから……アリア? 聞いてる?」
「う……うん」
机の脇をぼんやり見ていた私は、もう一度フレイヤへ顔を戻した。
「だからさ、アリアも一度パンツ穿いてみたら?」
彼女はそう言って、今度は私の机の上に置かれたカシアン様から貰った魔力石の箱を手に取った。そして、ごく自然な手つきで魔力石を取り出した。
「ところでアリア、これっていつ嵌めるの? 車椅子押すの、不便じゃない?」
私は彼女のほうへ車椅子を寄せて、魔力石をさっと奪い取った。
「ちょっと、勝手に触らないでって!」
自分でも思った以上に、鋭く声が飛び出していた。
するとフレイヤが口を開けたまま、目だけをぱちぱちさせて私を見た。持っていた手が、中途半端に宙で止まる。
「……ご、ごめん」
そのあと、しばらく沈黙が落ちた。声をやわらかく解いて、もう一度言った。
「魔力石を嵌めると、そこから魔力を持っていかれるんだもの……」
するとフレイヤは、さっき驚いたのが嘘みたいに、にやにやと笑って立ち上がり、私の車椅子を押し始めた。
「だよね、カシアン様から貰ったんだもんね。大事に大事に使わなきゃ~」
どこか粘っこい言い方に、眉間がひとりでにひくついた。
「……からかってるでしょ」
「まさか~」
ぱっと首を回して彼女を睨んだ瞬間だった。もう一度、彼女の後ろが、ごくわずかに揺らいだ気がした。
「ん? また、どうしたの?」
「ううん……なんか――」
言い終わるより早く、口と鼻が何かに塞がれた。
何も見えない。だが、はっきりと分かった。
誰かの手が、後ろから。
慌てて息を吸い込んだ瞬間、鼻先に甘ったるく、つんとする匂いがどっと押し寄せた。頭の中がその匂いに引きずられて鈍くほどけ、指先から、みるみる感覚が遠ざかっていく。
遠のく意識の中で、耳へ届いたのは、フレイヤの声だった。
「アリア、アリア! いきなりどうし――んんっ!」
最後に聞こえていた声さえ、糸のように細くなり、だんだん遠ざかっていった。
***
眠気が全身を押さえつけているのに、眉の上へ冷たい水滴がぽつりと落ちた。さらにもう一滴、こめかみを伝って流れ落ちる。
目を開けると、世界は闇に沈んでいた。
じめついた、生臭い土の匂いがした。空気は涼しいどころか、肌が粟立つほどに冷たかった。
「ここは……」
頭が、ずきずきと脈打った。両腕は後ろへ回されたまま縄で縛られている。
その瞬間、頭の中にキリアン叔父の言葉がよみがえる。
――グランデル家には気をつけたほうがいい。
肩が、急にがくがくと震える。
両手に力を込めてあちこち捻っても、縄はびくともしない。
ふいに、手首に嵌めたフレイヤのブレスレットを思い出した。
片手で手探りに、それを探した。
「どこ……」
小さくつぶやきながら、何度も同じところを撫でていると、わずかに沈んだバックルが指先に触れた。そのまま引っぱり、指でごくゆっくりと刃を探り出して、縄に向かって挽き始めた。
何度か上下に動かすと、ぶつりという音とともに、手首の締めつけがほどける。
目も闇に慣れてきて、周りが見え始める。
バックルを回して刃を収め、肘で体を押して動いた。
触れるのは、硬い土の感触ばかり。あまりに暗くて視界はろくに利かず、自分が進んでいるのが前なのか横なのか後ろなのか、今が昼か夜か、何日が過ぎたのかさえ、見当もつかなかった。
「クロノア様……もしかして聞こえますか?」
胸の内で叫んでみても、何の声も返ってこなかった。
そうして五分ほど這い進んだところで、私はやがてその場に止まり、しゃがみ込んだ。
「どうして、また……」
その一言を吐き出したきり、喉がぎゅっと詰まってきた。
まわりは見えない土の壁ばかりで、クロノアの声もなく、自分がどこにいるのかすら分からない。
私は両手で口を覆ったまま、しばらく泣いた。
また動かなければいけないと分かっていても、体は、なかなか言うことを聞いてくれなかった。




