27話「隠し箱」
夏のプールは屋外にあって、白い大理石の柱がぐるりと囲んでいる。
陽を受けた水面が細かく砕けて煌めき、縁に沿って並ぶ背の高い木々が、片側に涼しい影を落としている。水の上には、清らかな水の匂いと草いきれが淡く漂っていた。
私は日陰になった一角に車椅子を停め、座っていた。
影のおかげで、そう暑くはない。それでも過去のリハビリを思い出しながら水を眺めているだけで、冷や汗が止まらなかった。
背筋を伝った汗が水着の布に染み、肌へじっとりと貼りつくのが、ひどく不快だった。それでも私は、水着の上に羽織った薄いカーディガンの袖を、ぎゅっと握りしめた。
前方では、魔物の襲撃から私を見つけ出した中年の剣術教官が、よく通る声で喋り立てていた。片手には黒い手袋、その上から銀色の鉄でできた義手が、肘まで伸びている。
「さあ――お前たち、今年も夏が来たぞ! 去年よりみっちり水泳をやらせるからな、覚悟しておけ!」
「ええええ……」という学生たちのぼやきが、あちこちで上がった。
すると、隅にしゃがみ込んでいたフレイヤが、ぶつぶつと言った。
「先生、でも王都には水もないのに、どうして毎年泳がなきゃいけないんですか……」
教官は歯をにっと剝き出して笑い、フレイヤを見た。
「おう! いい質問だ、フレイヤ! それはな、王国にはあちこちに大きな川や湖があって、東には広い海が囲んでいるからだ! なにより、ソルベルグ家の領地はまさに海の目の前だろうが」
「うえ……でも、ただ水に入らなきゃいいだけじゃ……」
「こら! それが甘いんだ! 水泳は必須中の必須だ! よし、それじゃあ全員、準備運動からだ!」
そうして学生たちは順に体をほぐし、列をなして水へ入り、泳ぎ始めた。
水が割れ、白いしぶきが立つ。腕が水面を打つたび、陽を含んだ水滴が四方へ散った。
まっさきにカシアン様が目に入った。無駄のない動きで水を切り、誰よりも滑らかに前へ進んでいく。
濃い紺色の簡素な水着姿。水の外へ覗いた腹筋は引き締まり、今ではうっすらと傷跡だけが残っている。その溝を伝って水が流れ落ち、濡れた髪はぺたりと垂れて、目元のあいだに貼りついていた。
私は指先をもぞもぞと動かしながら彼を見ていたが、ふと視線を逸らした。すると、同じように彼を盗み見る、ほかの女子学生たちの視線が気になった。
指先に、ぐっと力がこもった。
そのとき、セドリックが荒い息で、青ざめた顔にタオルを巻いたまま私の横へ歩いてきて、どさりと座り込んだ。
「セドリック様……大丈夫ですか?」
彼は濡れた髪を左右に短く振り、私を見た。
「はい……平気です……久しぶりに泳いだら、血圧が……」
それだけ言うと、膝のあいだに頭を突っ込んだまま、ぴくりとも動かなくなった。
そっと手を伸ばそうとした矢先、誰かがすぐ目の前で、セドリックの肩に手を置いて座り込んだ。水がぱらぱらと滴り、地面を濡らす。
フレイヤだった。彼女は笑って私を見た。
「ぷはっ、久しぶりに泳ぐと爽快だね。ね、セドリック?」
セドリックは沈黙した。
「具合が悪そうだから、あんまり構わないほうがいいと思うけど……」
「えっ? 具合悪いの?」
彼女はいっそう体を密着させ、彼の背中をぽんぽんと叩いた。そしてすぐ、また私を見る。
「そうだ、アリア! 明日の誕生日パーティー、授業が全部終わったら中央庭園で! 忘れちゃだめだよ!」
「フレイヤ、いいってば。誕生日パーティーなんて、いらないから」
「セドリックとカシアン様も来てくれるんだよ? それにエレオノーラももういないし、誰も邪魔しないから、平気平気」
私は顔を伏せて地面を見た。石の隙間へ染み込んでいく水の筋を、じっと目で追う。
「ふうん……じゃあ、まあ、しょうがないか……」
不意に、フレイヤの慌てた声が聞こえてきた。
「セドリック? セドリック!」
横を見ると、セドリックが横向きに倒れ込んでいた。
「先生! セドリックが倒れました!」
教官は駆け寄りながら、軽く眉をひそめた。
「おいおい、またか。フレイヤ、行って早く担架を持ってこい」
