26話「長光月」
ねじれた時計が氾濫する廊下を、私は必死に這っていた。果てなく続く秒針の音が、足元で狂ったように鳴り響いている。
「あの……! 誰か、いませんか……!」
叫んでも、返ってくるのは反響する自分の声だけ。
その時、ひとつの影が私を覆った。顔を上げる。
金色の髪に、丸く青い瞳をした少年。彼がこちらへ手を伸ばしてくる。その手は、すぐに私の首を掴んだ。
「かはっ……!」
「どう? 僕がいなくなって、満足か?」
両手でその手を必死に押しのけても、びくともしない。
「違う……私が殺したんじゃない……」
首を絞める力が、じわじわと増していく。彼は血の涙を流しながら笑った。
「君にわかるか? 全身を何十もの牙に引き裂かれて、溶けていくこの気分が!」
その絶叫が耳の奥で響き、視界が闇に染まっていった。
***
「はっ―!」
がばっとベッドから身を起こした。
窓からは未明の淡い光が差し込み、部屋を青く濡らしていた。まだ陽も昇りきらない、灰と藍の入り混じる時間だった。
目の前にはいつもどおり寮の机と、その脇に置かれた魔導車椅子。
魔物の襲撃のあと学院へ戻って、もうひと月。時はあっけなく過ぎ、一年でいちばん日の長い夏の季節――長光月が訪れていた。
この一か月、私は自分の魔力封印の糸口と、お母様の弱みを探ろうと、イリアお姉様の部屋を何度も出入りした。けれど、何ひとつ見つからなかった。
うなじの冷や汗を拭い、顔を何度かこすってから、車椅子へ乗り移り、車輪を両手で力いっぱい回した。車椅子の魔力石が壊れて、もうずいぶん経つ。
そうして衣装棚の前まで進んだ。
――エルヴァンは死んだ。私をいじめていた学生たちも、もう私に手を出さなくなった。
それでも、衣装棚の鏡に映る目の下のクマは、日に日に濃く滲んでいった。
半袖のブラウスに夏服のスカートを身につけ、顔を洗って戻ると、窓の外を眺めた。
寮の下では、よく整った街並みが朝焼けのなかで目を覚ましつつあった。石畳の道、赤い屋根の店、アーチ型の窓が並ぶ邸宅。いつもと変わらない王都の街。
変わったといえば、いっそう生い茂った濃い緑の街路樹と、未明から鳴きかわす鳥たちの声くらいだ。
机に向かい、手垢で擦り切れたノートと、本を何冊か取り出す。
『位相学序説』、『獣の変異と疫病についての考察』、『封印魔法概論』。
そうして、人よりやや早い一日が始まった。
***
長光月一日、昼休みの食堂。
向かいでは、フレイヤがトレイの料理をフォークでつんつんと突いていた。
バターで焼いた白身魚に、レモン色のソースが艶やかにかけられ、横にはぷっくりとした海老とホタテが行儀よく並んでいる。
私は彼女を見て言った。
「フレイヤ、いつまで好き嫌いするの……」
「だって……お肉じゃなきゃ嫌なんだもの」
私はフォークで海老をひと切れぐさりと刺し、口に運んだ。弾力のある身から、ほのかな塩気と淡い甘みがにじみ出る。
「だから先に行って食べてって言ったでしょ。どうして待つの」
「だって私が先に行ったら、アリアいつも私を置いて、カシアン様とだけ食べるんだもの……」
フレイヤは皿の魚をフォークでつつき回しながら、ぽつりと言った。
「それは、そうだけど……」
すると、フレイヤの隣にいたセドリックが、自分の皿を彼女のほうへ押しやった。半分ほど食べたステーキがのっている。
「あの……よかったら、これ食べる? 口はつけてないから、きれ―」
言い終わるより早く、フレイヤは目を輝かせ、フォークで肉を丸ごとさらって自分の皿に運んだ。
「ほんと!? セドリック最高! この恩は忘れないから!」
そう言って、ひと口で平らげてしまった。
私は彼女を一度見て、それからセドリックを見た。彼は口を半分開けたまま、フレイヤの食べる姿をぽかんと眺めている。
「ごめんなさい……」
「い、いえ。どうしてアリアが謝るんですか」
ふと、視界の向こうの時計が目に入った。もう十二時半を指している。
トレイを膝にのせ、車椅子を動かした。
「じゃあ、私は先に行くね」
「えっ、もう行くの? また教会?」
「うん。面談があって」
