18話「白峰」
花嵐月一日。
春はいつの間にか深まり、半袖でも心地よい風が肌に触れる季節になっていた。
これから三日間続く野外授業のため、私たちは王都から北の山脈の麓にある関門都市、白峰へ向かう魔導列車に乗っていた。
黒い鉄板で覆われた列車が、窓の外で青い蒸気を吐き出している。車輪が線路に埋め込まれた魔力石を踏むたび、低い振動が足元へ伝わり、その合間に青い火花が短く散る。
私は四人掛けの個室席に座っていた。隣にはフレイヤ。向かいの席には、カシアン様がいる。
開花の茶会のあと、私は彼ともう一度、絵の話をする機会があった。
相変わらず口数は少なく、表情も冷たい。けれど、以前のように目が合っただけで息が詰まることは、いくらか減っていた。
片手にスケッチブックを、もう片方の手に色鉛筆を持ち、北の空の向こうを眺めた。
出発してまだ数時間しか経っていないのに、すでに巨大な山脈の稜線が見えている。峰には厚い雲がかかり、その下からは雪をかぶった白い山肌がのぞいていた。
山の高さを目で測り、もう一度スケッチブックへ手を戻そうとした時だった。
「じゃーん! 描けた!」
フレイヤが、自分のスケッチブックをテーブルへ勢いよく置いた。
ゆがんだ線の上に、赤、橙、黄、緑、青が何の規則もなく散らばっている。山らしき大きな三角形。その手前に、正体の分からない真っ黒な塊が一つ。
私が口を開こうとしたところで、
「ほう。生まれたての子鹿の足取りのような線だな」
向かいのカシアン様が、横目で絵を一瞥して言った。
「へへ、ありがとうございます。そこまでじゃないですけど」
フレイヤが彼を見て、にへらと笑う。
彼は彼女をちらと見て、わずかに眉を寄せた。それだけで、また自分のスケッチブックへ視線を戻した。
私は「生まれたての子鹿」という言葉で、細い脚を震わせて立つ子鹿を想像してしまった。
ぷっと息が漏れる。
「アリア、どう? 上手でしょ?」
フレイヤがこちらを振り向いた。
「う、うん……子鹿みたいだね……。それより、この真ん中の黒い塊は何?」
片手で口元を隠しながら、笑いを押さえて尋ねる。
「これ? 最近噂になってるでしょ、霊門山脈の怪物! 真っ黒な怪物が出るんだって」
「怪物などいない。子供でもあるまいし、そんな噂を――」
カシアン様が口を挟む。
「ええ、本当にいるんですって。お母様が言ってましたし……」
「その話はいい。アリア、君の絵も見せてくれないか」
「まだ途中ですけど……」
答えながら、スケッチブックをテーブルへ置いた。気づけば、私は片手で横髪の先をくるくると巻いていた。
スケッチブックには、まだ下色しか置かれていない。描かれているのは、霧をまとった山脈と、その下に広がる青い草原だけ。
「大したことのない風景画なので――」
「ほう」
カシアン様が、視線を絵に落としたまま私の言葉を遮った。
「やはり器用だな。霧の白と、稜線に積もった雪の白が、微妙に違う」
「はい! 同じ白の上から少し色を重ねて、霧の薄さを出してみました」
返事の代わりに、彼は自分のスケッチブックをテーブルへ置く。
巨大な山脈の前に、色とりどりの花が咲きこぼれる草原が広がっている。
その上を黒い列車が走り、客車の窓のひとつから、少女がそっと顔をのぞかせていた。
「……すごいです。こんなに多くの色を、ここまで自然に……」
片手で口元を覆い、半分開いた口のまま呟いた。視線は、客車の少女から離れない。
「いや。君のように、近い色同士に細かな変化をつけるのはまだ難しい。この少女の髪色を、少し見てもらえないか」
「え? ……どんな色にしたいんですか?」
カシアン様は顎に手を当て、目だけをわずかに上げて天井を見た。
「……月光を含んだ白。抽象的ですまない」
「いいえ! それなら――」
私が色鉛筆へ手を伸ばすと、隣でフレイヤがにやりと笑って口を開こうとした。
素早く彼女の脇腹を一度つつき、何事もなかった顔で色鉛筆を手に取る。
