22話「覚悟」
カシアン様の背中に遮られて、前はよく見えなかった。
それでも、どんな顔をしているのか想像できるほど、苛立ちを押し殺した声でエルヴァンが言った。
「……その剣、我が家のものですね」
「そうか」
カシアン様は短く答えた。
エルヴァンは、はあ、と長く息を吐く。それから、どこか笑いを含んだ声で続けた。
「それなりに使える部下だったのですが。そんなふうに斬り捨てられると、胸が痛みますよ、カシアン第二王子殿下。それより――なぜ殿下がここに?」
カシアン様は剣を両手で握り直し、わずかに腰を落とした。以前、練武場で見たカエレン様と同じ構えだった。
「お前に二つの選択肢を与える。罪をすべて吐き、王法に従って裁きを受けるか。武器を取り、反逆者としてここで死ぬか」
視界の向こうで、淡い光がきらりと走った。エルヴァンは腰から短剣を抜き、指先でくるくると回しながら笑った。
「どちらも死ねということですよね。それなら……三つ目の選択肢をいただきます。ここであの女も殿下も殺して、何食わぬ顔で生きて帰る。いかがでしょう?」
「戯言を」
カシアン様が、剣の柄をさらに強く握り込んだ。
不意に、目の前の何もない空間で、風に揺れていた細かな木屑が歪む。
背中の小さな翼の先が、鈍く震える。私は考えるより先に、その場所を指さして叫んだ。
「カシアン様! そこに何かいます!」
直後、かん、と鋭い音が響いた。
カシアン様が、私の指した方へ剣を振り下ろしていた。その下で、空白だった場所に墨が流し込まれる。細長い黒い槍が、輪郭を持って浮かび上がる。
槍を握っていたのは、影さえ落とさない真っ黒な外套を、頭の先までかぶった長身の男。
フレイヤから聞いたことがある。
彼女の領地に時折現れるという、黒い外套をまとい、姿を隠して動く北方の少数種族。
影鱗族。
男は槍を立て、カシアン様の剣を受け流す。軽く数歩下がると、そのまま構えを整えた。
背後で、エルヴァンが短く拍手をした。そして、私を見る。
「さすが冠翼族。魔力の波には敏感なんだね。まあ、それでも大した問題じゃないけど」
言い終えるのと同時に、槍を持った男の姿が、足元から影へ溶けて薄れていく。
カシアン様はとっさに手を伸ばし、魔力で私の車椅子を自分の方へ引き寄せた。
「アリア! 逃げろ!」
「でも、カシアン様が……!」
「早く!」
その声に歯を食いしばって車椅子へよじ登った。そして、彼に背を向ける。
車椅子を最高速度で走らせた。
何度も振り返りそうになった。背後では、金属のぶつかる音が絶えず響いている。
唇の内側を噛むと、血の味が広がった。それでも、車椅子を握る手は止められなかった。
ふいに、頭の中で聞き慣れた声が響いた。
『うう……全身が痛い……。アリア、大丈夫? 何があったの?』
「クロノア様……」
その声を聞いた途端、目の奥が熱くなった。
「私……どうすれば……どうすればいいんですか……」
震える声で言いかけた時、車椅子がぴたりと止まる。
前進ボタンを爪が痛むほど押しても、少しも動かない。
背後から、ざっ、ざっ、と規則正しい足音が近づいてくる。その音はすぐ後ろで止まり、私の首をつかんだ。
「か、は……っ」
喉が締めつけられ、頭に血が上る。こめかみが脈打ち、目の前に赤い点がはじける。
エルヴァンが私を見下ろしていた。片手に持った短剣を、私の目元へ近づけながら。
「はあ……本当に面倒な女だね」
クロノアが叫んだ。
『アリア、黒魔術! 早く、わたしが支える!』
視界が黒く塗りつぶされていく。
見えないまま、指先の感覚だけを頼りに、首元の手へ指を伸ばす。
温かい体温が、指先に触れた。全身を流れるものへ意識を集め、細い糸を身体の外へ押し出す。
かすれた声で呟いた。
「アフネル……サエディン」
次の瞬間、首を締めていた力が消える。血が一気に頭へ戻り、視界がぐらりと回る。
両手で喉を押さえ、何度も咳き込んだ。息をするたび、喉の奥に針が刺さったような痛みが走る。
視線を落とすと、制服のブラウスの隙間からのぞいた胸元に、黒い線――異端の刻印が薄く浮かび上がっている。
