20話「濁色」
夜、宿舎の中。
窓の外から、暮れていく森の音が聞こえていた。草虫が低く鳴き、時折、枝の間を風が抜けて、葉をさらさらと揺らしていく。
隣では、フレイヤが大の字になり、一人で寝具三組分を占領して眠っていた。
私も目を閉じる。
身体は水を吸った綿のように重く、手足の節々までだるさが沈んでいる。それなのに、頭だけは妙に冴えている。
明日の約束と、今日のカシアン様との会話が絡まり合い、頭の奥を小さく突いていた。
クロノアが声をかけてきた。
『眠れないなら、少し外の風に当たってきたら?』
「この時間にですか……?」
『うん。わたしの姿になればいいでしょう』
顔を横へ向け、フレイヤを見た。
彼女はすっかり緩んだ顔で、むにゃむにゃと口を動かしながら眠っている。
目を閉じ、青い鳥の姿と、その感覚へ意識を沈めた。
一瞬で身体が縮み、ずり落ちた服が上から覆いかぶさってくる。ただちに嘴で袖口をかき分け、布の外へ抜け出す。
そのまま飛び上がり、窓の隙間をすり抜けて外へ出る。
空気は、さらに冷たく沈んでいる。
小屋の屋根に降り立ち、周囲を見回す。
針葉樹の森は、澄んだ月明かりを受けて濃い青の影を落としていた。その向こうには、巨大な山脈が闇に沈み、空の半分を塞いでいる。
鼻先へ、どこか生臭い湿った土の匂いが流れ込んでくる。
ふと、今日石像の前で交わした話を思い出し、慎重に口を開いた。
「クロノア様。クロノア様は、精霊……なんですよね?」
『ん? もちろん。急にどうしたの?』
「いえ……昔はよく考えていたんです。天使も悪魔も、精霊も、星様でさえ、本当は存在しないんじゃないかって。クロノア様には全部話していませんけど、消えてしまいたいと思ったことも、何度もありました」
そこまで言って、夜空の星を見上げた。言葉を続ける。
「でも……クロノア様に会って、時間を巻き戻して、こうして鳥になって、二本の足で歩く感覚まで知ってしまったのに……かえって現実味がないんです。長い夢の続きを見ている気がして」
短い沈黙が落ちた。森が風に揺れる音だけが響いている。
やがて、クロノアが言った。
『夢かどうかなんて、今はどっちでもいいんじゃない? 君がその足で立っている屋根は本物だよ。それだけで十分でしょう。深く考えすぎなくていい。星は頭で測るものじゃなくて、ただ見上げるものだから』
「はは……そうですね」
不意に、周囲の音を縫うように、ひゅっ、ひゅっ、と何かが風を切る規則的な音が、かすかに耳へ届いた。
片耳をそちらへ傾け、音のする方へ静かに飛んだ。自分たちの宿舎とは反対側。男子生徒たちが泊まっている小屋の方だった。
窓辺に降り、頭だけを出して中をのぞく。
そこに、カシアン様がいた。誰もいない部屋の中央に一人で立ち、木剣を振っている。
剣を握ったことのない私にも分かった。無駄な動きが一つもなく、湖面に立つさざ波のような剣筋。
汗に濡れたシャツが身体に張りつき、鎖骨の線が浮かんでいる。首筋を伝った汗がそのくぼみを流れ落ちる。
表情には何も浮かんでいない。わずかに開いた唇で息を整え、頬を伝う汗を手の甲で拭った。
私はそこから目を離せない。喉の奥で、乾いた唾が何度も落ちていく。
『アリア?』
クロノアの声が響いた。
「は……はい? 何でしょう?」
すぐにカシアン様から顔をそらし、関係のない方を向いて答える。声が上ずる。
『ふうん……』
クロノアの声が、ふっと低くなった。
『アリア、カシアンのことが好きなの?』
「え?? 何を馬鹿なことを言っているんですか」
『どうして? そんなに心臓が跳ねてるのに。恥ずかしがらなくてもいいよ。生き物なんて、魅力的な相手がいれば欲しくなるものなんだから』
軽く飛び上がり、また屋根の上へ戻った。足で屋根をこつこつ叩きながら言い返す。
「もう、本当に! どうして人の感覚まで全部分かるんですか。変態みたいです」
『いや……わたしは君でもあるからね。感じたくなくても伝わってくるんだよ』
