16話「返礼」
エレオノーラは私の前まで大股で歩み寄ると、何も言わずに腕を振り抜く。
バシッ。
首が横へ弾かれた。キリアン叔父様の術式のせいで、すでに鈍く響いていた頭の奥へ、鋭い痛みがさらに突き刺さる。
彼女は、くしゃくしゃに皺の寄った手紙を私の目の前へ突きつけ、乱暴に広げた。
そこには、ファルケンベルク伯爵夫妻が最近、縁談をめぐって言い争ったことや、次男の成績を隠すため、教官へ圧力をかけようとしたことが記されている。伯爵夫人が社交界の令夫人たちを陰で罵った言葉まで、一つずつそのまま書き写されている。
どれも、彼女が両親との通信で、何の警戒もなく口にしていた話だった。
最後には、短い一文が添えられている。
――ご令嬢が学院内で、ご家門の内情をあまりに率直にお話しになっているようでしたので、心配になりお知らせいたしました。
片手で鼻を押さえたまま、彼女を見返した。
エレオノーラが、私の胸倉をつかむ。
「これを送ったのは、あんたでしょう? 何度考えても、あんた以外にいないのよ! どこで盗み聞きしてたのよ、この気味の悪い女!」
襟元が締まり、息が浅くなる。
何も言わずに彼女を見上げていたが、思わず、ぷっと息が漏れた。
エレオノーラの目がさらに歪む。後ろに立っていた女子生徒たちも、それぞれ手紙を取り出して振りながら近づいてくる。
「あんたのせいで、お父様に外出を禁じられたのよ!」
「お母様に、人前でどれだけ叱られたと思っているの?」
胸倉をつかむ手へ目を落とし、口を開いた。
「別に、間違ったことは書いてないでしょ」
彼女たちの声が、ぴたりと止まる。
「群れて、自分より弱い相手をいじめることしかできないくせに、ご両親に叱られるのはそんなに怖いのですね」
エレオノーラの顔へ、一気に血が上る。
彼女の足が、車椅子の下を蹴りつける。前輪が横へ曲がり、身体が大きく傾く。手をつく間もなく石畳へ投げ出され、手のひらと肘がざらついた地面を擦った。
再び流れ出した鼻血が、石の上へ赤い斑点を作っていく。
彼女は倒れた私を見下ろした。石畳に落ちた血を目にした瞬間、その目がわずかに見開かれ、足先が止まる。
けれど、すぐに唇を歪めた。
「はっ。どれほど出来損ないの身体なら、転んだだけで血を流すのよ。汚らわしい冠翼族のくせに、人間に向かって――」
彼女の足が、もう一度持ち上がる。
両目を強く閉じ、腕で頭を覆った。
「何を騒いでいる」
低い声が、小道の向こうから届いた。
恐る恐る目を開くと、最初に灰色の礼装の裾が見えた。その上に、漆黒の髪と、横に長く切れ込んだ黒い目が現れる。
カシアン様。
エレオノーラは慌てて足を下ろした。
スカートの裾を整えるふりをしながら私の前へ立ち、姿を隠そうとする。背筋こそ伸びていたが、扇を握る指は落ち着きなく位置を変えている。
「カ、カシアン様……。このような人気のない場所へ、どうして……」
「裏庭は、もともと俺がよく来る場所だ」
カシアン様の視線が、エレオノーラの肩越しにこちらへ向けられた。
「それより、聞こえなかったのか。何を騒いでいると聞いた」
「これは大したことではなくて――きゃっ!」
カシアン様が、エレオノーラの肩を押しのける。
彼女がよろめきながら横へ退き、その向こうで、私とカシアン様の目が合った。
黒い瞳は光を返さず、まっすぐこちらを捉えている。周囲の空気まで冷え切った気がして、息が喉につかえる。
「以前から仲がよくないことは知っていた。だが、これは度が過ぎるぞ、エレオノーラ。このまま済むと思うな」
「違うんです、カシアン様。これには理由があって……あの女が先に――」
その言葉を断ち切るように、カシアン様の声が落ちる。刃に霜をまとわせたほど冷たい響きに、エレオノーラたちは一斉に肩を震わせ、口を閉ざす。
「二度言わせるな。全員、今すぐ立ち去れ。処分は追って言い渡す」
命令はエレオノーラたちへ向けられたものだったが、私の背筋まで強張った。心臓が肋骨へぶつかり、耳の奥まで響くほど激しく脈打っていた。
エレオノーラは震える唇を噛み、涙を滲ませた目で私を睨みつけていた。そのまま踵を返すと、他の女子生徒たちも同じような顔で後に続いた。
遠ざかる靴音が、しばらく裏庭に残っていた。
カシアン様は倒れた車椅子を起こし、私の前まで運んでくると、片手を差し出す。
「手を貸そう」
先ほどと変わらない無愛想な声だったが、その末尾に残っていた冷たさは消えていた。
「……一人で戻れます」
差し出された手を取らず、車椅子の肘掛けをつかんだ。
