13話「代償」
夕暮れ時。
私は寮の部屋の机の前に座っていた。
片手には衣装棚から取り出した真っ白なハンカチ。もう片方の手で、細い針を動かしている。
針穴に通した青い糸が布を上下するたび、ハンカチの片隅に小鳥の輪郭が少しずつ浮かび上がっていった。
隣には、カシアン様からもらったハンカチを広げてある。数針縫うたびに、そちらへ目を向けた。鳥のくちばしと翼の角度を確かめてから、また自分のハンカチへ針を通す。
ふいに、頭の中に眠たげな声が響いた。
『ふわあ……おはよう、アリア』
「こんばんは、クロノア様」
短く挨拶を返し、刺繍へ意識を戻した。
『何を作ってるの?』
「刺繍です」
『へえ……アリアは手先が器用なんだね。あれ? でも、これってわたしじゃない?』
「……」
答えず、手だけを動かした。青い糸が、小さな翼の先をなぞっていく。
『ところで、隣のハンカチは何? こっちにも鳥の刺繍があるね』
針が布の上で止まった。
隣に広げていたハンカチを、そっと持ち上げる。
「これは……」
言い終える前に、手が勝手に動いた。
ハンカチが鼻先まで持ち上がる。布が鼻に触れ、わずかに残っていた若葉の青い匂いが入り込んできた。
『ん? この匂いは……』
「もう! 人の身体を勝手に動かさないでください!」
すぐにハンカチを顔から離した。
『カシアンだ! 現実でもらったの? まさか、もうそういう――』
「クロノア様!」
声が鋭く部屋を裂く。針のそばに置かれた糸巻きが、小さく揺れた。
唇を固く結び、カシアン様からもらったハンカチを畳んだ。小鳥の刺繍が内側へ隠れるように、一度。
そのまま、引き出しの奥へしまった。
「そういうのではありません。二度とそんなことを言わないでください。私なんかが、そんな……」
最後まで出てこなかった言葉が、口の中で薄れていった。
『……ごめん』
私は返事をしなかった。
もう一度、刺繍を手に取った。針先を布へ当てても、目は何度も同じ場所を滑り、糸の行き先が定まらなかった。
結局、糸が絡まないようにハンカチを畳み、それも引き出しへしまった。
それから鞄を開き、ワープスクロールと回復スクロールを一枚ずつ取り出した。本棚の本の間に隠していた小さな紙も広げ、机の上へ置く。
そこには、見慣れないルーン文字がひとつ記されていた。
線は細く、鋭い。左右へ伸びた線が中央を貫き、人間の両脚をかたどっている。
身体の一部を示す、黒魔術の古代文字。
ワープスクロールを開いた。完成している術式の線を避け、その文字を一画ずつ差し込んでいく。
目的地を定めるルーンと、移動対象を結ぶ線の間。初めからそこに組み込まれていたと見えるよう、青いインクで慎重に書き加えた。
最後の一画を終えると、スクロール全体が青く明滅した。ただし、新しく加えた文字の前で光は止まった。
周囲のルーンは青く揺れているのに、『脚』を示す部分だけが色を失い、空白のまま残っている。
『アリア……本当にやるつもりなの?』
「はい。当然です」
ペンを置いた。息を整えてから、言葉を続けた。
「それに、方法を教えてくださったのはクロノア様でしょう」
『それは君がずっと髪を引っ張って脅すから……』
「人間が勝手に決めた禁忌にすぎないと言ったのも、クロノア様です。星様の御意思に、本当に背くわけでもないのでしょう?」
クロノアは答えなかった。
私はスクロールの上へ手のひらを置いた。
「早く手伝ってください」
『う……うん。もう一度だけ説明するね』
クロノアの声から、いつもの軽さが消えた。
『魔法は、位相の中にある魂の泉から魔力を引き出して、外へ放つ技術。でも、君たちが黒魔術と呼んでいるものは違う』
私は手のひらの下にあるルーンを見下ろした。
『魔力の代わりに、自分の位相の一部を切り離して、相手の位相へ直接押し込むんだ』
私はその先を引き取った。
「一つの生命が抱えられる位相の量には、限りがある」
幼い頃に習った文章を口にした。
「異物となる位相が入った分だけ、本来の位相は押し出されるか、引き剝がされる。その場所を歪な術式が占めることで、身体の壊死や幻覚、神経痛などの症状が現れる」
教会で何十回と聞いた教戒が、あとに続いた。
「星様が創りたもうた魂の器に、異物の文字を刻むべからず。他者の位相を侵す者は星の秩序を裂き、己の名もまた夜の外へ投げ捨てる者なり」
部屋が静まり返った。魔力時計の秒針が、一目盛り進む音だけが聞こえた。
指先から滲んだ汗が、スクロールの縁をわずかに湿らせていく。
『そう。位相そのものを使うから、魔力を封じられている君にも使える』
クロノアの声が、さらに低くなった。
『ただし、押し出した分だけ君の位相も失われる。それがどういう意味か、分かってるよね?』
「はい」
ゆっくりと目を閉じた。
