25話「価値」
涙は止まっていた。それでも目の奥はまだ熱く、もう出るはずのない涙が、何度も込み上げてきた。鼻は詰まりきって、空気一つ通らなかった。
クロノアが声をかけてきた。
『アリア……もう泣かないで。エルヴァンは死んだし、あの母親だって、少しずつ返していけばいいでしょう』
私は鼻から無理やり息を吸い、答えた。声は詰まり、ひどく濁っていた。
「どうやってですか……? 私が知っている未来という武器まで、もうなくなったのに」
『また鳥になればいいよ! 前みたいに弱点を探して飛び回ればいいし、どうしても駄目なら黒魔術だってある!』
私は顔を横へ向け、窓の外を見た。王都よりずっと青い月明かりが、淡く部屋へ差し込んでいる。
両手で自分の腕を強くつかんだ。
「疲れました……。痛いのも嫌です。怖いのも嫌です。それで、関係のない人まで傷つくのも、もう嫌なんです」
『でも……このまま卑屈にうずくまっているの? グランデル家の誰かが、また君の目を狙って来るかもしれないんだよ』
私は長く息を吐いた。
「それなら、いっそ好都合です。全部終われば、ようやく楽になれるかもしれません。そもそも、過去なんて戻ってこなければよかったのに」
『アリア! そんなこと考えちゃ駄目! それに、じゃあわたしはどうなるの』
私は腕に爪を食い込ませ、尖った声で返した。
「自業自得でしょう。時の精霊なのに……肝心な時に、時間も戻せないくせに」
『それは……』
「それは、私が魔力もない半端者だからですよね」
クロノアは少し黙った。そして、急に声を明るくした。
『そ、そうだ! 魔力がないんじゃなくて、封印されているんでしょう? それを解けばいいんだよ!』
「どうやってですか? 封印されていると分かっただけで、手がかりなんて何もありません。この脚で家まで戻って、母を問い詰めろとでも? 今度こそ追い出されて、どこかで攫われるだけかもしれないのに」
『……』
そのあと、私は何も言わなかった。ただ口を閉じ、月明かりの中で揺れる埃だけを見つめていた。
しばらくして、クロノアがまた口を開いた。さっきよりも、ずっと落ち着いた声だった。
『でも、ほら。フレイヤもいるし、イリアもいる。何より、カシアンもいるでしょう。君を大事に思っている人は、思っているより多いんだよ。ね?』
私はそばに置いていたスケッチブックを持ち上げた。笑っていた少年の絵の上に、血を流し、苦しげに顔を歪めるカシアン様の姿が重なる。
私は目を強く閉じた。
「いいえ。これからは、カシアン様とも距離を置きます。私がそばにいると、あの方は傷つくだけです」
不意に、扉の外から、小さな音が聞こえた。車輪が床板を転がり、とん、と小さく継ぎ目を越える音。
音は少しずつ近づき、やがて扉の前で止まった。
私は息を殺し、扉を見つめた。
小さく軋む音を立てて、扉が開いた。
部屋に入ってきたのは、車椅子だった。間違いなく、私の魔導車椅子だった。
最後に見た時は、あちこち欠け、壊れていたはずの車輪が、まっすぐな形に戻っている。摩耗していた手元の部分まで、きれいに直されていた。
その車椅子を押していたのは――月明かりさえ吸い込む黒い髪と鋭い二つの目。白い頬には、あちこちにかさぶたが残り、片脚をわずかに引きずっている。
カシアン様だった。
彼は部屋に入るなり、私を見て目を見開いた。すぐに少しだけ視線を逸らし、頬のかさぶたのそばを指で掻く。
「アリア……目を覚ましたと聞いたが、本当だったのだな」
もう絞り出す涙も残っていないと思っていた。それなのに、また目の奥が熱くなる。
私は小さく口を開き、いくつかの言葉を唇まで押し上げた。結局、何も言えずに口を閉じた。
彼は、また私を見て言った。
「もっと早く来るつもりだったのだが、見張りの兵がうるさくてな」
彼は車椅子をベッドの前に止めると、少し足を引きずりながら近づいてきた。腰をかがめ、私の顔へゆっくり手を伸ばす。
「まだ痛むのか。重傷だとは聞いていたが……顔色が悪い」