「飽きないね。ちょっと待って、私が押すから」
「平気、そんなに遠くないし。じゃあ、行くね」
そうして口をもぐもぐさせるフレイヤと、そっと手を振ってくれるセドリックを背に、食器を返して食堂を出た。
***
学院の片隅、蔦の這う小さな石造りの礼拝堂。中へ入ると、高い窓から差す光が信徒席のあいだを長く横切り、空気には蝋と乾いた花の匂いがかすかに染みついていた。
真昼だというのに、堂内はひんやりと静まっている。
祭壇の前に座ると、白い法衣をまとった女司祭が近づいてきた。
肩を少し越える淡い金髪に、静かに沈んだ緑の瞳。法衣の胸元には星の文様が縫い取られていたが、白峰で見たリーネ司祭のものより、星の数は少なかった。
彼女――アストリッド司祭は、私の胸元、襟の下の異端の刻印がある場所へ、そっと手を添えた。王都に戻って以来、私を専属で受け持ち、面談と祈りを担ってきた人だった。
「星様よ、道に迷いし者の夜を照らしたまえ」
彼女は目を閉じ、低く唱えた。手のひらから淡い温もりが広がり、傷跡へと染み込んでいく。
祈りが終わると、アストリッド司祭は柔らかな目で私を見た。
「今週はいかがでしたか。つらいことは、ありませんでした?」
「……はい。大丈夫です」
いつもどおり、そうとだけ答えた。
彼女はそれ以上問わず、微笑んで頷いた。そうして短い面談を終え、車椅子を返して出ようとして、私はふと手を止めて尋ねた。
「あの……あのときの魔物について、ほかに分かっていることはありませんか? ほかの魔物が現れた、とか……」
司祭はしばらく私を見つめる。そして、相変わらず柔らかな、けれどひと皮かたい声で言った。
「それは、アリア様が気になさることではありません」
私はしばらく彼女の両目を見つめてから、小さく頭を下げて礼拝堂を出た。
昼休みは、もう終わりかけていた。
礼拝堂の扉を出ると――カシアン様が、柱のひとつに背を預けて立っていた。
黒い髪が夏の風に揺れ、半袖のシャツからのぞく腕は引き締まっている。
一瞬、胸の奥がぱっと明るくふくらんだ。思わずゆるみかけた口元を、私は急いで引き結び、なんとか表情を抑える。そして、彼の前へ近づいた。
「カシアン様? どうしてここに……」
「フレイヤから聞いた。君が教会に行ったと」
彼は短く答えると、私の車椅子の取っ手を握った。
「面談で昼も一緒に食べられなかったな、すまない。次は水泳の授業だろう。行くぞ」
「いえ……カシアン様が謝ることなんて。私のほうこそ、申し訳ないです」
そうして彼は車椅子を押しながら、プールのほうへ歩き出した。
よく均された玉砂利の上で、木の葉の影が踊るように揺れる。その揺らめきに合わせて、私の口元も軽く上がった。
不意に、胸の下、古い傷跡のある場所が、重く疼いてきた。
胸元の服を手で握りしめる。眉間が、ひとりでに寄った。
「アリア? また、そこか」
カシアン様が歩みをゆるめ、私を見下ろした。
「見るたびに、一度はそこを押さえて痛がっている気がするが」
「……大丈夫です。前のあのことで、後遺症が少し残っていて」
そう言い繕って、手を離した。
だが、私は知っていた。彼が慰めてくれたあの夜以来――彼と一緒にいると、ときおり傷跡のあたりがこうして重く疼くことを。後遺症などではない、ということを。
カシアン様がまた声をかけてきた。
「それより、車椅子の魔力石はまだ手に入らないのか」
「はい……両親に葉書は送ったんですが、何の返事もなくて」
「そうか。そうなのか」
短くそう返す彼の声が、なぜだかいつもと少し違った。ぶっきらぼうな語尾の端に、かすかに弾んだ気配がにじんでいる。
横目で見上げても、彼は前を向いたまま、表情ひとつ変えない。
聞き違いだろうか。私は、ただ首をかしげるだけだった。
庭を横切る道の先から、水の匂いがかすかに漂ってきた。夏の陽射しに温められた石畳のあいだに、プール特有のひんやりとした気配が混じり込む。
その変化が何だったのか、そのときの私には分からなかった。そのかすかな気配の正体を知るのは、もう少しあとのことだった。