前では、エルヴァンが頭を押さえてよろめいていた。
「おまえ……何を……」
彼はそのまま膝をつき、口元を押さえた。
「う……ぐ、っ」
黒赤い血が、指の間から止めどなくあふれ出す。地面へ落ちた血は広がり、黒赤い彼岸花をいくつも咲かせていく。
「ク、クロノア様……これは……」
私が知っているアフネル・サエディンは、相手の呼吸を締めつける黒魔術だと、クロノアから聞いていた。
しかし、目の前の彼は、止まらない血を吐いている。
クロノアは淡々と言った。
『うーん。アリア、君の位相が強すぎて、肺ごと潰したみたいだね。まあ、もう長くはないかな』
「え……? 死ぬんですか……?」
震える手を、彼へ伸ばした。
エルヴァンが、ゆっくり顔を上げる。黒い血の涙を流しながら、笑っていた。全身には、無数の黒い線が蜘蛛の巣みたいに広がっている。
「この……イカれた女が……」
その言葉を残した直後。
横の針葉樹の間から、巨大な黒いものが現れる。いや、現れた、というにはあまりに静かだった。
五メートルはありそうな巨体なのに、足音がしない。
黒い身体は、巨大な鹿を無理やりこね上げた形をしていた。四本の脚は関節がずれ、好き勝手な方向へ折れ曲がっている。頭から伸びた角は、自分の身体へ突き刺さる寸前でねじれていた。
漆黒の毛並みの奥には、灰色に濁った二つの目と、顎の下まで裂けた口だけが浮かんでいた。
思考が止まる。半ば開いた口の奥で、歯ががちがちと鳴る。
やがて怪物は、エルヴァンの前で止まった。
彼はまだ口から血を流しながら、その怪物を見上げている。
私は手を伸ばした。
「エ……エルヴァン……」
言葉を最後まで言うより早く。
ぐしゃり。
ばきり。
みしり。
音が続けざまに響いた。
エルヴァンの姿は、怪物の中へ呑み込まれて消える。
『まずい……! アリア、逃げて! 変身、変身!』
クロノアの鋭い声が響いた。ぼんやり固まっていた意識を、その声が強く揺さぶった。
怪物の目が、こちらを向く。そして、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
車椅子の手元へ指を置いた。けれど、手がひどく震えて、ボタンを押すことすらできなかった。
『落ち着いて! まだ日が沈みきってない。今は、わたしの方から変身させてあげられない!』
唾を飲み込んだ――その直後、背後で青い光が一度、閃く。
怪物が耳障りな悲鳴を上げ、横へ倒れ込む。
黒い血が地面へ飛び散り、じゅう、と白い蒸気を立てた。腐った卵と傷んだ乳を混ぜた臭いが、鼻を刺した。
「うっ……」
口元を押さえてえずく。
その前に、カシアン様が立っていた。全身に、真冬の湖を思わせる青い魔力をまとっている。
片方の腕では、白い制服のシャツが裂け、血に濡れて垂れ下がっている。片目の上には長い傷が走り、うまく目も開けられていない。
「逃げろと言ったはずだ。まだここにいたのか」
「そ、それより……ば、化け物が……!」
彼の後ろで、袖を強く握りしめた。
「ああ、あれを言っているのか。魔物だ。噂だと思っていたが……もう山脈を越えてきたとはな」
カシアン様は顔をしかめ、姿勢を正した。
「アリア。すぐに宿舎へ戻って、教官たちを呼んでこい」
「でも……!」
「二度言わせるな。俺は強い。心配はいらない」
私は彼の袖から、そっと手を離した。
息を整え、もう一度彼に背を向ける。そして、車椅子を走らせた。
どれくらい進んだだろう。
――もう、二度目だ。
彼にすべてを背負わせて、自分だけ逃げるのは。
ここからでは、宿舎の明かりは一つも見えなかった。道はひどく荒れていて、車輪が石に引っかかるたび、車椅子が大きく揺れる。速度を上げたくても、思うように進めなかった。
(今すぐ鳥になれれば……)
そこまで考えたところで、私は車椅子を止める。
目を強く閉じる。
カシアン様の傷だらけの姿と、かすかに震えていた彼の指先が、まぶたの裏に焼きついていた。
『アリア、早く行かなきゃ!』
クロノアが叫ぶ。
私は車椅子の向きを変える。
