29話「盗聴」
寮へ戻る道には、夕焼けが濃く垂れ込めていた。
カシアン様は学院本館のあたりで道が分かれると、短い挨拶を残して遠ざかり、私は一人で車椅子の車輪を回し、寮のほうへ向かった。
そうして寮の前にたどり着いたとき、玄関脇の街灯の柱に、一人の男が背を預けて立っていた。
銀色の髪にはところどころ灰色が混じり、片方の目には、細い鎖のついた片眼鏡をかけている。
そのシルエットを見た途端、車輪を回していた手が止まる。箱の上に置いたもう片方の手が服の裾を握りしめた。
「……キリアン叔父様」
「久しぶりだな、アリア」
彼は柱から背を離し、ゆっくりと近づいてきた。
私は唾をひとつごくりと飲み込むと、彼が近づいてくるぶんだけ車椅子を後ろへ回し、距離を空ける。
「……学院には、無断での立ち入りが禁じられています。どうやって入られたんですか」
「おや。叔父が姪の誕生日を祝いに来ただけで、無断立ち入りか?」
彼は口角をやわらかく持ち上げた。片手には、リボンの結ばれた小さな包みが提げられている。
「十六歳おめでとう、アリア」
私は包みを受け取らなかった。膝の上の箱を、両手でそっと引き寄せた。
彼は断られた手を自然に引っ込めると、その手で自分の顎を撫でた。
「心を込めて選んだ贈り物なんだがな、残念だ。代わりに、別の贈り物をやろう。当分のあいだ、グランデル家には気をつけたほうがいい」
「……それは、どういう意味ですか」
彼は何も答えず、相変わらず笑った口元のまま、けれど笑っていない目で私を見る。
街灯がじりっと音を立てて灯る。足元へ長く伸びた二人の影が、夕焼けと人工の光のあいだで、奇妙に重なり合った。
私は服の裾を握る手に力を込めた。そして顔を上げ、彼をまっすぐ見据えて、もう一度口を開く。
「……エルヴァン・グランデルは、黒魔術を使って魔物にやられました。調査官も、そう結論を出しています。グランデル家が私を狙う理由が、どこにあるんですか」
「ほお」
キリアン叔父の眉が、わずかに上がった。
それから彼は腰をかがめ、私のほうへ顔を近づけてくる。
手がゆっくりと上がり――私の頭の上に乗った。フレイヤが丁寧に編んでくれた結び目を、その指がなぞり下ろした。
背筋に鳥肌が立つ。
開花の茶会のときと、まったく同じ手つきだった。あのときも彼は、こうして私の頭を撫でながら笑っていた。
指が横の髪のどこかで一瞬止まったかと思うと、何かをつまみ上げた。彼は手を引きながら、私の目の前にそれを広げてみせた。
小指の爪よりも小さな、滑らかな石のかけら。淡い灰色の表面に、細い紋様が刻まれている。
「……何ですか、それ」
「盗聴器だよ。人の声の振動に反応して、その主の言葉だけを選って拾う」
彼はそれを指先でくるりと転がした。
息が止まる。
いつから。茶会の日からだとしたら――
ほとんど反射的に手を伸ばす。けれど彼の手は軽く上へ上がり、車椅子に座った私の腕は、その高さに届かない。宙を掴んだ指が、力なく震える。
キリアン叔父はその手をじっと見下ろすと、盗聴器を懐の内ポケットへしまった。そして、にやりと笑って言う。
「すっかり一人前の淑女になったものだな、アリア」
その言葉が、一拍遅れて胸に届く。
日常のどんな私事のやりとりまで、すべて盗み聞かれていた――そう悟った瞬間、耳たぶが、かっと熱くなる。同時に、みぞおちの奥が冷たく固まった。
私は膝の上の箱の角を、爪が白くなるほど握りしめた。
「……変態が」
喉の奥で、押し潰すように絞り出した声だった。
彼は表情ひとつ変えず、言葉を継ぐ。
「ともあれ、この中に入っている内容の一部は、すでにグランデル家の長男――バスティアン・グランデルにも流してある。ただし、口頭でな。証拠は、この私の手の中にだけある。だから向こうも、私を迂闊には触れない」
「……」
「この件がすべて決着して、私の安全が保証されたあとに、これを渡す約束になっている」
彼は自分の胸元を、指先でとんとんと叩いた。
私は彼を鋭く見上げて尋ねる。
「それを……どうして私に教えるんですか」
「……あまり一方的すぎても面白くないからな。個人的な余興、とでもしておこう」
彼はそう答えると、眼鏡をかけ直して言葉を続けた。
「だから、お前はやつらにとって二つの意味がある、アリア。ひとつは、エルヴァンの死に対する復讐の相手。そしてもうひとつは――」
私は彼の言葉を遮った。
「私の目を利用した、オルネン家の没落。つまり……夏の議会が開かれる前に、彼らの理想を実現させてくれる、切り札」
キリアン叔父の表情が、初めて止まった。ほんの一瞬、笑みが消え、また浮かび上がる。
続けて言葉を継いだ。
「風力石と遮断杭。それが一体何だというんですか。夏の議会の貴族たちが二つに割れて、グランデル家はここまでしてオルネン家を没落させようとするなんて」
「……ほお」
彼は短く感嘆した。けれど、それきりだった。
「それは、いまの話とは別だ」
彼は口を閉じ、身なりを軽く整えた。
陽はもう、ほとんど沈んでいる。私は街灯の光の下、彼の表情をひとかけらでも多く読み取ろうとしたが、その表情は何ひとつ変わらなかった。
キリアン叔父が身を翻した。そしてふと、首だけを軽く回して私を見る。
「今回も無事に乗り切れたなら――そのときは、本物の贈り物をひとつやろう」
「……本物の贈り物?」
「知りたいことがあるなら、私の知る限りでひとつだけ、答えてやる」
そう言うと、彼は軽い足取りで闇の中へ遠ざかっていった。規則正しい足音がだんだん小さくなり、やがて消える。
私はしばらく、その場に座り込んでいた。
頭の中で、クロノアが慎重に話しかけてくる。
『……アリア、あの人間さ。どこまで知ってるの?』
私はすぐには答えられなかった。代わりに、いま彼が漏らした言葉を、ひとつずつ辿り直した。
「人の声の振動にだけ反応する……たぶん、認識型の盗聴器です。私の声を選んで拾うぶん汎用性は低いけど、魔力の消耗が少なくて、長く効くのが利点なんですよ」
『じゃあ、アリアが鳥になれることは、知らないってこと?』
「恐らくそうです」
襟の下、胸元の傷跡に手を添えた。
「でも……私が黒魔術を使ったこと、それからエルヴァンの死に直接関わっていることは、確実に知っているでしょうね」
『じゃあ、またグランデルのやつが追ってくるってこと……?』
私は顔を巡らせ、学院の南のずっと向こうを見つめた。闇の上に、真っ白な灯りだけがぽつぽつと浮かび上がっている。
「……バスティアン・グランデル。でも、彼を含めたグランデル家の主要な人たちは、今ごろは南の他国へ向かう使節団に加わっている時期です。戻ってくるまでには、少なくとも二週間はかかるはず」
『二週間……二週間か……』
「ひとまず、そのあいだに何とか方法を見つけないと。そもそもキリアン、あの人間の言ったことが、どこまで本当なのかも分からないんですから」
車椅子を回し、寮の玄関へと車輪を進めた。
玄関の灯りが近づくほど、車椅子を押す手が細かく震えてきた。車輪をさらに強く握りしめても、その震えは、なかなか止まらなかった。