私は顔を横へそらし、その手を避けた。スケッチブックを胸の前へ引き寄せ、強く握りしめる。
「大丈夫です……私は大丈夫ですから、気にしないでください」
「……俺が君を守れず、情けなく倒れたから、失望したのか」
「違います」
「では、やはり俺が遅く来たことが不満なのか」
何も答えず、唇を強く噛んだ。目をきつく閉じる。肩が細かく震え始めた。
カシアン様は少し間を置いて、私の肩へそっと手を置き、自分の方へ向けた。
「なぜそんなに震える。まだ身体が痛むのではないか。すぐに医師を呼んでくる」
その瞬間、熱いものが目からこぼれ落ちた。同時に、胸の奥から声が突き破って出てきた。
「放っておいてください! 私なんか、もう構わないで!」
私は荒く息を吸い込み、カシアン様の顔を見上げた。
彼は眉間をわずかに寄せた。喉仏が一度動き、それから口を開く。
「待て、アリア。急に何を――」
「私といると、カシアン様は傷つくだけなんです! 私は歩けない、魔力もない……何の役にも立たないんですから!」
カシアン様は私の両肩に手を置いた。
「俺が傷を負ったのは、君のせいではない。ただ、俺がやるべきことをしただけだ。それに、半端者とは何だ。君は勉強もできる。絵も描けるではないか」
「勉強だって、カシアン様の方がずっとお出来になるじゃないですか! それに、私の絵なんて……何の役にも……」
彼は揺らがない目で、まっすぐ私を見た。
「俺は君の絵が好きだ」
そして、言葉を続ける。
「二本の脚で歩ける。魔力がある。力がある。だから何だ。俺の前には、贈り物や夜会の招待状を抱えて近づいてくる者がいくらでもいる。皆、俺を俺として見てはいない。だが、君は違った」
そう言って、私が抱えていたスケッチブックに手を添えた。私の指が緩むのを待って、静かに受け取った。
「何の偏見もなく、俺に色鉛筆を渡してくれたのは君だろう」
スケッチブックを見下ろす彼の瞳が、わずかに揺れた。
「見ろ。見事な絵だ。これほどのものを描ける君を半端者と呼ぶ者がいるなら、俺の前へ連れてこい。俺が価値を認めたものを見抜けぬ、つまらぬ目の持ち主だと教えてやる」
私は口を開いた。けれど、出てきたのは、ひく、と引きつる息だけだった。
涙なのか鼻水なのかも分からないものが頬を伝い、口の中へ流れ込む。塩辛い味が、舌の上に広がった。
カシアン様はスケッチブックをベッドの上に置いた。
そして次の瞬間、私の後頭部をやさしく包み、自分の胸へ引き寄せる。
どくん、どくん。
服越しに伝わってくる心臓の音が、腫れた頬を内側から温めていく。
つんとした消毒薬の匂い。その奥に、木の皮と湿った土が混じった、かすかな青い匂いがある。
彼は、ゆっくりと私の髪を撫でながら言った。
「これほどの目に遭ったのだ。心まで折れそうになるのも無理はない。だが、アリア。二度と自分を半端者などと言うな」
短い沈黙のあと、彼はまた口を開いた。
「だから、胸を張れ。君の価値を、他人の言葉で決めるな」
その言葉を聞いた途端、食いしばっていた顎から力が抜けた。
私は彼の背中をぎゅっとつかみ、その胸に顔を深く埋めた。声が喉の奥からこぼれ、やがて抑えきれない泣き声になった。
お母様の前でも、一人きりの病室でも、最後まで出てこなかった泣き声だった。
月明かりは変わらず青く部屋を満たし、彼の手は、私の頭の上でいつまでも止まらなかった。
ーーーーー
作者のうめ紫蘇です。
25話まで、約10万字近くお読みくださり、本当にありがとうございます。
ブックマークはまだ5件と小さな作品ですが、読んでくださる方がいるおかげでここまで書き続けることができました。
25話をもって第一部は完結となります。明日からは26話、第二部としてお届けします。
伏線や世界の秘密、そして王子との溺愛展開も、これからじっくり描いていく予定です。
引き続き応援していただけると嬉しいです。ブックマークや評価も、大変励みになります。