「と、とにかく、余計なことを言わないでください。あんな冷血漢のどこがいいんですか。……どうせカシアン様が好きなのは鳥だけですし。それに、王家に近づけるのはお姉様の方です。私なんかが、何を……」
私はそっと顔を伏せた。
『どうして? お姉さんが何の関係あるの?』
「お姉様は、宮廷魔導長になる方ですから」
『それって何?』
「オルネン家は、宮廷魔導長としてしか王家と縁を結べない魔導家なんです」
『どういう意味?』
「そういうものなんです。もう聞かないでください」
私が深く息を吐いたとき、下の道で、松明を持って見回りをしている二人の姿が目に入る。
一人は早朝の中年の剣術教官。もう一人は、それよりいくらか若く見える赤毛の女性魔術教官だった。
二人は並んで歩きながら話している。
魔術教官が口を開いた。
「何だか嫌な感じがするのよね……変質した獣が出るって話。本当にただの噂なのかしら」
「クレア、まだその話か。こういう時だけは、まるで怖がりの少女だな」
剣術教官がくつくつと笑うと、魔術教官は彼の脛を軽く蹴った。
「少女扱いするなって言ったでしょ! それに、あたしは真面目に言ってるの」
すると、剣術教官が彼女の手を取る。彼女は頬を赤くしながらも、その手に指を絡める。
「まあ、何があっても、俺たちは学生たちを無事に守ればいい。あとは王国が何とかするだろう」
「ふ、ふうん……それより、少し近すぎない?」
「もっと近い方がいいか?」
「もう、いいから」
二人はそうやって言い合いながら、道の向こうへ消えていった。
変質した獣。学院で流れていた、北に怪物が出るという噂。順して、思い出すだけで膝の裏が冷える、あの黒い雪――位相喰い。
いくつもの言葉が頭をかすめた途端、北の針葉樹の奥に横たわる闇が、さっきよりも濃く、粘ついて見えた。
***
野外授業三日目、自由調査の時間。宿営地の近くにある草原。
若葉の芽吹いた淡い緑の草地は、風が通るたび低く波打つ。目覚めたばかりの土の匂いと、雨に濡れた若芽の青い匂いが鼻先をくすぐる。
みずみずしくて、ほのかに苦い匂い――いつもなら、そう感じていたはずだった。
今はその青臭ささえ、どこか生臭く思えた。草が揺れる音の一つひとつが、誰かの足音に聞こえて、肩が勝手に縮こまる。
私の手には、キャンバスと色鉛筆があった。色鉛筆を握る指には何度も力が入り、芯の先はすぐに丸くなる。絵が完成に近づくほど、奥歯を噛みしめる力も強くなる。
巨大な山脈を背に、青い草原に座る金髪の少年。陰影を重ねるたび、空は確かに青いはずなのに、草原だけが濁った色へ沈んでいく。
その時だった。
背後の草むらで、かさり、と枯れ葉を踏む音がする。
「もうすぐ日が沈む、アリア。戻る支度をしろ」
抑揚はない。それでも、もう冷たくは聞こえない声だった。
振り向き、彼を見上げた。
カシアン様が私の隣へ来て、私の顔を一度見る。それから、視線を私の絵へ移す。
「カシアン様。もう戻られたんですね。白峰でのご挨拶は終わったのですか?」
「ああ。つい先ほど終わった」
つい先ほど。
その言葉に、私は白峰の町の方へ顔を向けた。遠くに、建物の尖った屋根だけが、小さな針のように並んで見える。
カシアン様が、また口を開いた。
「それより、その絵は何を描いている?」
「……これは、渡したい人がいて」
「ほう……少年の髪が金色だな」
声が、ほんの少し低くなった気がした。表情はほとんど変わらない。ただ、絵を見下ろす目元だけが、一瞬だけ硬くなった。
彼はふいに視線を外した。
「誰に渡すのかは知らないが……その相手が喜んでくれるといいな」
そう言って、踵を返す。
私は慌てて、車椅子の横に立てかけていた鞄から、もう一枚のキャンバスを取り出した。
まだ何の色も塗られていない。あちこちに、下描きを何度も消して描き直した跡だけが残っている絵。
それを持ったまま、カシアン様の方へ手を伸ばす。
口を開きかける。けれど、声は出ない。
キャンバスを一度強く抱きしめ、また鞄へ戻した。描きかけの金髪の少年の絵を持ち直し、手の中の色鉛筆に力を込めた。
もう一度、色を重ねていく。
青いはずの草原は、さらに深く、沈んだ色へ変わっていった。