魔物と呼ばれた、あの正体不明の怪物がいる方へ。カシアン様がいる方へ。
『アリア、何してるの!』
私は答えなかった。
『だめだって、アリア! エルヴァンは死んだでしょう! 君まで死んだら、復讐はどうするの!』
「……私を助けてくれた人を、見捨てることはできません」
そう答えて、進んだ。
脚が――感じるはずのない脚の感覚が、何度も後ろへ引き戻そうとしてくる。車輪が土を削る音の一つひとつに、背筋が冷えた。
それでも私は操縦桿を握り直し、前へ、前へと車椅子を進ませた。
直後、目の前の闇を裂いて、何かが飛んでくる。それはそのまま私の身体へぶつかり、車椅子ごと私を倒した。
片手でこめかみを押さえながら、身体を起こす。
視界がぐるぐる回り、焦点が合わない。
太腿の上に、ずしりとした重みがかかっていた。手を伸ばすと、温かい肌に触れた。続いて、指先にぬるりと濡れた感触が絡みつく。
私は一度、強く目を閉じて、開いた。
焦点が戻る。
そこにいたのは、カシアン様だった。
荒い息を吐きながら、身体を震わせている。
「カシアン……様?」
制服のベストは裂け、のぞいたシャツの下、腹のあたりから黒赤い血が流れていた。手には、砕けた剣の柄が固く握られている。
慌てて、彼のシャツをめくった。
息が止まった。
腹部全体が黒赤く腫れ上がり、濃い痣が皮膚の下でまだらに広がっている。裂けた皮膚の間から、血が止まらず滲み出す。
両手で口を覆う。肩が震えた。
頭の中が、白く抜け落ちていく。
その時、ようやくクロノアの声が届いた。不自然なほど冷静な声だった。
『内臓がやられてる。このままだと、そう長くはもたない』
すぐに懐へ手を入れ、スクロールを一つ取り出した。
回復スクロール。
本来なら、エルヴァンに目を抉られたあと、失った目を戻すために用意していたものだった。
そのスクロールをカシアン様の腹に押し当て、叫んだ。
「ヒ……ヒール!」
青い粒子が浮かび上がり、彼の腹の上に薄い膜を編み始める。血は止まり、痣の色もじわじわと薄くなっていく。
彼の頬を叩いた。
「カシアン様! カシアン様!」
返事はなかった。
と、森の向こうから、微かな震えが背中の翼の先を伝い、脊椎まで這い上がってくる。翼の先が痺れ、全身の毛が逆立つ。
そちらを見ると、遠くの闇の中で、ぼやけた影がこちらへ近づいていた。
倒れた車椅子を見る。車輪だけが、行き場を失って空を掻いている。
カシアン様の脇の下へ両手を差し込み、必死に引き寄せた。硬く引き締まった身体が、ずしりと腕にのしかかる。
地面を這いながら、どうにか彼の上半身を車椅子の座面へ乗せた。続いて腰と脚を引き上げ、倒れた車椅子の上へ横たえる。
このままでは、起こした瞬間に落ちてしまう。
制服のブラウスを脱ぎ、彼の胸元と車椅子の背もたれをきつく結びつけた。
車椅子を起こそうとした。けれど、人を乗せた車椅子は重く、少しも持ち上がらない。
「ううっ……!」
もう一度歯を食いしばり、背もたれを全力で押し上げる。
ようやく車椅子が立つ。
手元の自動走行に指を伸ばした。その瞬間、カシアン様が私の手をつかんだ。
力なく垂れた頭。片方の目だけが、私を見ていた。
「アリア……早く、逃げろ……。それと、なぜそんな格好をしている……」
その言葉で、涙があふれた。涙の通った跡に沿って、感覚のなかった頬の痛みが戻ってくる。
「……馬鹿なんですか。どうして、こんなところまで来たんですか……」
彼は手を上げた。触れるか触れないかの距離で、私の涙を拭う。
その瞳には、月明かりを含んだ青い逆光が揺れていた。反映、温かい声で言った。
「絵……誰に渡すつもりだったのか……」
言葉の途中で、彼の手が落ちる。
背後から、魔物の腐った臭いが近づいてくる。
力の抜けた彼の手を一度だけ強く握り、自動走行のボタンを押した。
カシアン様を乗せた車椅子は、後輪が壊れているのに、それでもゆっくり宿舎の方へ進み始めた。
私は振り返った。
十歩もない距離に、魔物がいる。
両手を強く握りしめ、私はそれを睨んだ。
『アリア……? 早く逃げないと』
「いいえ。逃げません」