「はいっ!」
教官はセドリックを横たえ、足を持ち上げた。そして彼の顔を見て、舌打ちする。
「まったく、だから外れていろと言ったのに。何の意地を張って泳ぐなんて……」
セドリックはそうして担架で保健室へ運ばれ、その日の水泳の授業は、ばたばたと幕を閉じた。
***
陽がすっかり沈んだ宵の口。
私は寮の窓辺に、鳥の姿で止まっていた。
「それでクロノア様、魔力封印について、何か思い出したことでもあるんですか?」
『う、うーん。ふむ……』
私は首をふるふると振った。
「ちょっと考えればわかりそう、って言っておいて、まるっきり口から出まかせじゃないですか……」
『いや……違うってば。ひとつは、つまり――』
「私がクロノア様と初めて会ったときは、私の魔力で巻き戻したんですよね? なら、死ぬ直前には封印がゆるむ。それ、もう十回以上は聞いた気がします……でも、それを試して死んだら意味がないじゃないですか」
『うっ……』
私はしばらく黙ったあと、羽ばたいて窓の外へ舞い上がった。わずかに湿り気を含んだ、生ぬるい夏の夜風が、羽根のあいだをやわらかく撫でていく。
「じゃあ、カシアン様と一緒にいると、ときどき傷跡のあたりが痛むのは、何か理由があるんでしょうか? ひとまず、封印と傷跡が関わっている見込みは高いですし……」
『そこがよく分からないんだよね。普通、封印ってすごく複雑だから、そんなふうに細かく個人を狙って条件をかけるのは難しいはずなんだ』
「はあ……」
そんな短い溜め息をついた矢先、私はいつの間にか、カシアン様の部屋の窓の前にたどり着いていた。
小さく開いた窓の隙間から入ると、まず目に入ったのは、部屋の片隅に置かれた小さな鳥籠と、それより少し大きな鳥籠の中で餌をついばむソリアだった。
そしてその後ろの、王国地図。
初めてこの部屋に来たときは、北の果ての北進城砦にだけ引かれていた黒い線。それが今では、ずいぶん南へ――白峰の裏にそびえる霊門山脈のあたりまで、幾重にも引かれていた。
机の前では、カシアン様が一枚の手紙を手に、眉間を押さえたまま見入っていた。
音もなく机の上へ降り立ち、彼の前まで進んで、手紙を覗き込む。
カシアン様が、私の頬を撫でた。
「ププ、今日は少し遅かったな」
手紙には、夏の議会の事前調査の結果と、北の黒い災い――黒雪への対策がまとめられていた。
争点は、風力石の改良と北部への供給。賛成派はルーンヘルム王家やソルベルグ、オルネンといった見覚えのある家名、反対派はグランデル公爵家を筆頭にファルケンベルクなど。双方はほぼ同数で、拮抗していた。
カシアン様はやがて手紙を静かに折りたたみ、いつものように錠のついた小さな箱へしまった。
「君は手紙を見るたび、いつも俺の前に来ているな。本当に、文字でも読もうというのか」
私は答える代わりに、彼の手のほうへ寄って身を預ける。
彼がもう一度、指で耳の付け根を掻いてくれると、体がとろりとほどけていく。くすぐったく気だるい感覚に、自然と目が閉じた。
「野外授業から戻ってきてから、ずいぶん甘えるようになったな。最初は、あんなに警戒していたくせに」
カシアン様が顔を近づけ、目元の力をゆるめて私を見た。
ふと、視界の片隅、手紙の入った小箱の後ろに、それと似た大きさの別の箱が目に入った。素材は木のようだが、その上には可憐な花の絵が、いくつも整然と描かれていた。
初めて見る箱だった。
すぐにそちらへ近づいた。けれどすぐ、カシアン様が手で遮った。
手の隙間をくぐり抜けて再び近づいても、また塞がれる。
「これは大事なものだ。触れるな、ププ」
私は嘴をつんと突き出し、その手の甲をこつんとつついた。
手紙はああして目の前で読ませておきながら、この箱だけは頑として隠すなんて。
ソリアには見せたのだろうか――そこまで考えが及んだ瞬間、私は思わず、鳥籠の中のソリアのほうを、一度じろりと睨んでしまった。
ソリアは嘴に殻をつけたまま、ただ餌をついばみ続けていた。




