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24話「嗚咽」

 窓の外には、変わらず白峰の景色が広がっている。


 濡れた布を手に、看護師が入ってきた。私が目を覚ましていることに気づくと、驚いた顔で立ち止まる。


 私は、一週間近く意識を失っていたらしい。


 目覚めたことが知られると、紙とペンを携えた王国調査官から、長時間にわたる聴取を受けた。


 エルヴァン・グランデルの死について。


 北の森で見た魔物について。


 あの場で、何が起きたのか。


 質問には正直に答えた。ただし、自分が黒魔術を使ったことと、鳥になって魔物を引きつけたことだけは伏せた。


 魔物は魔力のない私を弾き飛ばしたあと、興味を失って通り過ぎた――そう説明した。


 一方で、私がカシアン様について尋ねるたび、返ってくる答えは「生きています」の一言だけ。それ以上は、何ひとつ聞かせてもらえない。



 最後に調査官は、魔物については決して口外しないよう厳しく(くぎ)を刺し、部屋を出ていった。


 聴取が終わると、特にすることもなくなった。


 看護師に頼んで鞄を持ってきてもらい、スケッチブックと鉛筆を取り出した。


 線を何度も引き直し、まだ色をつけられずにいた絵。その続きを描き始めた。




 絵に向かっているうちに、一時間ほどが過ぎた。


 二度、扉が叩かれた。胸元に星の文様を縫い取った白い法衣(ほうえ)の女司祭が、部屋へ入ってくる。


 彼女は病床のそばにある小さな椅子へ腰を下ろした。


 濃い茶色の髪は、肩口で真っすぐに切りそろえられている。澄んだ青い瞳が、こちらへ向けられている。


「アリア・オルネン様。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


 その声は透き通っていて、それでいて芯があった。


 私は返事の代わりに、異端の刻印がある胸元へスケッチブックを引き寄せた。


 司祭の目元が和らいだ。


「自己紹介が遅れてしまいましたね。私はリーネ。白峰教会で司祭を務めております」



 リーネ司祭は、包帯と()()に目を落とした。


「何より――最初に運ばれてきた時は、本当にひどいお怪我でした。ここまで回復されて、よかったです」


 張りついていた唇を、ようやく開いた。


「私をここまで運んでくださったのは……司祭様なのですか……?」

「いいえ。カシアン王子殿下を発見した教官の方々が、魔物の近くに倒れていたアリア様も一緒に運んでくださいました。私は応急処置をしただけです」


 胸元を押さえ、声を落とした。


「では……見たのですか?」


 彼女の笑みが、ほんの一瞬だけ止まる。それから、静かに答える。


「はい。あの状態で運ばれてきましたので。ですが、ご安心ください。夜で暗かったですし、はっきり目にしたのは私だけです」


 乾いた喉へ、唾を押し込んだ。


 リーネ司祭は落ち着いた声で続けた。


「今日は、その件についてお話を伺いに参りました」


 彼女は懐から、ところどころ変色し、朽ちかけたスクロールを取り出した。それを広げ、私に見せる。


「これは、エルヴァン・グランデル様の遺体の懐から見つかったものです。損傷がひどく、完全には読み取れません。ただ……黒魔術のスクロールであることだけは確かです」

「遺体……ですか?」

「はい。魔物の体内から見つかりました。皮膚の損傷が激しく、原形はほとんど残っていませんでしたが……状況から、本人と判断されています」


 片手で口を覆う。胃が裏返り、酸っぱいものが喉元までせり上がる。


「うっ……げほっ、げほっ……」


 司祭が駆け寄り、背中に手を添える。咳き込む呼吸に合わせ、ゆるやかに撫でてくれる。


 咳が収まるのを待って、彼女が口を開く。


「余計な記憶を刺激してしまいましたね。申し訳ありません」

「はっ……はっ……いえ……」

「では、失礼を承知で質問を続けます」


 椅子に戻ると、まっすぐ問いかけてくる。


「エルヴァン様が使った黒魔術と、このスクロールについて。ご存じのことがあれば、教えていただけると助かります」

「はい……?」


 私は「エルヴァン様が使った黒魔術」という言葉を、頭の中で何度も繰り返した。いつの間にか、彼女の手にあるスクロールを凝視していた。


 彼女が小さく首を傾げる。


 問いかけられていることに遅れて気づき、慌てて口を開く。


「あ……! はい、そうです。黒魔術……使ったのは、彼です」


 司祭の目が、わずかに鋭くなる。


「もう少し、詳しく覚えていらっしゃいますか?」

「たしか……」


 そこで口を閉ざした。下唇を噛み、震える声を絞り出す。


「アフネル・サエディン……そう言っていました」

