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23話「赤い雨」

 目の前まで、魔物が迫っている。焦点の定まらない二つの巨大な瞳が、じりじりと距離を詰めてくる。


『アリア、どうするの! 死ぬ死ぬ!』


 魔物との距離は、もう五歩もない。


 瞼を閉じ、歯が鳴らないよう顎に力を込める。


 頭の中で荒れ狂う思考を押しのけ、鳥の感覚だけを引きずり出す。


 身体が一気に縮み、空へ跳ね上がる。


 足元に落ちた服が、魔物の足に踏み潰される。黒い泥にまみれ、もはや服だったとは分からないほど、ぐしゃりと潰れている。


 遅れて、背筋から足先まで冷たいものが走る。


『……本当に死ぬかと思った。アリア、これからどうするの?』


 木の枝に降り立ち、息を整えながら振り返る。カシアン様を乗せた車椅子が、遅く、それでも止まらず進んでいる。


「カシアン様が逃げ切るまで、時間を稼ぎます」

『正気? この身体じゃ、かすっただけで丸ごと潰れるよ?』

「なら、当たらなければいいんです! 死にたくないなら、少しは手伝ってください!」


 頭の中で叫ぶ。


 魔物はこちらには目もくれず、カシアン様のいる方向へ歩き出す。


 慌てて翼を広げ、魔物の頭上を飛びながら問いかけた。


「どうしてカシアン様ばかり……。クロノア様、あれが何か分かりますか?」

『分からない。わたしもあんなの初めて見る。位相が絡まりすぎて、たぶん、位相喰(いそうぐ)いの影響じゃないかな……』

「全然役に立たないじゃないですか!」


 羽ばたきながら、魔物と遭遇してからの動きを一つずつ思い返す。


 エルヴァンを食べた。今はカシアン様だけを追っている。私が目の前にいても、ただ無視して歩いていく。


 ある考えが浮かび、カシアン様の頭上へ飛び、(くちばし)で髪を数本ついばんで引き抜いた。それを足でつかみ、魔物の前へ舞い戻った。


 魔物の瞳が、こちらを向く。


 口が開く。数十、数百の不揃いな(きば)が渦を巻き、その隙間でタールじみた黒い粘液が糸を引いている。


 腐った臭気が肺を押し潰し、吐き気が喉元までせり上がる。


 がちり、と(きば)が噛み合う。


 足でつかんでいたカシアン様の髪が数本、そこで断ち切られる。噛みちぎられたとは思えないほど、断面は不気味に整っている。


 魔物の瞳が足元の髪を追い、巨体がこちらへ向き直る。


「魔力……魔力です!」

『はあ……見ていられない』


 クロノアのため息を聞き流し、私は魔物の顔の前と、ねじれた角の間を何度も飛び回った。


 距離を取れば、魔物の意識はカシアン様へ戻る。だが、髪を差し出せば、巨体はこちらへ向き直った。


 口が、幾度となく開閉する。


 閉じる速さは瞬きほどだった。ただ、開く動きはそれほど速くない。


 それを数分繰り返すうちに、翼の先が痺れ始める。


 人の姿で殴られすぎたせいか、片目はほとんど見えない。足につかんだ数本の髪さえ、今では鉛の重りとなってぶら下がっていた。


 とうとう地面に降り、大きく口を開けて息を整えた。


 クロノアの声も、すっかり息切れしている。


『はあ、はあ……もう十分じゃない……?』

「まだ……宿舎までは……距離があります……」


 途切れ途切れに答え、肺いっぱいに息を吸い込む。


 翼を広げて飛び上がった途端、耳の奥で、きいん、と細い音が響く。


 視界が横へ揺れる。


 正面では、魔物の口が大きく開いている。


 全力で後ろへ羽ばたく。


 牙が鼻先の空を噛み砕く。


「危な――」


 言い終えるより早く、腫れた片目の死角から角が突き上がる。片方の翼が半ばから折れ、鈍く重い痛みが全身を貫く。


 悲鳴を上げる間もなく、針葉樹の幹に叩きつけられ、地面へ落ちる。


 痛みは、不思議なほど遠い。ただ、息を吸うたび、肺の奥で水がせり上がり、胸を内側から締めつける。


 クロノアの声が聞こえた。だが、もう言葉にはならなかった。低く濁った振動だけが、頭の中を這い回っている。


 薄れていく意識をつなぎ止め、喉の奥から声を絞り出した。


「……はっ……はっ……息が……」


 翼の先を動かそうとしても、ぴくりともしなかった。


(まだ……刻印も……消していないのに……)


