17話「神託」
いつもより低い位置に月が浮かぶ夜だった。
私はベッドに横たわったまま、片手を天井へ伸ばした。指の間から差し込んだ月明かりが、肌の上に細い青色の線を描いている。
身体の内側を流れるものを探りながら、慣れない音を口の中で繰り返した。
「アフ……ネルサ、エディン……」
『違うってば。アフネル・サエディン。途中で切っちゃ駄目』
クロノアが、すかさず発音を直した。
私は両手でこめかみを押さえた。
「うう……どちらも同じに聞こえるんですけど、何が違うんですか」
『全然違うよ! ルーンは、発音一つで流れの向きが変わるんだから。正しく詠唱して術を発動するのと、勝手に真似するのとでは別物だよ』
「分かっています……分かっていますけど」
壁の方へ寝返りを打つ。
「普通の魔法なら、ファイアボールみたいに発音も簡単なのに。どうして黒魔術は、舌を噛みそうな名前ばかりなんですか?」
『今使われている魔法は、古代ルーンを人間にも発音しやすい形へ直したものだからね。黒魔術には、原型に近いルーンが多く残っているんだ』
「ふうん……」
枕に頬を埋めたまま、もう一度呟いた。
「アフネル……サエディン」
『今度は少しマシ』
「少し、ですか……」
唇を尖らせた私とは反対に、クロノアの意識はすでに別のところへ向いていた。
『それより、練習はそのくらいにして早く行こうよ。キリアンがスクロールをエルヴァンへ渡すところも、さっき確認したでしょう』
「念のためです」
枕の端を指先でつまんだ。
『裏切りに備えた証拠も残してあるんでしょう? 何か起きたら、記録しておいた通信内容が自動でご両親へ送られる仕組みにしたって言ってたじゃない』
「そうですけど……」
シーツを握った指の間に、細い皺が寄った。
「母も共犯である可能性は、まだ捨てきれません」
『ええ? いくら何でも、自分の娘を殺そうとする親なんているわけ――』
眉間に力が入った。
「何も知らないくせに……」
『ん?』
「何でもありません」
再び目を閉じた。すると、クロノアはすぐに駄々をこね始めた。
『退屈。退屈、退屈、退屈。早くカシアンに会いに行こうよ』
「はあ、本当にもう……!」
大きく息を吐き、ベッドの上で身体を起こした。あちこちに傷のついた自分の車椅子へ目をやると、昼間、カシアン様へハンカチを渡した時、黒い瞳の奥を一瞬だけよぎった光が脳裏に浮かんだ。
目を閉じ、青い鳥の身体を思い描いた。
身体がふっと沈む。
一度瞬きをすると、急に大きくなった服が頭上から崩れ落ちる。布の隙間をくぐり抜け、青い翼を広げる。
『やっほー!』
クロノアの弾んだ声が響いた。それと同時に身体が勝手に浮かび上がり、開いた窓へ向かう。
「今日は穀物を食べませんからね」
『えっ、どうして?』
「太ります」
『ええ……』
私は窓枠を蹴り、冷たい夜気の中へ飛び出した。
***
カシアン様の部屋へ入ると、彼はまっすぐ窓辺へ歩み寄ってくる。
寝間着の白いリネンシャツに、薄手の濃灰色の室内着を羽織っている。普段はきちんと留められている襟元が緩み、覗いた鎖骨の辺りに淡い影が落ちていた。
私を見つけた彼の目元が、柔らかく細められる。
「ププ! 昨日はどうして来なかった。どこかでまた怪我でもしたのではないかと、心配していたぞ」
指が一本、窓枠に立つ私の足元へそっと差し込まれた。
その指へ乗ると、寝間着の袖を嘴でつかみ、腕を伝って肩まで登る。そのまま首元へ身を寄せ、翼を小さく畳む。
カシアン様は顔を傾けて私を一度確かめると、そのまま机へ向かった。
「そうだ。君に見せたいものがある」
室内着のポケットへ、片手を入れる。
寝間着姿の彼が取り出したのは、昼間、私が渡したハンカチ。
小さく首を傾げた。
ハンカチはきれいに洗われており、血に染まっていた跡はどこにもない。白い布の隅には、私が刺繍した青い小鳥だけが、元の姿のまま残っている。
「見てみろ。よく似ているだろう?」
カシアン様はハンカチを両手で広げる。口元に浮かんだ小さな笑みは、なかなか消えない。
「アリアという、同じクラスの少女からもらったものだ。彼女も、君を見たことがあるそうだ」
刺繍へ目を落としたまま、ぽつりと続けた。
「そういえば、あの子も冠翼族で、小さな翼があったな……」
指が一本、再び私の足元へ差し込まれた。
彼の手へ乗せられ、そのまま顔の前まで運ばれる。
カシアン様は、私の背中をじっと観察する。
「色は違うが、翼の形も少し似ている気がする」
背中がびくりと跳ねる。とっさに両翼を畳み、身体の後ろへぴたりと押しつける。
彼は私の頬を数度撫でてから、机の上へ下ろした。
「そういえば、彼女からもらったものがもう一つある」
そう言って引き出しを開け、奥へ手を伸ばす。取り出したのは、新しい色鉛筆のセットとスケッチブック。
色鉛筆はどの色も芯の先がわずかに丸みを帯びていたが、長さも向きも寸分違わず揃えられている。
カシアン様はそれを持ち上げ、眺めながら言った。
「これほど多彩な色が揃った色鉛筆を使うのは初めてだ。一度くらいは欲しいと思っていたが……まさか、あの子からもらうことになるとはな」
指が、色鉛筆の箱の蓋を辿る。
「教室で絵を描いたことはほとんどないのに、どうして俺がこれを欲しがっていたと分かったのか、少し不思議だ」
その言葉に、身体が小さく震える。顔をそむけ、胸元の羽を嘴で二、三度ついばむ。
「入学して間もない頃だったか。絵画の授業で鉛筆ばかり使っていた俺に、あの子が自分の色鉛筆を何本か差し出したことがあった」
カシアン様は色鉛筆を机へ置き、スケッチブックの隅へ視線を落としたまま続ける。
「もちろん、丁重に断ったが」
私は勢いよく顔を上げる。
丁重に?