「アフネル……サエディン……。肺を圧迫する術ですね。なるほど。では、このスクロールは?」

「それは……グリムナル族のワープスクロールだと、言っていました」


 司祭はスクロールと私の顔を見比べた。何も言わず、それを懐へ戻す。


 顔には、穏やかな笑みが戻っている。


「そうですか。他に、何か覚えていらっしゃることは?」

「いえ……それ以外は、何も……」

「分かりました。おつらいところ、ご協力ありがとうございます」


 彼女は小さく頭を下げ、立ち上がった。


「それから、退院して着替えるまでは、胸元の包帯を外さないでください。アリア様に罪はありません。ですが……余計な視線を集めないに越したことはありませんから」


 司祭が扉へ向かう。その背を、思わず呼び止めた。


「あの……! カシアン様は……本当に、大丈夫なのですか……?」


 彼女は顔だけをこちらへ向けた。少し口を開けて私を見つめ、それから穏やかに笑った。


「はい、もちろんです。カシアン王子殿下は――」


 言葉の途中で、扉の向こうから足音が聞こえた。靴が床板を早く叩く音だ。


「あら。もう、アリア様にお会いしたい方がいらしたみたいですね。機会があれば、またお話ししましょう」


 彼女はそう言うと、私ではなく扉の外へ向かって丁寧に頭を下げ、部屋を出ていった。


 司祭と入れ替わりに、白い髪が扉の向こうに現れる。


 続いて目に入ったのは、深い紺色のドレスと、片手に持たれた扇。扇に縫い取られた白い花の刺繍が、陽の光を受けて小さく光っている。


 とっさにスケッチブックを布団の下に押し込む。その端を握る指先から血の気が引き、爪の際が紫色を帯びていく。


 こつ、こつ。


 靴音が、目の前で止まる。


 伏せた先に、お母様の靴がある。つま先には、乾いた土がわずかについている。


「顔を上げなさい」


 命じられるまま、顔を上げる。細く縦に裂けた瞳孔が、冷たくこちらを射抜く。


 お母様は頬のガーゼに目を留め、私の手を取った。指先をなぞり、最後に胸の少し下へ手を当てる。


 手のひらの感触が、布越しに伝わってくる。


 彼女は目を閉じ、鼻から細い息を吐く。唇の端が、かすかに震えている。


 その震えに、目の奥が熱くなる。


 お母様の手が胸元から離れる。遠ざかりかけた袖を、親指と人差し指でつまんだ。


「お母様……私、怖くて……身体中が、痛くて――」


 言葉の途中で、お母様は袖を激しく振り、私の指を払いのける。


 一歩退き、扇で口元を隠す。先ほどの揺らぎは、冷えた双眸のどこにも残っていない。


「この虫けらが――能無しなら、せめて大人しく息を潜めておればよいものを。何を思って、このような厄介事を起こしたの」

「え……?」


 お母様は容赦なく続けた。


「それに――なぜおまえが、夜の森でカシアン王子と共に傷を負って見つかる」

「それは……魔物が――」


 最後まで言わせず、さらに問い詰めてくる。


「学院でも噂になっているそうね。あの方と親しくしていると」

「ただ……一緒に、絵を描いただけです……」


 バシッ、と乾いた音が響き、顔が横へ向く。顔を戻せないまま、床へ目を落とした。


「口答えをするな。まだ、そんな下らぬ絵を描いているのね。私がそのために、おまえを王都の学院へ送ったとでも思っているの」


 お母様が、深いため息を吐いた。


「誰に似たのか知らないけれど、身の程も知らずに王子へ()びを売るなど、(あさ)ましいにもほどがあるわ。おまえ一人が笑われるならまだしも、イリアの前途まで汚すつもり?」


 舌打ちが一つ落ちた。


 間を置かず、足音が扉を越え、廊下の奥へ遠ざかっていく。


 扉が閉まっても、顔を上げられなかった。


 やがて、唇が勝手に動く。


「どうして……どうして……。許さない……許さない……」


 布団の下へ隠していたスケッチブックを取り出す。


 短い髪と鋭い目元をした少年が、草原の上で鳥たちに囲まれて笑っている。その隣には、長い髪をした翼のある少女が座っている。


 スケッチブックの両端をつかみ、指に力を込める。


「こんな絵なんて……! 私なんかが、何を……!」


 喉を裂くほど高い声が飛び出す。


 紙の両端が、手の中で激しく震える。それでも、左右へ引き裂くことはできない。


 スケッチブックの端が、少し歪んだだけだ。


 絵の上に、水滴が落ちる。


 ぽつり。


 少年と少女の輪郭が、涙の向こうで滲んでいく。


 私はスケッチブックを抱きしめたまま、布団に顔を押しつけた。


 押し殺した嗚咽(おえつ)と途切れた息だけが、日が沈むまで部屋に残り続けた。

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