19話「碑文」
野外授業二日目の早朝。私たちは宿営地の中央広場に集まっていた。
広場の真ん中では、生徒たちが木剣を握り、剣術教官の号令に合わせて剣を振っている。私はその騒ぎを背に、広場の隅に座っていた。
隣には、同じ終階の同期であるセドリック・エルハルトがいた。濃い茶色の前髪を長く伸ばし、目元を隠した少年だ。
王国最大の商家として知られる、エルハルト侯爵家の一人息子。
体格は同年代の少年たちよりずっと小さく、肩も手首も細い。ゆるいシャツの中で、身体だけが余っているように見えた。
やがて、教官の声が広場に響いた。
「よし、これより自由稽古三十分! それが終わったら朝食だ!」
力の抜けた返事が、あちこちから広場に広がる。
前の方で半袖姿のフレイヤが、首筋の汗を手の甲で拭いながらこちらへ歩いてくる。木剣を握ったまま、私の前にどさりと座り込む。
「はあー、ほんと最悪。せっかく野外授業に来たのに、朝から剣術なんて……もううんざり」
「今さらでしょ。毎年そうじゃない」
「そうなんだけどさあ……」
彼女は袖口をつまんでぱたぱたと揺らし、首を左右に鳴らしてから、隣のセドリックを見た。
「セドリックは今日も見学?」
彼は前髪を片手でさらに引き下ろし、細い声で答えた。
「は、はい……僕は心臓が弱くて……」
「ええー。だから鍛えないと、心臓だって強くならないじゃん!」
「はは……」
ちょうどそこへ、背後から教官が大股で歩いてきて、フレイヤへ手招きする。
「フレイヤ! 早く来い。おまえは俺と打ち合いだ!」
「ええっ、嫌です!」
「駄目だ。おまえの剣は筋がいい。だからこそ、もう少し磨いておきたい。来い!」
「うげぇ……」
フレイヤは顔をくしゃりと歪めて立ち上がった。それからセドリックを振り返り、にっと笑った。
「セドリック、運動したくなったらいつでも言って。このお姉さんが手伝ってあげるから!」
そう言い残し、木剣を地面に引きずりながら教官の方へ歩いていった。
私は彼女の背中へ、そっと手を振るだけだった。
今度は、目だけを動かしてセドリックを見る。ちょうど風が彼の前髪を持ち上げ、深い青の瞳が一瞬だけのぞいた。
そこへ、別の足音が近づいてくる。その音だけで、背筋が伸びる。
足音がすぐそばで止まると、私は先に口を開いた。
「エルヴァン様……何か御用でしょうか」
「おや。見もしないで、どうして僕だと分かったんだい、アリア嬢?」
私は親指の爪の横にあるささくれを、指先で軽く掻きながら息を整えた。
「エルヴァン様の足音は、とても規則正しいので……。気味が悪かったなら、申し訳ありません」
「いや。そこまで注意深く聞いてくれていたということだろう。むしろ嬉しいよ」
前の時間では、こんな流れはなかった。
――疑われてはいけない。ここで流れを変えてはいけない。
胸の内で何度も唱えながら、笑みを作って見上げようとした。しかし、視線だけはやや離れた小屋の壁に縫い留められたまま動かない。
先に沈黙を破ったのは、エルヴァンだった。
「アリア嬢。最近、何かあったのかい? 見るたびに顔色がよくない気がする」
「いいえ……同級生から少し嫌がらせを受けていただけです」
「ああ、彼女たちのことか。僕からも、あれほど注意しておいたのだけれどね……。ともあれ、相応の罰を受けたそうで安心したよ」
彼は私の前へ進み出て、片膝をつく。下から覗き込むように、こちらを見る。
澄んだ青を宿した丸い瞳と、影一つない顔が視界に入った。
「アリア嬢。一つだけ、話してもいいかな」
「は……はい。もちろんです、エルヴァン様」
彼はしばし黙り、それから言葉を続けた。
「よければ明日、自由調査が終わる頃に来てほしい。午後五時くらいかな。ここから北へ十五分ほど歩いたところに、大きな木があるんだ。二人きりで伝えたいことがある」
