第九章 砂盤演習(四)
呉猛もまた、乱石灘の小旗を見ていた。
その視線が、初めて旧駅道から乱石灘の後縁へ移る。
あの小旗は、あまりにも目立たない。
兵数は少ない。
位置も、あまりに端に寄りすぎている。
常識で考えれば、あれが主攻になるはずがなかった。
呉猛はしばらく見つめてから、ふいに手を上げた。
白軍の本営後軍から小隊を一つ分け、乱石灘方面へわずかに広げる。
ほんの少しだけ。
完全に本営から離したわけではない。
極めて慎重な一手だった。
沈瓷は顔を上げ、呉猛を見た。
呉猛も、沈瓷を見ている。
二人は砂盤を挟んだまま、どちらも口を開かなかった。
しばらくして。
沈瓷の竹竿が落ちる。
旧駅道前段の歩兵が、ついに白軍から直接見える位置へ出た。
楼上が、たちまちざわめく。
「出たぞ!」
「旧駅道の歩兵が出た!」
「見ろ!」
見物人たちが、我先に中央の欄干へ押し寄せた。
陸闥も目を見開く。
砂盤の上で、旧駅道前段の歩兵は、それ以上進まなかった。
出口の内側、枯林の中で止まっている。
その位置は、ちょうど白軍の弓騎の最大射程の外だった。
もう一歩進めば、弓騎に押さえ込まれる。
一歩退けば、脅威を失う。
「どうして止まった? 今出なければ、本営の口は完全にふさがれるぞ」
「呉参軍の弓騎が、もう出口を押さえている」
陸闥は興奮した。
「兄上、あいつ、塞がれましたよ!」
陸闕は答えなかった。
旧駅道の歩兵が止まった位置が、あまりにも巧妙だった。
あそこは、白軍の弓騎にさらなる前進を強いる場所だ。
弓騎が前へ出なければ、旧駅道の兵を押さえきれない。
だが前へ出れば、枯林に作っていた交差射界に隙間が生まれる。
しかも、いったん枯林の中へ入れば、弓騎の持ち味である機動射撃の優位は、複雑な地形に削られてしまう。
呉猛も、それを見抜いていた。
だから、半隊の弓騎だけを下馬させ、前へ出した。
残りの半隊は、なお出口を守る。
陸闥が欄干を叩いた。
「うまい! 呉参軍は乗らなかった!」
楼上の老将たちも、思わず声を漏らす。
「見事だ」
「半隊だけ出す。旧駅道を押さえつつ、枯林も空にしない」
「あの小僧の旧駅道は、これで死んだな」
だが陸闕は、その瞬間、黒軍の乱石灘後縁へ目を向けた。
全員が旧駅道を見ているそのとき。
沈瓷の竹竿は、あの小旗に落ちていた。
軽く、押す。
乱石灘後縁の小旗が、溝へ入った。
黒軍側の執行兵の指が、小さく震える。
その瞬間、彼はようやく理解した。
あの浅い溝。
誰も気にしなかった、あの細い溝。
沈瓷は本当に、そこを一本の道として見ていたのだ。
兵士はうつむき、小旗を溝の線へ沿わせて進める。
動きは、とても静かだった。
楼上の大半は、まだ旧駅道を見ている。
けれど陸闕と、数人の老将だけは、ふいに乱石灘へ視線を移した。
「あの小旗が動いた」
「どれだ?」
「乱石灘の後ろだ!」
「あんなところを通れるのか?」
誰も答えない。
誰も、すぐには断言できなかった。
砂盤の上で、乱石灘後縁の小旗は、浅い溝に沿ってゆっくり進んでいく。
速くはない。
兵数も少ない。
だが、その進路は、白軍の本営側背の、最も暗い縁にぴたりと沿っていた。
白軍の後軍は、すでに旧駅道方面へ締まっている。
枯林の弓騎は半隊を割き、旧駅道の出口を押さえた。
河湾部の騎兵は、旧駅道と黒軍の中軍をつなぐ線を圧迫している。
北側高地の主力は、なお黒軍の陣へ向けて前圧をかけ続けている。
追撃騎兵も、散った黒軍の前鋒をまだ食っている。
白軍の兵は、どこも正しい位置で、正しい仕事をしていた。
だからこそ。
乱石灘の浅溝の方向に、一本だけ、細い隙間が生まれていた。
騎兵は通れない。
大隊も通れない。
正面から突撃できるほどの幅もない。
けれど。
一隊の軽歩兵を通すには、十分だった。
それを見た瞬間、陸闕の顔色が完全に変わった。
旧駅道は、見せるための刃。
本当に隠していた刀は、乱石灘だった。
陸闕は、はっと沈瓷を見る。
沈瓷は砂盤を見下ろしたまま、表情を変えない。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
呉猛の反応も、恐ろしく速かった。
乱石灘の小旗が溝へ入った、その瞬間にはもう動いている。
竹竿が押し下げられた。
白軍の後軍が即座に収束し、本営の背後をふさごうとする。
だが、半歩遅い。
その半歩が、この一局の勝敗を決めた。
沈瓷の竹竿が、すぐに黒軍の散った前鋒へ向かう。