勇気を振り絞って色鉛筆を差し出した幼い私を、彼は冷ややかに一瞥した。「必要ない」とだけ告げ、すぐに背を向けた。
あの日から私は、カシアン様の席へ近づくことさえできなくなった。
嘴をかちかちと鳴らしながら彼の手元まで歩き、その手の甲を勢いよくつついた。
彼は私の嘴を指先で軽く押し返し、ふっと笑った。
「なんだ、不満でもあるのか? 王子ともあろう者が色鉛筆で絵を描くなんて、女の子じみていて恥ずかしいだろう」
彼はスケッチブックへ目を落とした。指先が、その角を何度もゆっくりとなぞっている。
その手に、記憶の中の別の手が重なる。
私が描いた絵の上へ伸びてくる、母の手。
紙を乱暴に引き裂き、色鉛筆をひとまとめにつかんで、真ん中からへし折った乾いた音。
――そんなに暇なら、歩く練習でもしていなさい。
腕をつかまれ、冷たい水の中へ投げ込まれた瞬間。
私は静かに顔を伏せた。
カシアン様の指がスケッチブックの端をなぞるたび、紙がわずかに沈み、また元へ戻っていく。
ふいに、窓の方から羽音が聞こえる。
ソリアが部屋へ飛び込んでくる。足首には、小さく巻かれた手紙が結びつけられていた。
「ピヨッ、ピヨッ」
カシアン様はすぐに席を立った。
「トト。今日は少し遅かったな」
窓辺へ向かい、ソリアを指へ乗せると、もう片方の手で手紙の紐を解いた。
「さて、今日はどんな知らせを持ってきた?」
話しながら、指先でソリアの長い冠羽の間を優しく掻く。ソリアは目を細め、じっとその手を受け入れていた。
カシアン様はそのまま、部屋の隅に置かれた大きな金属製の鳥籠へソリアを連れていった。
私は机の脇にある、自分の木箱へ目を向けた。
続いて、部屋の隅の鳥籠を見る。
中には高さの違う止まり木がいくつも渡され、水入れには澄んだ水が満たされている。餌入れにも、穀物が山になっている。
木箱を足で何度も蹴った。
ソリアを鳥籠へ下ろして戻ってきたカシアン様が、その姿を見て足を止めた。
「どうした、ププ。家が狭いのが不満なのか?」
もう一度、木箱を蹴った。
「ちょうど、君のために新しい鳥籠を注文したところだ。来週には届く。もう少し待っていろ」
それを聞き、私はようやく木箱から一歩離れた。
鳥籠の中のソリアへ向かって胸を張り、鼻から強く息を吐く。
ソリアは、両目を静かに瞬かせただけだった。
その姿を見ながら、ふとクロノアへ尋ねる。
「ところで、ソリア様もお話しになれるんですか?」
『もちろん。あの子も精霊だからね。ただ、精霊はもともとお喋りじゃないし、人間に好意的とも限らないんだ』
「では、クロノア様は?」
『わたしは例外! 人間といると面白いからね』
と、机から小さく規則的な振動が伝わってきた。
とん、とん。
カシアン様が指先で手紙の端を叩いていた。唇は真っ直ぐに結ばれ、低く沈んだ黒い目が文字の上を動いている。
小刻みに歩き、手紙へ近づいた。
――資金不足により、風力石の改良は遅延。一部の貴族家は北方支援を縮小し、王都を中心とした遮断杭の開発へ注力するよう要求している。
王宮秘書室から届いた報告書。
風力石なら知っている。魔力を風へ変換して放出する魔力石だ。
しかし、遮断杭という名称は初めて目にした。
遮断。杭。
二つの文字から浮かんだのは、地面から高く突き出した巨大な柱だけだった。
もう一度手紙へ目を落とすと、今度は『北方』という文字が真っ先に飛び込んできた。
一瞬、目の前を黒い雪が横切る。
あらゆるものを呑み込んでいった、あの黒い平原。
私は唾を飲み込み、さらに身を乗り出した。
その前で、カシアン様は手紙を畳み、鍵のついた小箱へしまう。
「そんなに熱心に覗き込んで。文字にでも興味があるのか?」
そう言うと、彼は私の身体を両手でくるむように包み、木箱の中へ下ろした。
「もう遅いから、そろそろ寝よう」
灯りが消される。