唾を飲み込んだ。本来なら、これは今日の午後、彼と一緒に白峰を見学して回ったあと、別れ際に聞くはずの言葉だった。
短く息を吸い、かすかに口角を上げて答えた。
「大きな木……分かりました。明日、そこでお会いします」
「ありがとう」
エルヴァンもにこりと笑い、ゆっくりと手を伸ばす。指先が頬をかすめた瞬間、息が喉の奥で止まる。
「アリア嬢、本当に大丈夫? 冷や汗がひどいよ。教官には僕から話しておくから、先に戻って休むといい」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。私、もともと暑がりなので。はは……」
「そうか。そこまで言うなら無理には止めないよ。困ったことがあれば、いつでも呼んで」
彼は笑みを浮かべたまま立ち上がり、剣術稽古の方へ戻っていった。
完全に遠ざかった頃、胃液が鋭く喉を焼き、口元までせり上がってくる。
両手で口を押さえ、唾と一緒に飲み下す。
――あと少し。もう少し。
ただ、それだけを何度も繰り返した。
***
時間は、いつの間にか午後へ移っていた。
私とカシアン様、フレイヤ。そして一人で残されていたところをフレイヤに半ば無理やり連れてこられたセドリック。
その四人で、白峰の町を散策していた。
白峰の家々は、どれも屋根の傾斜が急だ。濃い木材と白い漆喰の壁。煙突からは細い煙が上がり、乾いた薪の匂いが路地に薄く染み込んでいる。
そのすべての向こうには、空を覆うほど巨大な山脈がそびえている。どれほど首を反らしても峰の先が見えない、万年雪をまとった白い壁だった。
通りを行く住民たちは、見慣れない私たちにも軽く頭を下げたり、手を上げたりしてくれる。
いくつかの見学場所を回り終え、私たちは最後の目的地である町の広場へ向かっていた。
そこには、古代の戦士シグムンドと、大魔法使いアルナ――二人の石像がある。
数千年前、この白峰を踏みにじっていた人喰いの蛮族、グリムナル族。その支配からこの地を解放した英雄たちとして、今も語り継がれている。
隣では、フレイヤがぎこちなく足を開いて歩いている。
見学のために借りた、白峰の伝統衣装のせいだった。
なめした獣皮は身体の線が出るほどぴたりと張りつき、胸元から腰まで交差して結ばれた革紐が、身動きを狭めている。腿に巻かれた細い革の裾も、歩幅を小さくしていた。
グリムナル族の支配の名残が、今も衣装の形に残っているのだという。
フレイヤは途中で足を止め、呻いた。
「うう……この服、どうにかならないのかな。動きにくすぎる……」
カシアン様が、温度のない声で返す。
「野外授業は遊びではない。王国の歴史を学ぶ過程だと思え。アリアは大人しくしているだろう」
私はなんとなく襟元を整え、視線を落とした。
「うええ……でも、全身にぴったり張りついて気持ち悪いんですって」
フレイヤがぼやくと、短い歩幅で息を切らしながらついてきていたセドリックが、カシアン様のそばへ寄った。
「あの……それなら、下だけでも先に着替えてくるのはどうでしょう……?」
その言葉に、フレイヤは目尻を下げ、口元だけを持ち上げて「セドリック……」と呟いた。
対するカシアン様は、セドリックを見下ろして冷たく言った。
「なら、二人で行ってこい。こちらは二人でも回れる」
その視線を受け、セドリックの肩がびくりと跳ねた。
「す、すみません……」
彼は小さく呟き、肩を落として前へ歩いていく。
私は車椅子の速度を上げ、彼らの間へ入り込んだ。できるだけ平気な声を作って、二人を見上げる。
「さあ、最後の見学場所もすぐそこです。そこだけ見て、報告書を書いたら早めに戻りましょう。皆さん、長く歩いてお疲れでしょうから」
