第十章 手玉に取られた軍師
塀際の陰で。
陸清禾は、呆然と沈瓷を見つめていた。
砂盤の全体は見えない。
楼の上で将たちが何を叫んでいるのかも、分からない。
ただ、分かることが一つだけあった。
全員が、沈瓷を見ている。
沈瓷は演武場の中央に立ち、手にした竹竿をゆっくり下ろした。
その瞬間。
陸清禾の目の前を、また風雪の光景がよぎった。
軍帳の中。
灯火がゆらゆらと揺れている。
甲をまとった男が軍議机の前に立ち、広げられた地図の上へ指を置いていた。
帳の外から、誰かが切迫した声で報告する。
男は振り返りもしない。
ただ、淡く一言だけ告げた。
「命を伝えろ」
その声が、夢の欠片のような記憶を抜けて、目の前の沈瓷の姿と少しずつ重なっていく。
陸清禾の小腕の内側にある歯形が、さらに熱を帯びた。
危うく、塀の縁をつかむ手が外れそうになる。
「阿満……」
演武場の中。
呉猛は砂盤を見つめたまま、長いこと口を開かなかった。
周囲は、少しずつ静かになっていく。
誰もが、呉猛は怒ると思っていた。
なにしろ、相手は焼き物職人の少年である。
そんな相手に負けるなど、呉猛ほどの人物にとって、どう考えても面目の立つ話ではない。
けれど次の瞬間。
呉猛は、ふっと笑った。
最初は、低く。
やがて、天を仰いで大きく笑う。
「ははははは——!」
その笑い声に、周囲の者たちは思わず固まった。
陸闥は反射的に、陸闕のそばへ半歩寄る。
「兄上、呉参軍、まさか怒りすぎておかしくなったんじゃ……」
陸闕は答えなかった。
呉猛はしばらく笑ってから、ようやく声を収めた。
そして手を伸ばし、白軍の本営側背へ突き立てられた黒い小旗を、そっと正した。
動きは軽い。
まるで、一振りの刀を立て直すようだった。
「よい」
「見事な乱石灘だ」
「見事な——老翁、童を弄ぶ一局だ」
最後の言葉を、呉猛はゆっくり言った。
一字ずつ、噛みしめるように。
演武場には、まだ低いざわめきが残っていた。
だがその言葉が落ちると、四方はまた静まり返った。
老翁、童を弄ぶ。
褒めているようにも聞こえる。
だが、ただの称賛とも違う。
陸闥はしばらく固まり、それから小声で陸闕に聞いた。
「兄上、呉参軍は褒めているんですか? それとも怒っているんですか?」
陸闕は砂盤を見ていた。
白軍の本営側背へ入った、あの黒旗を見る。
それから、黒軍の陣の後ろに立つ沈瓷を見る。
少しして、低く答えた。
「呉参軍は、自分が一局教えられたと思っている」
陸闥の顔色が変わった。
「教えられた?」
「呉参軍が、あいつに?」
口にした陸闥自身が、荒唐無稽だと思った。
呉猛とは何者か。
陸家軍第一の参軍。
父・陸炎の麾下で、軍中の第二人物と目される男。
陸闥は見たことがある。
呉猛が、ただ一つの策で三日のうちに敵軍七路の攻勢を崩したことを。
雪の夜、馬蹄の跡だけで敵の主力がどこに潜んでいるかを読み切ったことを。
そんな人物が。
焼き物職人の少年に、一局教えられたと感じている?