暗闇が部屋を満たし、昼の名残をとどめていた空気も、少しずつ冷えていった。
***
カシアン様が眠りについたあと、私は音を立てずに木箱から這い出した。
一歩踏み出すと、嘴の先にかすかな違和感があった。足で穀物の殻を払い落とし、もう一度進もうとした瞬間、見えない手に引き留められ、身体がぴたりと止まった。
「そろそろ行きましょう、クロノア様」
『待って……あと一口だけ……』
返事の代わりにくるりと向きを変え、軽く飛び上がって窓枠へ降り立った。
その瞬間だった。
窓の外の景色が、突然こちらへ押し寄せる。
遠くに並んでいた屋根と霜灯の光が一斉に引き寄せられ、次の瞬間には小さな点へ潰れていく。耳の奥では、低く長い耳鳴りが響いている。
その音の間から、声が流れ込んできた。幼い少女を思わせる、あどけない声。
しかし、その響きは底の見えない深海から浮かび上がってくるほど、深く重かった。
『一日を重ねて歩む子よ』
私は反射的に顔を振り向けた。
部屋は、もうない。
目の前には、果ての見えない青い草原が広がっている。木も岩もなく、影一つ落ちていない。空の大半を埋め尽くす巨大な太陽だけが白く燃えていたが、目を刺す光も、肌を焼く熱もなかった。
その中央に、巨大な鳥の姿が立っている。
純白の羽毛は日差しへ溶け、輪郭さえおぼろだった。長く伸びた冠羽の周りを、金色の炎がゆっくりと流れている。
ソリアだ。
彼女は片方の目だけを開き、私を見下ろしていた。
「これは、いったい……」
翼を身体へ引き寄せようとした。だが、動いたのは腕だった。
目の前にあったのは青い羽ではなく、月明かりを受けた自分の手。いつの間にか、人の姿へ戻っている。
ソリアは一度瞬きをしてから、再び口を開いた。
『我が子の口元に、忘られし光を取り戻してくれし礼に、一言だけ残さん』
「我が子……? 誰のことを――」
『おまえは、おまえのままであれ』
声が草原全体を押し包んだ。
私の言葉は口から出る前に、その響きへ呑み込まれる。
『刃を握るとき、その鋼に映りしは、いつもおのれの面ぞ。振り下ろす前に、三度、その面を覗き込むがよい』
「それは、どういう……」
ソリアの瞳が細くなった。太陽そのものを宿した瞳が赤々と燃え、真っ直ぐ私の目を射抜く。
『影を違えて裂きし翼は、おのれを呼ぶ声をも、聞き分けられずなろう』
不意に、巨大な太陽の下へ影が差す。空を仰ぐと、太陽の端が黒く染まり始めている。
私は一歩後ずさった。
「待ってください。それは、いったい何を――」
返事はなかった。
太陽は完全な闇へ沈み、草原もまた、巨大な沈黙を湛えた深海へと落ちていく。
頭の中が激しく回る。
腕も足も動かしているはずなのに、どこにも感触がない。自分がどちらを向き、どこに浮かんでいるのかさえ分からなかった。
その時。
『アリア?』
頭の中で、聞き慣れた声が響いた。
目を瞬かせる。
窓の外には、再び王都の夜が広がっている。
屋根の向こうへ青い霜灯の明かりが連なり、遠くに見える王城の尖塔には、霞んだ月がかかっている。
気づけば、身体は再び青い鳥の姿に戻っていた。先ほどまで見ていた光景は、思い返そうとするそばから輪郭を失い、急速に薄れていく。
私は鳥籠へ顔を向けた。
ソリアは止まり木の上に座り、両目を固く閉じていた。白い胸だけが、呼吸に合わせてかすかに上下している。
『アリア、大丈夫? 急にぼんやりして、どうしたの?』
「え……?」
一度、頭を振った。
「……急に、頭がぼんやりして」
『疲れすぎているんじゃない? 早く戻って寝よう。今日もお疲れさま』
私は答えず、ベッドの方へ目を向けた。
カシアン様は眠っていた。枕の上へ散った黒髪だけが、月明かりの中に淡く浮かび上がっている。
私はその寝顔をしばらく見つめてから、窓の外へ身体を投げる。
夜風が、翼の下へ入り込む。
それでも、幻の中で聞いた声は、寮へ戻る間も耳の奥に残り続けていた。