中央の残隊が速度を落とし、白軍の追撃騎兵の退路を押さえる。
後軍は左へ寄り、白軍の枯林の弓騎が戻る道をふさぐ。
中軍は右へ動き、河湾部の騎兵を押さえ、振り返らせない。
補給路のそばに捨てられていた輜重が、突然、乱石灘上流の枯れた河床へ押し出された。
続いて、「油」と書かれた小旗が乱石灘へ差される。
さらに、赤い旗。
火だ。
一瞬のうちに、火を示す小旗が、乱石灘上流の河床に並んだ。
下流にいる歩兵は、その火へ向かってなお上へ進む。
「これは……」
火旗が差された瞬間、楼上がどよめいた。
「ここで火だと?」
「河床で火を使っても、人には届かないだろう!」
「違う、焼いているのは人じゃない。道だ! 乱石灘は下りの地形だ。火油は河床に沿って、上流から下流へ流れる!」
火勢は河床を伝い、みるみる下へ伸びていく。
それは戦場を横切る、一本の火の壁になった。
白軍の追撃騎兵は、火の壁を正面から越えられない。
迂回するしかない。
迂回すれば、救援は遅れる。
戦場で半歩遅れれば。
すべてが変わる。
観戦楼の上では、誰も言葉を失っていた。
「前の、あの細かい動きは……」
「全部、呉参軍の兵を動かして、救援線を押さえるためだったのか?」
「初めから、前軍も中軍も後軍も、すべて乱石灘の兵を通すために置いていた?」
陸闥は完全に固まっていた。
「兄上……」
陸闕の手は、欄干を強く握りしめていた。
額には、汗がにじんでいる。
今になって、ようやく見えた。
だが見えたときには、戦局はもう最後まで進んでいた。
沈瓷の竹竿が落ちる。
乱石灘の軽歩兵は、火に守られながら浅溝を進み、本営の背後を回り込んだ。
黒軍側の兵士が、その小旗を白軍の本営側背へ差す。
そして手を伸ばし、白軍本営の主旗を抜き取った。
「黒軍軽歩兵、本営へ侵入」
「白軍本営、破られました」
執行兵の声は大きくなかった。
だがそれは、演武場に落ちた鈍い雷のように響いた。
観戦楼全体が、一瞬で静まり返る。
ずっと酒壺を抱えていた老校尉でさえ、酒を飲むのを忘れていた。
酒が壺の口からこぼれ、床へ滴る。
老校尉はそれを見下ろしたのに、拭こうともしなかった。
誰かが、呆然と呟く。
「白軍の本営が……破られた?」
「呉参軍が、負けたのか?」
次の瞬間。
楼上の将たちは、爆発したように騒ぎ出した。
東側へ走る者。
西側へ走る者。
中央まで来て、また引き返す者。
「分からん! もう一度見せろ!」
「乱石灘をどう通った!」
「旧駅道の兵は封じられていたはずだろう!」
「旧駅道は囮だ!」
「囮と言い切るな! あれも本物だった! ただ、最後の一刀じゃなかっただけだ!」
「うるさい、俺に本営を見せろ!」
観戦楼は鍋をひっくり返したような騒ぎになった。
だが今度は、誰も笑っていない。
全員の顔色が変わっていた。
彼らは見ていたのだ。
黒軍の正面は、確かに劣勢だった。
前鋒は甚大な損害を受けた。
中軍は完全に押さえ込まれた。
補給路も、旧駅道も封じられていた。
それでも。
白軍の本営は破られた。
一人の焼き物職人の少年が、大半の盤面で負けているように見せながら、最後に喉元を一刀で断ったのだ。
陸闥は陸闕の横で、しばらく口を開けたままだった。
ようやく、絞り出すように言う。
「本当に……勝ったのか?」
陸闕は砂盤を見つめたまま、頭の中で盤面を巻き戻していた。
前鋒を散らして退かせ、呉参軍に追撃のため分兵させた。
糧隊を下げたのは、呉参軍を糧に食いつかせるために見えた。
だが本当は、乱石灘の上流へ近づけるため。
しかも、呉参軍がその糧に食いつかないことまで読んでいたのか。
旧駅道をゆっくり進ませ、呉参軍に本営正面を守らせる。
さらに枯林の弓騎半隊を前へ引き出す。
中軍を右へ、後軍を左へ寄せる。
輜重を乱石灘へ押し込み、地勢を利用して火を起こし、白軍の救援線を断つ。
乱石灘の小旗を溝へ入れ、本営の側背へ回す。
どの一手も、大きくはない。
どの一手も、その場で戦局を一変させるものではない。
だが、その小さな一手が積み重なり、呉猛ほどの男を、一寸ずつ敗北へ押し込んでいた。
陸闕は低く言った。
「勝ったのは、乱石灘の奇兵だけが理由じゃない」
陸闥は呆然と聞く。
「では、どこで勝ったのですか?」
陸闕は沈瓷を見た。
「呉参軍に、すべて正しく打たせたことだ」
陸闥には、分からなかった。
陸闕も、それ以上は説明しなかった。
なぜなら。
自分でそう言っておきながら、陸闕自身の背筋にも、冷たいものが走っていたからだ。