フレイヤは唇を尖らせ、横目で私を見た。
彼女をひと睨みしてから、言葉を続けた。
「月光なら……少し青みのある白がいいと思います」
そうして時間も忘れ、私たちは列車を降りるまで、ずっと絵の話を続けていた。
***
魔導列車を降りると、肺に入ってきた空気がひんやりと沈んだ。まるで二か月ほど前へ戻った気分だった。
そこから二十分ほど移動しただろうか。
白峰の外れにある野外授業用の宿営地は、針葉樹の森を背にした斜面にあった。
丸太をそのまま積み上げた小さな小屋がまばらに並び、その間を固く踏みしめられた土の道が通っている。
その中央にある広場では、終階の生徒全員――三十人を超える生徒たちが集まり、ざわざわと声を交わしていた。
その前に、一人の男が立っている。
短く刈った金髪に、赤茶けた革の上着。腰に剣を下げ、顎には無精髭を生やした中年の剣術教官。
周囲には、他の教官たちも何人か控えている。
彼のよく通る声が、生徒たちの話し声を一息に貫いた。
「よし、それでは! 全員、宿舎へ行って荷物を置き、服を着替えたら、午後六時にこの広場へ再集合! その後、バーベキューの準備を始める!」
バーベキュー、という言葉に生徒たちの声が一気に弾んだ。
皆、それぞれ同じ小屋に泊まる者同士で集まり、次々と小さな宿舎へ散っていく。
「早く行こう、アリア!」
「う、うん」
私もフレイヤに車椅子を押され、宿舎へ向かった。
小屋はこぢんまりとしていた。
ベッドはなく、灰色の寝具が床に四組敷かれていた。片側の壁には小さな窓があり、部屋には松脂の匂いがほのかに染み込んでいる。
私は寝具の上に横になり、横髪を一房つまんで灯りに透かした。白い髪は細くきらめき、淡く青を帯びていた。
ふいに、三組分の寝具を一人で占領していたフレイヤが、転がりながら私の身体へどんとぶつかってくる。
「ちょっと、フレイヤ! 少しはじっとしてて」
「ええー、こんなに広いところで寝転がれる機会なんて、そうそうないよ」
そう言いながら彼女は反対側へごろごろ転がり、天井を向いたまま止まった。
「それにしても、エレオノーラのやつとギゼラ、いったい何があったんだろうね。一人は転学、一人は一か月も登校禁止なんてさ……」
「そうだね。いい気味」
そっけなく答えた。
次の瞬間、はっと頭を上げ、枕の下へ手を差し入れる。手のひらに触れたのは、柔らかな布の感触だけだった。
本来なら、そこにはエレオノーラが隠しておいた死んだ虫の残骸があるはずだった。
手をゆっくりと引き抜いた。
と、フレイヤが勢いよく身を起こす。寝具の前に置いてある私の車椅子へ近づき、じっとこちらを見下ろしてくる。瞳が、つやつやと輝いていた。
「アリア……私、これ乗ってみてもいい?」
「は? 嫌だって何回言えば分かるの」
眉間に皺を寄せ、彼女を睨んだ。同じことを、いったい何度聞かれただろう。
「でも! この前、蜂蜜菓子を買ってくれなかった代わりに、あとで一回座らせてくれるって言ったじゃん」
魔法陣の授業が終わったあと、イリアお姉様に会いに行くため、彼女を引き離そうとして口にした言葉だった。
片手で額を押さえた。
同時に、開花の茶会で、ずっと私の前に立ってくれていた彼女の背中が浮かんだ。
喉の奥から、短い息が漏れる。
「はあ……分かった」
「やった!」
フレイヤはすぐさま私の車椅子へ飛び乗った。
「待って。操作方法を教えるから――」
言い終える前に、車椅子がすうっと動き出す。
「う、うわっ! すごい! ……あれ? これ、どうやって止めるの?」
「それ、自動走行になってる! 右の取っ手のボタンを二回! 早く!」
「え、ええええ――!」
彼女はそのまま小屋の壁へ真正面から突っ込み、車椅子ごと床に倒れ込む。
「いたたた……」
壁に鼻をぶつけたまま転がっているフレイヤを見て、思わず吹き出した。
灯りの下で淡く青を含む髪も、今日だけは、なぜか嫌いではなかった。




