14話「花宴」
白樺月七日。
開花の茶会が催される日。
学院の東側にある硝子温室は、まだ正午にもなっていないというのに、大勢の人で埋まっていた。
頭上に丸く弧を描く硝子天井から、春の日差しが砕けて降り注いでいる。白い大理石の柱の間には、季節を先取りした薔薇や鈴蘭が咲き乱れていた。
庭園のあちこちに置かれた丸テーブルには、金の縁取りが施された茶器と、小さな菓子が整然と並べられている。
貴族たちは家紋の入った礼装をまとい、いくつもの集まりを作っていた。扇が開いては閉じるたび、抑えた笑い声と囁きが、花の香りの中を漂っていく。
私は庭園の隅で、濃紺のドレスを身にまとっていた。
襟元と袖口には銀糸で小さな花模様が刺繍され、裾は膝の下へきちんと流れている。背中には、小さな翼を外へ出すための切れ込みが二つ設けられていた。
茶会の開始を告げる鐘が、三度鳴った。
温室を満たしていた声が、少しずつ静まっていく。
中央の壇上へ、カエレン様が上がった。
今日の彼は、練武場で見た身軽な装いではなかった。ルーンヘルム王家の灰色の礼装をまとい、左肩には銀の狼をかたどった紋章をつけている。腰には儀礼用の長剣が下がっていた。
「星様の御加護のもと、本年も皆様とともに開花の季節を迎えられたことを、心より嬉しく思う」
カエレン様の声が、温室の隅々まで届いた。
挨拶は長くなかった。
参列者の安寧と王国の繁栄を願う、定められた言葉が続く。その間も、周囲の低い囁きは途切れなかった。
「陛下は今年もご欠席か」
「昨年もご病気だと言っていたな。もしや、北のあれが……」
「おい。滅多なことを口にするな」
扇の後ろで、唇だけが動いている。
カエレン様は表情をひとつも変えずに挨拶を終えた。
一礼して壇上を降りると、音楽が再び流れ始めた。茶会の始まりと同時に、大勢の人々が一斉に動き出す。
あらかじめ決められていたかのような速さで、いくつもの輪が出来上がっていった。
その中に、オルネン家の一行が見えた。
先頭にいるのは、母だった。一筋の乱れもなく後ろへ流した白髪と、深い紺色のドレス。
その後ろには、キリアン叔父様と一門の令嬢たち、そしてなぜか欠席するはずだったイリアお姉様が続いていた。
母の視線が、一度だけこちらへ向いた。
私は膝の上で指を組み、すぐに顔をそらした。
以前の記憶が浮かぶ。
服装から姿勢、翼の整え方まで、ひとつずつ指摘された時間。裏庭へ呼び出され、身支度すら満足にできない虫けらだと、手のひらを打たれた時間。
かつ、かつ、と靴音がこちらへ近づいてくる。
その途中で、イリアお姉様の声が聞こえた。
「お母様。あちらにカエレン……様がいらっしゃいますよ。一緒にご挨拶へ行きましょう」
「イリア、先にアリアの――」
「アリアなら、あとで私が見ておきます。ほら、早く」
お姉様は返事を待たず、母の腕を引いた。
私はそっと顔を上げた。
母は扇で口元を隠しながら、こちらを睨んでいた。
周囲にいた令嬢たちも、私を見ている。くすくすという笑い声が、会場のざわめきに埋もれず、耳へはっきり届いた。
「さあ、エララ姉上。参りましょう」
キリアン叔父様が母の前へ出て、行く手を塞いだ。
ようやく一行が、別の方向へ動き始める。
彼女たちが遠ざかると、反対側に集まっていたエレオノーラと、数人の同級生が目に入った。
エレオノーラの目元は、赤く腫れていた。手にした扇を握る指に力が入り、手の甲には青い筋が浮かんでいる。私と目が合った途端、その唇が歪む。
隣の女の子たちも同じだ。
だが、周囲にはあまりにも多くの人がいた。彼女たちはこちらへ来ることもできず、扇の陰で、声にならない言葉を交わしていた。
匿名で彼女たちの親へ送った手紙の内容を思い返す。
気づけば、わずかに顔を伏せていた。口元が、わずかに持ち上がる。
その時だった。
誰かの靴先が、私の車椅子の前輪を蹴った。車体が横へ揺れる。
視線を上げると、中年の男が何気なくこちらを向いた。
私の顔を見て、続けて車椅子へ目を落とす。その視線が、一瞬だけ止まった。
「ああ……オルネン伯爵家の、あの娘か」
男は目を細め、それ以上何も言わずに背を向けた。
不意に、車椅子の取っ手が後ろへ引かれる。
「謝罪は、最後までなさるべきではありませんか」
背後から、フレイヤの声がした。
男は足を止め、振り返った。フレイヤの顔を確認した途端、硬かった表情が目に見えて緩む。
「これは失礼いたしました、ソルベルグ嬢」
彼はフレイヤにだけ軽く頭を下げ、そのまま人混みの中へ消えていった。
フレイヤが舌打ちをした。
「ちょっと! 私じゃなくて、アリアに謝りなさいよ! お腹ばっかり出てるくせに、本当にもう……」
彼女を見上げた。
「フレイヤ」
「ん?」
「ご両親と一緒にいなくても大丈夫なの?」
フレイヤは車椅子を押しながら、肩をすくめた。
「お父様は領地のことで来られなかったし、お母様は妹たちを追いかけ回していて大忙し。私がいなくても気づかないんじゃない?」
離れたところで、金髪の幼い女の子が三人、互いの菓子を奪い合いながら走っていた。その後ろを、一人の女性が引きつった顔で追いかけている。
フレイヤはそちらを顎で示した。
「ほら。今なら呼んでも聞こえないよ」
その後も彼女は、私の車椅子の後ろをしばらく離れなかった。
誰かが近づけば先に立って道を遮り、私が茶器へ手を伸ばせば、何も言わずに取ってくれる。大丈夫だと言っても、彼女は明るく笑うだけだった。
その顔を見ているうちに、震えていた指先へ、少しずつ力が戻ってきた。
どれほど時間が経っただろう。
私は茶会場の隅で、茶器を手にしたまま佇むカシアン様を、ぼんやりと眺めていた。
王家の灰色の礼装は、広い肩と引き締まった身体にぴたりと沿っている。
彼のもとには絶えず人が訪れていたが、カシアン様は終始表情を変えず、短い言葉で応じるだけだった。
一方、その反対側にいるエルヴァンは、大勢の令嬢たちに囲まれていた。一人ひとりと言葉を交わし、明るい笑みを浮かべている。
その姿を見て、胸の内で短く舌を打った。
と、キリアン叔父様が、温室の脇にある扉から裏庭へ出ていくのが見えた。
以前の記憶と、まったく同じだった。
茶器をテーブルへ戻した。
「フレイヤ。少し、叔父様と話してくるね」
「一緒に行こうか?」
「ううん。家族だけで話したいことだから」
フレイヤは眉を寄せた。じっと私の顔を見たあと、車椅子の取っ手から手を離す。
「少しでも変だと思ったら呼んで。すぐに行くから」
私は頷き、キリアン叔父様が消えた方角へ、車椅子を進めた。