だが、そう考えてみれば。
さっきの一局は、たしかに沈瓷が序盤からずっと導いていた。
呉参軍に、一手一手を自分の判断だと思わせる。
そして最後には、その正しい判断のすべてを、自分の手の中の縄に変えていた。
呉参軍は、読めなかったから負けたのではない。
むしろ、読みが早すぎた。
手が正確すぎた。
だからこそ、一歩ずつ沈瓷が敷いた道へ踏み込んでしまったのだ。
呉猛は改めて目を上げ、沈瓷を見る。
その目には、先ほどの殺意はもうなかった。
けれど、殺意より重いものがある。
「沈瓷」
沈瓷の喉が、きゅっと締まった。
「はい」
呉猛は沈瓷を見据える。
「本当に兵書を読んだことがないのか」
沈瓷は苦く笑った。
「本当にありません」
「師についたことも?」
「ありません」
「家に軍へ出た者はいるか」
沈瓷は首を振る。
「いません」
「祖先は」
「私が知る限り、代々、焼き物職人です」
呉猛は黙った。
沈瓷を長く見つめる。
あまりに長く見られ、沈瓷は背中がじわじわと痺れてきた。
「たしかに、間者には見えん」
呉猛はふいに言った。
「どの国であれ、おまえほどの軍才を、危険を冒して敵国へ間者として潜り込ませるはずがない」
沈瓷は、ようやく胸をなで下ろしかけた。
だが呉猛の次の言葉が、すぐに重くのしかかる。
「だが、焼き物職人にも見えん」
沈瓷は唇を動かした。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
沈瓷自身も知りたい。
なぜ、自分は焼き物職人に見えないのか。
寿瓶を届けに来ただけのはずだった。
それなのに、陸家の屋敷へ足を踏み入れてから、何もかもがおかしい。
砂盤を見れば、分かる。
布陣を見れば、読める。
呉猛のような人物が、次にどう打つのかさえ、まるで先に見えていた。
呉猛は砂盤の乱石灘を指で軽く叩いた。
「今の一局。前鋒を散らして退かせ、旧駅道を明らかな誘いにし、乱石灘を陰で通し、輜重に火をつけて救援線を断った」
「一つ一つを取り出せば、珍しい手ではない」
「難しいのは、その一手一手を、相手が最も拒みにくい場所へ置いたことだ」
そこで、呉猛の声が少しだけ止まる。
「こういう打ち方に近いものを、私は古い軍書で一度だけ見たことがある」
観戦楼の上下で、数人の老将の顔色がわずかに変わった。
陸闕の眉も動く。
「参軍がおっしゃるのは、『升公策』ですか」
呉猛は陸闕を見る。
そして頷いた。
「そうだ」
陸闥は、まるで分からない顔をしている。
「何の策です?」
そばにいた年長の偏将が、声を潜めて言った。
「五百年前、梁末の乱世に、方升という軍神がいた」
「その方升は、生涯で大小百余りの戦を行い、一度も敗れなかったと伝えられている」
「方升が最も得意としたのは、強をもって弱を叩くことではない。奇襲で敵を破ることでもない」
「敵を、自ら袋小路へ入らせることだ」
陸闥は眉を寄せた。
「自ら?」
偏将は頷く。
「敵に一手ごとに得をしたと思わせる。そうして最後まで得を取り続けたところで、ふと気づく」
「自分が、すでに死地に立っていることにな」
陸闥は、背筋に冷たいものを覚えた。
無意識に沈瓷を見る。
十六歳の焼き物職人の少年。
その少年が、呉猛に五百年前の軍神を思い出させたというのか。
呉猛はゆっくりと言った。
「方升の兵書には、『三餌鎖龍』という一局がある」
「糧を虚餌とし、側翼を明餌とし、本営を空餌とする」
「敵に幾重にも兵を動かさせ、最後に伏せた歩卒で中帳を断つ」
「今の一局には、その匂いがあった」
周囲の者たちの表情が、一斉に変わる。
だが呉猛は、すぐに首を振った。
「いや」
「完全に同じではない」
「方升の戦法は、もっと大きな勢を重んじる」
「今の一局は、もっと生きていた」
「方升を学んだようにも見える。だが、方升をなぞっただけではない」
「むしろ——」
呉猛の目が細くなる。
「兵の使い方は、書にあるものよりさらに容赦がない」
沈瓷は、全身が冷えていくのを感じた。
方升。
軍神。
五百年前。
沈瓷は、その名を一度も聞いたことがない。
それなのに、呉猛が「方升」と口にした瞬間。
肩の後ろにあるあの痣が、かすかに熱を帯びた。
まるで、皮膚の下で何かが小さく跳ねたみたいに。
呉猛は沈瓷を見つめる。
その眼差しは、ますます深くなっていった。
この少年には、必ず何かがある。
しかも、ただ事ではない。
そのときだった。
演武場の門口から、低く威厳のある声が響いた。
「寿宴の最中に、刀を抜いて人を囲むとはな」
「呉猛」
「本将に、納得のいく説明をしてもらおうか」
その声で、全員の顔色が変わった。
観戦楼にいた将たちは、次々と楼を下りる。
陸闕と陸闥もすぐに下り、中年の男へ向かって拳を合わせた。
「父上」
「将軍にご挨拶申し上げます!」
呉猛も笑みを収め、拳を合わせる。
「将軍」
沈瓷も一瞬固まったあと、慌てて頭を下げた。
演武場の門口。
陸炎が、両手を背に立っていた。