けれど、指がひどく震えて力が入らない。身体を起こそうとした途端、血のついた手のひらが滑り、もう一度地面へ傾く。
カシアン様の腕が、とっさに背中を支えた。もう片方の腕が膝の裏へ入り、身体がふわりと持ち上がる。鼻先へ、淡い石鹼の香りと、乾いた紙の匂いが入り込んだ。
反射的に、彼の袖を強くつかんだ。細かく織られた布地は見た目よりも柔らかく、その内側からは、人の体温がはっきりと伝わってくる。
彼は何も言わず、私を車椅子へ座らせた。
「……ありがとうございます」
言葉の最後に、ひっ、としゃっくりが混じった。
顔を上げると、私がつかんでいた袖へ、黒ずんだ赤い染みが広がっている。
「ち、血が……申し訳ありません! あとでお渡しいただければ、私が洗って――」
最後まで言い終える前に、カシアン様は噴水へ歩いていった。
袖口を水へ浸し、指先で血を数回擦り落とす。水滴を軽く振り払った彼は、そのまま私の前へ戻ってきた。
「気にするな。服など、自分で洗えばいい」
慌てて懐からハンカチを取り出し、彼へ差し出した。
「本当に申し訳ありません。せめて、こちらで手を拭いてください」
「ん? ありがとう」
カシアン様はハンカチを受け取り、手の水気を拭った。
その指が、隅に刺繍された青い小鳥の上で止まる。いつも静かに沈んでいた黒い瞳の奥を、一瞬だけ小さな光がよぎった。
彼は親指で、刺繍された翼をゆっくりと撫でた。
「……変わった鳥だな。この形の刺繍は見たことがない。自分で縫ったのか?」
「はい。私が、自分で……」
「よくできている。こんな鳥を、実際に見たことがあるのか?」
カシアン様はハンカチから視線を上げ、私を見た。
視線を横へそらす。青い鳥になった自分の姿が脳裏へ浮かんだが、それを口にするわけにはいかない。
ちょうどその時、空を小さな鳥が一羽横切った。
「そ、その……はい。夜空を眺めていた時、変わった姿の鳥を見つけて……」
カシアン様が一歩近づく。
「本当か。昨夜見たのか?」
普段よりも、わずかに早い声だった。
「は、はい……! 昨夜、見ました」
「そうか。よかった……」
彼は小さく息を吐き、空へ視線を向けた。その口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がする。
そういえば、昨夜はワープスクロールを作り終えたあと、そのまま眠り込んでしまい、彼の部屋へ行かなかった。
膝の上でつかんでいたスカートから、静かに指をほどいた。胸の奥が、細く締めつけられる。
カシアン様は再び、手元の青い鳥へ視線を戻した。
「今日も見かけたら、俺に知らせてほしい」
「もちろんです……」
「ありがとう。それより、これは俺にくれるものなのか?」
「はい。以前いただいたハンカチのお礼に、カシアン様へ差し上げようと――」
言葉の途中で、カシアン様がハンカチを私の鼻先へそっと当ててくる。
驚いて視線を上げると、カシアン様の顔がすぐ前にある。青い鳥の姿で、彼の手のひらに載せられていた時と、ほとんど変わらない距離だった。
背中の翼の先が細かく震え、しゃっくりが立て続けに込み上げる。
私は慌てて身体を後ろへ引き、再びスカートを握った。
カシアン様の手が、途中で止まる。
「触れられるのは嫌か?」
「い、いいえ! そういうわけでは……」
「その姿では、どこへ行っても騒ぎになる。早く戻って、顔を洗ってこい。目立つ血は拭っておいた」
彼は血のついた面を内側へ折り、ハンカチを丁寧に畳んだ。そのまま自分の懐へしまい、言葉を続けた。
「君からは、受け取ってばかりだな。傷が痛むなら、医務室まで連れていこう」
「いいえ! 大丈夫です!」
思っていた以上に、大きな声が飛び出した。
「私の車椅子がどれほど速いか、ご存じないでしょう? は、はは……それでは、また明日、学院で!」
すぐに車椅子を動かした。
カシアン様へ背を向け、小道に沿って無我夢中で進んでいく。車輪が小石を踏むたびに身体が揺れ、背中の翼もなかなか静まらず、何度も落ち着きなく持ち上がった。
ふいに、胸よりやや下――古い傷跡が残る辺りに、鈍い痛みが響く。
胸の高鳴りとは違う。皮膚の内側にある硬い何かを、小さな槌で叩かれているような痛みだった。
車椅子の速度を落とし、そこへ手を当てた。痛みは心臓の鼓動に合わせてしばらく続き、ふっと消えた。
手元へ目を落としたが、ドレスの上から見えるものは何もない。
私は再び車輪を動かし、裏庭の端が見えるまで、振り返らずに進み続けた。