『アリア。本当に、そこまで復讐に執着しなくちゃいけないの? 時間をかけて、魔力の封印を解く方法を探すとか――』
「大丈夫です。一度死んだ身体ですから」
スクロールの上で、指がゆるやかに曲がった。
切り落とされた手首を押さえ、震えている私を見下ろしていた、あの視線。私を見下ろしていた母の瞳。折られた色鉛筆。破かれたノート。食堂で頭からかけられた牛乳。引き裂かれた運動着。
その言葉を、ひとつずつ頭の中でなぞった。
「彼らは、そんなに甘くありません。信じていた人も、結局はみんな私を捨てました。時間をかけすぎれば、未来の記憶を武器にすることもできなくなります」
一度深く息を吸い、吐いてから続けた。
「……何も持たない私が、あの人たちに手を届かせるには、私も何かを差し出さなければなりません」
『それでも……』
「それに、鳥の姿でなければ、クロノア様の位相が削られることもないのでしょう」
目を閉じたまま告げる。
「始めてください」
長い沈黙のあと、クロノアが短く息を吐いた。
『……身体全体の流れへ意識を向けて。位相は君の身体であり、君を君として保つ流れそのもの。その流れを、指先から少しずつ押し出すんだ』
私は呼吸を整えた。意識を身体の内側へ沈める。
心臓よりも、さらに深いところ。血の流れも、骨と肉の境目も届かない場所に、かすかな温かさがあった。
その温もりをつかんだ。途端に、頭の中へいくつもの言葉が押し寄せた。
魔力もない半端者。
尻軽女。
誰かが養分にならなければならない。
顎に力が入る。奥歯が擦れ、小さな音を立てた。
手のひらをスクロールへ強く押しつけ、身体の奥にある温もりを、無理やり指先へ押し流した。
指の内側から、細い糸が一本引き抜かれていく感覚。目には見えない。それでも、確かに何かが抜け落ちていた。
白い光が、閉じた瞼の上へ広がった。
薄く目を開いた。
最初は、針先よりも小さな光。それが細い糸となり、ルーン文字の上を流れ始める。
青い魔力線とは混ざらず、空白だった『脚』の線を、一画ずつ満たしていった。
雪の上へ、月明かりを一滴落とした色。
ぼやけてもいない。眩しくもない。あまりにも澄んでいて、周囲の青いルーンがすべて濁って見えた。
「真っ白ですね……」
『それが君の位相の色。魔力は身体の中を流れる間にいろいろな性質が混ざるから、ほとんどは青系の色になる。でも、位相は加工されていない魂そのものだから』
「へえ……」
完成したスクロールを持ち上げた。
その途端、部屋が横へ傾く。こめかみの奥で鈍い振動が響き、視界だけが一拍遅れてついてくる。
身体の内側から熱が込み上げた。
「う……」
続いて太腿の内側に、鋭い痛みが走る。
呼吸を整えてから、スカートの裾をわずかに持ち上げる。
太腿の内側に、乾いた地面を走る亀裂に似た、細い黒い線が浮かんでいた。長くはなかったが、その周囲の肌が薄い灰色へ変わっている。
「異端の刻印……」
引き出しを開けた。
絵を描く時に紙やキャンバスを切る、小さな短刀を取り出す。
一拍おいて、黒い亀裂の上へ刃先を当てた。
『うう……目を開けていられない……』
クロノアの声が震えた。
私はそのまま、刃を引いた。
「っ……!」
手が震える。刃のあとに沿って、細い赤い線が開いた。額に滲んだ汗が、こめかみから頬を伝う。
『いたっ!』
クロノアの悲鳴が、頭の中に響いた。
傷口がひりついた。
目に刃を入れられたあの時よりは短い。手首を失った時ほど、頭の中が白くなることもなかった。
私は歯を食いしばり、刃先を最後まで滑らせた。
血のついた短刀に、自分の顔が映った。
口元が、わずかに上がっている。
一度、瞬きをした。もう一度刃を見る。
そこには、眉間をかすかに寄せた顔しか映っていなかった。
視線を外し、回復スクロールを持ち上げる。
「ヒール」
青い粒子が、スクロールの上から立ち上がった。
小さな光が宙を漂い、血の流れる太腿へ降りていく。開いていた傷口が、端から少しずつ閉じ始めた。赤い隙間が細くなり、やがて完全に塞がった。
残ったのは、ひりつく熱だけだった。
布で血を拭った。
黒い亀裂は消えている。そこには、刃の通った赤い跡だけが薄く残っていた。
身体を丸めたまま、私は口を開いた。
「これをあいつが使えば……」
『……脚だけが移動対象から外れた状態でワープする。死にはしないけど、君と同じで、失われた位相の場所に黒魔術の刻印が残るよ』
私は完成したスクロールを見下ろした。
「気づかれる可能性は……ないんですよね?」
『ワープは構造がかなり複雑だから……よほど鋭い術者でなければ、別の術式が混ざっているとは見抜けないと思う』
私はスクロールをゆっくりと巻いた。
指先には、まだかすかな震えが残っている。
太腿の赤い跡へ、手のひらを置いた。
――これで、あなたも。
いつまでも、見下ろす側に立ってはいられませんね。