その言葉に、カシアン様も小さく頷いた。
ほどなくして、広場の中央に立つ石像が見えてきた。
巨大な大剣を持つ、短髪の男の像。その隣には、杖を手にした翼のある長髪の女の像が立っている。ローブの袖から出た手には、包帯を思わせる線が刻まれている。
石像にはいくつも亀裂が入っていたが、染み一つなく清められていた。通りかかった住民の中には、像へ短く頭を下げていく者もいる。
隣でフレイヤが片手に手帳、もう片方の手に鉛筆を持ち、こめかみの横をこつこつと叩きながら首を傾げた。
「でもこれ、何を書けばいいんだろ。ただの石像じゃない? シグムンドとアルナの話なんて何百回も聞いたし、知らないことなんてないんだけど……」
すると、セドリックが石像の下にある碑文へ近づき、しゃがみ込んだ。
「そうとも限りません。情報は、見る人や伝える人によって少しずつ変わるものですから。ここでしか分からないことも、あると思います」
「へえ……なんかそれっぽいこと言うね、セドリック」
セドリックは頬を軽く掻き、碑文を声に出して読み上げた。
「ええと……『大剣を執りし戦士シグムンド、包帯を纏ひし翼の魔法使ひアルナ。二人、手を携へて、グリムナルの枷を断ちたり。白峰に春来たるは、この日を始めとす。行き交ふ者よ、ゆめその名を忘るるなかれ』と書いてあります」
「包帯……そういえば、アルナが包帯を巻いている石像は初めて見るな」
カシアン様が碑文の前へ進み出て言った。
私も近づきながら、言葉を添える。
「そうですね……どこかに怪我でもなさっていたのでしょうか。そういえば、私の知る限りではアルナ様は精霊術師でもあったはずですが、そういう記述はありませんか?」
「精霊か」
カシアン様は顎に手を当て、石像を見上げた。
「精霊ではないが、以前、書庫で読んだ本には、天使と契約を結んだと記されていた覚えがある」
ふと、セドリックがカシアン様を一度見て、それから私へ顔を向けた。相変わらず、目元は前髪に隠れている。
「それも、書いた人の解釈次第だと思います……。そもそも、精霊という存在が本当にいるのかどうかも含めて。結局、集めて並べてみれば、精霊でも天使でも悪魔でも、人がそれぞれの主観で作った名前にすぎないのかもしれません」
「ふうん……」
わずかに顔を伏せた。目を閉じると、クロノアの姿が浮かぶ。
かわいらしい鳥の姿をしていても、ある時は大人のようで、ある時は幼子のようで、ある時はあまりにも率直で、背筋が冷える。
それを何と呼べばいいのか、頭の中で言葉を探してみても、何も見つからなかった。
ふいに、セドリックがはっとして、両手を左右へ振った。
「あっ、でも……星様のことは信じています! 僕は敬虔な信徒ですから!」
背後から、フレイヤの手がセドリックの肩に置かれた。
「何言ってるのか全然分からない……。私は報告書、もう書いたから戻ろう」
彼女の手帳を見た。
「えっ? もう書いたの? ここに来て一分も経ってない気がするけど」
「うん、もちろん! ほら、見て!」
フレイヤは手帳を開いて見せた。
『シグムンドとアルナの石像。すごく大きかった。石なのに本物の人みたいだった。剣が大きくて重そうだった。かっこよかった』
それを読んだ途端、思わずぷっと息が漏れる。
同時に、もう一つ笑い声が重なる。
視線を上げる。すぐ隣で、カシアン様の口元がわずかに持ち上がっていた。
彼もすぐに私と目が合う。静かに目を伏せた彼は、握った拳を口元へ当て、短く咳払いをする。
その仕草に、私は慌てて自分の手元へ視線を落とした。
膝の上に置いた指先が、意味もなく衣装の裾をつまむ。耳たぶが、じわじわと熱くなっていくのが分かった。
こうして最後の見学を終えると、私たちは宿舎へ引き返した。