 その考えを最後に、視界の端から黒い絵の具が滲み広がっていく。


 最後に聞こえたのは、こちらへ駆けてくる数人分の足音だった。


 霞む視界の向こうで、松明(たいまつ)の赤い光が揺れている。鋭い閃光が何度か弾け、意識は深い闇へ引きずり込まれた。



***



「はっ……!」


 息が詰まり、目が見開く。


 全身は冷たい汗で濡れ、心臓が肋骨を激しく叩いている。


 顔を上げて周囲を見回す。そこは、あらゆる色の絵の具で塗り潰された奇妙な空間だった。


 色と色が境目もなく滲み、混ざり合い、どこが床でどこが空なのかも分からない。


 虚空(こくう)のあちこちには、歪んだ時計が浮かんでいる。


 あるものは逆さに。


 あるものは止まったまま。


 あるものは針が歪んだまま。


 それぞれが異なる拍子で、虚空(こくう)を揺れている。


「ここは……どこ……」


 腕で地面を押し、とにかく前へ進んだ。


 何かを押している手応えだけはある。けれど、手のひらには何も触れていなかった。


 どれほど進んだ頃か、行く手に一人の影が浮かんだ。


 両脚を力なく投げ出して座っている、背中に小さな翼を持つ少女。淡く波打つ銀色の髪が、肩に沿って流れている。


 少女のもとへ近づいた。


「あの! あの、大丈夫ですか……!」


 返ってきたのは、返事ではなく、押し殺したすすり泣きだった。


「……っ、……う……」


 背後へ回り、手を伸ばした。


「大丈夫……ですか?」


 肩に触れた途端、少女はさらに激しく泣き始めた。指先から、肩の震えが伝わってくる。


 慌てて手を引くと、少女が嗚咽交じりに言った。


「わたしが……わたしが……殺した……」

「それは、どういう……」


 問い返しかけた足元に、赤い染みが広がり始める。


 空を見上げる。


 ぽつり、ぽつり。


 赤い絵の具の雨が、頬を濡らす。


 冷たくも、温かくもない。手の甲に落ちたそれは粘ついていて、拭おうとするほど長く糸を引いた。


 空に刻まれた無数の歪んだ時計が、それぞれ違う方向へ、不規則に回り始める。


 ふいに、冷えきった指が手首へ食い込む。


 声が聞こえる。


「ねえ――次は、誰を殺すの……?」


 息が喉の奥で震えた。恐る恐る視線を落とす。


 手首をつかんでいたのは、黒い墨に塗り潰された顔だった。裂けた口が、にたりと笑っている。


 少女の輪郭が、頭の先から崩れ始める。


 空間が壊れていく。赤い雨に混じり、身体まで溶け始めた。


 口を開けても、漏れるのは、ひっ、ひっ、という短い吸気だけ。


 私のすべてが、赤い雨の中へ溶け落ちた。



***



 まぶたの上を、淡い光がくすぐっていた。


 重い瞼を開けると、小屋の天井が見えた。枕元の棚には花瓶が置かれ、白い花が数本挿してある。


 ほのかに甘い香りが、鼻先を撫でた。


「う、っ……」


 身体を起こしかけると、頭の奥がずきずきと痛む。全身の筋肉が勝手に震え、骨盤のあたりが内側から引きつれて、鈍く疼く。


 眉間を寄せ、片手を持ち上げてみた。


 包帯と()()。片方の頬には医療用のガーゼが貼られ、身につけた薄手の白い寝衣(しんい)の下にも、あちこち包帯が巻かれている。


 顔を窓のほうへ向けた。


 かすかな鳥のさえずりが聞こえる。温かな陽射しの中で、部屋に漂う細かな埃が、きらきらと浮かんでいた。


 ――生きている。


 その事実が胸の奥まで染み込むまで、窓辺の光から目を離せなかった。

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